14:6
長めです。御容赦ください。
春の息吹を感じるこの日の夜、TF135:パサージュ108は“海賊海岸”の沿岸拠点を襲い、虐殺と劫掠を行いつつ、拠点の頭目とその家族を拉致誘拐した。
この拠点を目標とした理由は、ヴィルミーナの異母兄殺しを行った海賊拠点だからだ。
然るに、拉致目的は異母兄殺害の背後事情を探るため。
拉致した頭目に対する“尋問”は、クレテア領空内を航行中の飛空船内で行われた。
これはラ・モレン警備保障に出向しているベルネシア警備会社『デ・ズワルト・アイギス』の契約条項に、クレテア王国領内における免責特権があったからだ。
デ・ズワルト・アイギス。
古ベルネス語を用いた社名を冠するこのベルネシア籍警備会社は、言うまでもなく“白獅子”財閥の紐付き組織だ。
派遣に際し、ヴィルミーナは条件交渉で免責特権を勝ち得ていた。これが意味するところは、何をしようとクレテア領内では法的に処罰されない、ということ。もちろん、法的に罪を問われないだけで、政治問題が生じれば、不味いことになる。
が、免責特権という便利な手札があれば、使わないという選択肢はあり得ない。
そうして『デ・ズワルト・アイギス』の飛空船内で行われた“尋問”は、どれほど言い訳や理由を重ねても、決して正当化できない蛮行だった。
頭目の目の前で孫や息子や兄弟を惨たらしく拷問して殺害し、娘や孫娘や息子の嫁を凌辱した挙句に喉をゆっくりと切り裂く。死体はバラバラにされて地中海に捨てられる。血の臭いを嗅ぎつけた水棲モンスターが、投げ込まれる遺体を嬉々として食い散らかしていた。
あまりにもおぞましい暴力に、レーヴレヒトを始めとする冷酷非情な特殊猟兵達や荒くれ者が多い海兵隊ですら、関わり合いを避けたほどだった。
甲板で煙草を吹かす海兵隊将校が、船倉から聞こえてくる悲鳴に、うんざり顔を浮かべた。
「アレをやってる連中、身内か?」
国家の正義なんて信じるほど青臭くもないが、斯様な蛮行を平然と、いや、嬉々として行う連中を身内とは思いたくなかった。
「まさか。情報機関の奴らが抱えてる本職連中だよ」
レーヴレヒトは水筒を傾け、
「本当の意味で汚れ仕事をやってる奴らさ」
ふん、と鼻を鳴らす。侮蔑がこもった響きだった。
「傍からすれば、俺達も奴らと目糞鼻糞なんだろうが」
レーヴレヒトは呟いた
「一緒にはされたくないな」
「同感だな」
海兵隊将校は強く同意した。
船倉から悲鳴が続く。
〇
「……呆れた」
「だから言ったでしょう。あそこの連中はどうしようもないのよ」
慨嘆をこぼすヴィルミーナと忌々しそうに鼻を鳴らすユーフェリア。
ヴィルミーナの異母兄殺しの報告に対しての感想である。
では、異母兄殺しの真相を明かそう。
海賊海岸によるヴィルミーナの異母兄殺しは、海賊海岸がベルネシアと白獅子の関与を把握しての報復ではなかった。かといって、ソルニオル事変とも関わり合いが無かった。
Q:では、どういう事情なのですか?
