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大陸西方メーヴラント:聖冠連合帝国:ソルニオル領。
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年が明けて以来、ソルニオル領の治安が急激に悪化していた。
”海賊海岸”と済し崩し的に抗争が始まっており、沿岸部や商船に被害が出ている。この混乱に乗じ、対立関係にあったコルヴォラントのチェレストラ海勢力が姑息な襲撃を繰り返していた。おまけに国内の反ソルニオル系組織も動いている。
今のところ、一族に被害は及んでいないが、郎党や下部組織の被害が徐々に増していた。
こうなれば、ソルニオルも戦う他ない。私掠船や配下海賊、傭兵に私兵を使って反撃を行っている。海軍や陸軍の伝手を使い、領の守りを厚くしていた。
後世の記録上では『ソルニオル事変』と記されているが、その実態はソルニオル領とその海域を舞台とした局地紛争だった。
そんな折に、帝都からソルニオル公爵家現当主とその倅達に召喚状が届いた。
内容は数々の違法行為に対する告発が行われたという。書状には自主的に帝都へ出頭しない場合、司直の手勢を差し向けるとまで記されていた。
まるで世界中がソルニオルを押し潰そうとしているような状況だった。
ルートヴィヒ・フォン・シューレスヴェルヒ=ソルニオルは本領屋敷の私室で紙巻煙草を吹かす。手元の煙草から立ち上る紫煙を睨みながら、思う。思わざるを得ない。
老いた。
ルートヴィヒは自身の老いを痛感していた。
もう10年、いや、もう5年若ければ、こんな不愉快な事態は決して起こさせなかった。
全てはあの日、あの下郎に毒を盛られたせいだ。もはや名前すら思い出せない下郎。娘だか妹だかを手籠めにされたくらいで、この私に毒を盛りよって。まあ、その下郎風情は両手足を落とし、生きたままネズミの群れに食わせたが。
ともかく、あの日