A:ベルモンテ公王家内の内輪揉めでした。
ユーフェリアが夫の遺産を根こそぎ背負って帰国した後、夫の愛妾達が遺産の残余を巡って殺し合いを行い、そこへ公王家が嘴を突っ込んだことで、争いは公王家も巻き込んだ内ゲバに発展した(8:1も参照)。
公王家嫡男が命を落とした後、跡継ぎの椅子を巡って公王家内で長い暗闘が続いた結果、次男坊が玉座に着いた。
が、身内で殺し合いを繰り返した反動か、この次男坊はえらく猜疑心が強く、異母兄がソルニオルの雇われ船長をやっていたことを非常に警戒していた。いつかソルニオルの手を借りて自分を害そうとするのでは、と。
そこへソルニオル事変と地中海騒乱が発生。
不安神経症気味な次男坊は、自身の心を苛む棘を引っこ抜くことにした。海賊海岸の伝手を使い、ヴィルミーナの異母兄を抹殺したのだ。
ソルニオル事変に便乗した脅威の排除。それが真相だった。異母兄にしてみれば、とんだとばっちりである。
「しかしまあ、この調子だといつか私も狙われるかも」
ぼやくヴィルミーナに対し、
「大丈夫よ。ヴィーナはベルモンテの継承権を持っていないから」
ユーフェリアは鼻息をついて言った。
出国する際、母親の権限として娘のベルモンテ公王家継承権を放棄していた。
ベルモンテ公国は聖王教法王庁と結びつきが深く、ヴィルミーナの権利放棄も聖王教枢機卿立会いの許に宣誓されている。
たとえば、公王家の血筋がヴィルミーナ以外全滅した、といった事態でも起きない限り、法王庁がヴィルミーナのベルモンテ公王家継承を認めない。
「もしも連中がヴィーナに手を出そうというなら、私が根絶やしにしてやるわ」
ユーフェリアは真顔で言い放つ。
母の鬼気迫る様子に、ヴィルミーナはふと思う。
「あくまで仮定の話ですけれど、御母様がソルニオルに嫁いだクリスティーナ伯母様のような境遇にあったら、どうなさいます?」
「決まってるじゃない。復讐と報復の機を窺って、必ず実行するわ」
ユーフェリアは即答した。そして、真面目な顔で娘に語る。
「“ヴィルミーナ”。我らレンデルバッハ家はクレテアの圧政に耐えながらベルネス人を糾合し、独立の機を窺った。そして、多くの苦難を乗り越え、同胞の犠牲を積み重ね、ついに独立を果たした」
徳川家康みたいやな。と内心で思いつつ、ヴィルミーナは居住まいを正して首肯する。
ユーフェリアは続けた。
「不撓不屈の志を持ち、重見天日を期して、戢鱗潜翼すべし。これがレンデルバッハ家の信念であり、矜持なの」
心を強く持って、不遇から脱する時が来ることを信じ、時期を静かに待て。
「ま、フランツなんかはさっさと飛び出しちゃったけど」
柔らかな微苦笑を湛え、ユーフェリアはヴィルミーナの薄茶色の長髪を慈しむように指で梳く。
「ヴィーナもがんがん突き進んでいく性質ね」
「御指摘、耳に痛いです」
ヴィルミーナはバツが悪そうに眉を下げる。
不遇に耐えて好機到来を待つより、自助努力で好機を自力で掴み取る性質だ。
前世における地獄の海外行脚でも、手柄を上げて一刻も早く本社へ戻ろうと足掻いていた。そのがむしゃらな努力に対し、本社はさらに過酷な土地へ放り込んだわけだ。パワハラってレベルじゃねーぞ。
「叱っているわけじゃないわ。ヴィーナはそれで良いの。私の自慢の娘だもの」
ユーフェリアは和やかに喉を鳴らし、ふっと息を吐いた。
「まあ、姉さんならきっと徹底的にやるでしょうね」
「え」
ヴィルミーナは目を瞬かせた。徹底的にやるって……何を。
「姉さんは“あいつ”と国に利用された憐れな女ではあるけれど、」
ユーフェリアは小さく肩を竦めて、
「姉さんはレンデルバッハの気質が濃かった。決してヤワな女じゃない。それに」
口端を緩めた。
「怒った姉さんは誰よりも怖かった。“あいつ”なんかよりもずっとね」
〇
「分からない?」
帝国宰相サージェスドルフは眉根を寄せた。
『ソルニオル事変』が本格化して以降、件の自警団による暴力は一向に止むことがない。『ソルニオル公爵屋敷・飛空船突入事件』後、ソルニオル領に陸軍部隊を緊急治安出動させているにもかかわらず、戒厳令下で残忍な殺人が継続していた。
当初、サージェスドルフはベルネシア特殊部隊やヴァンデリックの裏社会、海賊海岸の殺し屋が動いているのかと思った。
しかし状況証拠などから、どうも国内の人間だと分かり、当局と軍のみならず保安庁にも徹底的な捜査を命じた。
が、その捜査報告が『分からない』という体たらく。
悪党面を盛大に歪め、サージェスドルフは報告にやってきた保安庁長官を詰問する。
「尻尾の先すら捕まえられなかったと言うのか?」
「まことに不面目で、申し開きもありません。これはあくまで私見ですが……」
保安庁長官コーネフは周囲を窺い、声を潜めて告げた。
「おそらくは保安庁の者が関与しています」
「? どういうことだ。保安庁は関与していないんだろう?」
「それは間違いなく。組織として斯様な行為に関与していない、と断言できます」
コーネフは生え際が後退した額を撫で、言った。
「しかし、個々人の行動までは完全に把握しているとは言えません」
サージェスドルフは一瞬、呆気にとられる。だが、すぐに立ち直ってその英邁な頭脳を発揮。事態の『不味さ』を理解し、悪党面を仰々しいほど盛大に引きつらせる。
「まさか、そういうことなのか? 保安庁や軍、当局などの個々人が自身の復讐心や信念で動いていると?」
組織統制が利かないという事態は、近代国家における非常事態だ。これを放置すると地方軍閥が出来たり、回復困難な行政腐敗が生じたりする。
「いえ、そこまで“酷く”はありません。件の自警団は紛れもなく組織化されています。ただ、どこの誰がこの自警団を作りあげ、指揮統制をしているか、全く分からない。相当に深く隠蔽された組織です」
コーネフはどこか悔しげに答えた。
サージェスドルフは憤懣の鼻息をつき、嫌みを吐く。
「つまりは卿より腕が立つわけか」
「下手をすれば、宰相閣下よりもですな」とコーネフも切り返す。
「そんな頼もしい奴が敵とは泣けるな」
「敵とは言えないのでは? 現状、彼らはソルニオルしか狙っていません」
「我々の統制から離れ、法に背いている時点で十分すぎる敵だ。放置しておけん。ソルニオルを潰し終わったら、こいつらを草の根分けても見つけ出して潰す」
サージェスドルフはコーネフの見解を蹴り飛ばす。
組織統制を乱す存在を一人でも看過すれば、それは将来の巨大な禍根となることを歴史が証明している。帝国宰相として見逃すわけにはいかない。
「目星の付いた職員がいるんだろう? そいつを締め上げろ」
「現状で仕掛けると、尻尾切りになる可能性があります」
「構わん。影もカタチも分からんでは追いようがない。得るものが少なくとも、全く無いよりはマシだろう」
サージェスドルフは大袈裟に溜息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。肥満体の重心を預けられた椅子が悲鳴を上げる。
「しかし、帝国内にこれほど巧みな隠密不正規戦を仕掛けられる人間がいたとはな。まるで地中海を荒らしまくってるベルネシアの、よう……」
ぶつぶつと独り言ちているうちに、サージェスドルフはふと気づく。
そうだ。この自警団は手口とやり口の方向性こそ違えど、その手管はベルネシアのそれとほぼ変わらん。
それに――居る。
帝国内にはベルネシアで最高の教育を受けて育った人間が居る。
儚げで哀しげな美女が脳裏をよぎる。初めてあの横顔を見た時、自分に似合わぬ感情――この世の不条理と理不尽に義憤を覚え、あの美しい女性に憐憫を抱いたものだ。
その第一印象を根幹として誤認していたことを、サージェスドルフは認めざるを得ない。
そもそも、か弱い女ではあのドブネズミ一族の凌辱に耐えられるわけがない。事実、先妻は心を病んでしまった。
では、彼の御婦人は耐えられた理由は?
元々が極めてタフな心を持つ人間だったとしたら? 20余年に及ぶ恥辱と屈従の人生の中で報復と復讐の計画と準備を進めていたとしたら?
自分は憐れな貴婦人を利用したつもりだったが、もしかしたら”機会”を与えてしまったのかもしれない。
「閣下?」
訝るコーネフの声で意識を内側から引き上げ、サージェスドルフは蠅を払うように手を振った。
「なんでもない。ちょっとした考え事だ」
サージェスドルフは大きく息を吐いた。しくじったという痛悔と同じくらい、痛快なものを覚えた。
痛快で当然だ。祖国でもこの国でも虐げられた娘が、己が才覚と天機を以って復讐を果たし、栄光を掴む。こんな快い話は無い。
真意を問わねば。
サージェスドルフは決意する。
ドブネズミの群れを駆除した後に、魔狼の女王が君臨したとあってはシャレにならない。
〇
話はカール大公達がベルネシア訪問からようやっと帝国へ帰国した頃に遡る。
カール大公の実家、オーバー=シューレスヴェルヒ大公家本領屋敷は、半ば城みたいなものだった。まあ、領の統治施設も兼ねているから、当然と言えば当然だが。
敷地内には生活空間である母屋に加え、離れ(というには立派過ぎる建物)があった。
カール大公がエルフリーデを妻に迎える際、その母クリスティーナと弟カスパーも同居させる形で引き取った(帝国宰相と帝室が強烈に後押しした)。で、現在はこの離れがクリスティーナとカスパーの暮らす屋敷となっている。
くたびれ顔のカール大公と複雑な面持ちのエルフリーデと疲労困憊のカスパー。三人を出迎えた家人達がどうしたことかと訝る中、カール大公の御母堂ドロテア前大公夫人と姑クリスティーナ公爵夫人は『やっぱり』と納得顔だった。
「クリスの“想定”した通りだったようね」
「いえ、ドロシー。私の想定以上みたいですよ」
同居して以来、意気投合して姉妹のように親しい40代の貴婦人2人は、カール大公達をサロンへ案内する。
侍女を下がらせて“家族”だけになると、カール大公が切り出した。
「母上、先ほど仰っていた“想定”とはなんです?」
カール大公の問いに、実母ではなくクリスティーナが答える。
「ベルネシアで散々苦労することになるだろう、という想定です。貴方達の様子を見るに、だいたい当たっていたようですね」
ドロテアは40代ながら若々しく美しい貴婦人だ。が、そのドロテアをして舌を巻く美貌の持ち主がクリスティーナだ。
人生の災禍は老いと皴となって顔に刻まれる。その道理で言えば、クリスティーナは余程老け込んでいるべきなのだが、目尻に小皺すらない。
聞けば、妹の王妹大公ユーフェリアも歳を感じさせない美貌の持ち主だとか。ベルネシア王家はどんな魔法を使っているのやら。
「答え合わせをしましょうか。お土産話を伺いましょう」
こうして、カール大公一行のベルネシア訪問とサンローラン国際会議の顛末が語られた。ポットの御茶が冷め、皿の上に盛られた茶菓子が食い尽くされた頃、話が語り終わる。
「なんとまあ」
御母堂ドロテアの一言は完璧な要約だった。
クリスティーナは大きくゆっくりと息を吐き、
「流石にカスパーの婚約は完全に想定外でしたね」
深い青色の瞳で息子を見据える。
「お前は素足で茨の道へ踏み込んだ。そのことは分かっていますか?」
「はい、母様」とカスパーは腹を括った面持ちで頷いた。
「良い顔ね。初陣を経験した男の顔だわ」とドロテアが満足げに頷く。
「御義母様。ただの軽挙妄動です」
エルフリーデが憤懣やるかたないと言いたげに吐き捨て、隣に座る弟を睨む。
「従妹に踊らされ、クレテアとヴァンデリックの傀儡にされただけです」
「傀儡になるかどうかは俺次第だろう。姉様には関係ない」カスパーが負けじと言い返す。
「なんですってっ!」
眉目を釣り上げるエルフリーデの剣幕に、姑のドロテアが目を瞬かせる。あらま、嫁も随分と変わったわね。出立前はか弱い女子だったのに。
ドロテアは母の顔になって息子のカール大公を窺う。息子は気質の変わった嫁を愛おしげに見ている。まあ、本人が良いなら良いか。いや、大公夫人という立場を生きていくなら、嫁の変化は好ましい、か。
「エル。落ち着きなさい」
クリスティーナは娘に一声かけてから、
「カスパー。これは母としてではなく、ベルネシア王族、帝国公爵夫人として忠告します」
「はい、母様」
居住まいを正した息子へ告げた。
「ソルニオル公爵家の乗っ取りを図る以上、後顧の憂いは全て断ちなさい。たとえ女子供老人であろうと、容赦してはなりません」
息を呑むカスパーへ、クリスティーナは詩を吟じるように続ける。
「女は子を産み、老人は子に恨みを伝え、育った子は復讐者となる。完膚なきまでに叩き潰しなさい。お前の顔を見ただけで膝を屈するほどに叩きのめしなさい。お前の名を聞いただけで震え上がるほどに打ちのめしなさい。わずかでも甘さを見せたなら、それは必ず災禍となってお前の首を掻くでしょう。ゆめゆめ忘れてはなりません」
見たこともない母の恐ろしい一面に、慄くエルフリーデ。その手をそっと握りしめるカール大公。ドロテア前大公夫人はクリスティーナの様子にゾクゾクとした愉悦を覚えていた。まるで女妖に魅せられたように。
カスパーは固く拳を握り締め、大きく頷いた。
「御忠告、決して忘れません」
「結構。なれば、母からこれ以上言うことはありません」
クリスティーナは冷厳さを収め、どこか疲れ顔を浮かべる。
「御母様は……辛くないのですか。今になって斯様に利用されて」
「もちろん、思うところはあります。母国もこの国も、私をこれまで散々に踏みつけてきたのだから」
娘の気遣いに首肯を返しつつ、クリスティーナは上等な椅子の背もたれに体を預け、ふっと息を吐いた。
「あの愚劣な暗君とおぞましいあの一族に人生を台無しにされましたが、ようやく愉快な事態になりました。せいぜい観客席で眺めさせてもらいましょう」
「愉快、ですか」とあっけに取られるエルフリーデに、
「ええ。そうですよ、エル。これが愉快でなくてどうするのです」
クリスティーナは酷薄な微笑を湛え、
「私を、私の子供達を踏みつけてきたクズ共が互いに相食み合うのです。こんな愉快な喜劇がありますか」
唇の両端を大きく釣り上げる。ゾッとするほど美しい笑顔だった。
「せいぜい頑張って貰いましょう。奴らが血を流し、もがき苦しむ様を見て酒杯を重ねていればいい。私達が“面倒を背負う”のはそれからで充分です」
カスパーはその言葉を聞き逃さなかった。おずおずと尋ねる。
「母様。何かされるつもりなのですか」
「当然でしょう。私はこの時をずっと待っていたのだから」
元ベルネシア第一王女にして聖冠連合帝国ソルニオル公爵夫人クリスティーナは、妹のユーフェリアが指摘した通り、金剛鋼のような強い心を持っていた。淑やかな立ち振る舞いと穏やかな物腰の奥に、決して挫けず倒れぬ芯を持っていた。
なればこそ、異常者揃いの婚家で凌辱され、心身を恥辱に汚されても、ついに魂は屈しなかった。むしろ、彼女は早々に決意と覚悟を固くしていた。
エルフリーデとカスパーを儲けてからは母親としての絶対的強靭さと、我が子を守るための狡猾さとしたたかさを手にいれた。
クリスティーナは怪物ルートヴィヒすら信じるほど”演じて”きた。心の傷ついた女性を。残酷な現実に打ちのめされた憐れな女性を。心砕かれた哀しい女性を。
そうして、何年も何年も艱難辛苦に耐え忍び、“計画”を練り続け、“準備”を整え続け、機を窺い続けた。
彼女は憐れな犠牲者ではない。憎悪と怨恨に身を焦がす復讐鬼だった。
そして、報仇雪恨の機は到来する。
帝都ヴィルド・ロナで司法省庁舎が焼け落ち、帝国政府がソルニオル公爵家告発の無期限停止を発表した。その容疑内容を含めて。
クリスティーナに対する加虐行為も、満天下に公表された。見方を換えれば、クリスティーナの不名誉を公表されたに等しい。
が、クリスティーナにとって、それは“些事”だった。
重要なのは、この公表によってベルネシアが報復の大義名分を得たこと。
何よりも、クリスティーナ“自身が”復讐の刃を抜く機会を得たこと。
貴族は面目と面子が全て。すなわち、名誉を公的に傷つけられたクリスティーナには、恥を雪ぐ道義的名分がある。
クリスティーナは新聞を手に呟く。
「根切りにしてやる」
20年余の憎悪と怨恨と憤怒の吐露だった。
復讐鬼の放つ濃密な殺意を目の当たりにしたドロテア前大公夫人は、陶然とクリスティーナの横顔を見つめていた。まるで恋する乙女みたいに。
クリスティーナは20年余の時を掛け、志を共にする者達を集め、組織化し、備えていた。ルートヴィヒも子供達もカール大公も宰相サージェスドルフも保安庁も、ベルネシアもヴァンデリックも把握できなかった秘密結社。ソルニオルに復讐を望む者達。報復の刃を振るう者達。
シェークスピアの戯曲のように、復讐の女神が鏖殺の鬨を上げ、戦いの犬達を野に放つ。
帝国宰相サージェスドルフがクリスティーナの暗躍を察した頃――
ソルニオル領のとある道路。
でっぷりと太った男の全裸死体が側溝に捨てられていた。体中にある惨たらしい傷痕が死を迎えるまでに散々暴行を受けたことを示している。
角材か何かで執拗に殴られたのか、皮膚には木片が幾つも刺さっており、へし折られた尺骨や肋骨、鎖骨などが皮膚を突き破って露出している。顔面は見分けがつかないほど腫れ上がっていた。
傍らには同じように撲殺された若い女の全裸死体が転がっている。生前は美しかったのだろうが、今は見る影もない。
男の死体はソルニオル一統の大幹部で、若い娘は愛人。2人は数日前に資産を現金化して逃亡していた。が、こうして死体になって帰ってきた。
2人の死体の傍には、メッセージカードが残されていた。
『ソルニオルに与する者達に逃げ場はない。報復の刃を恐れよ』




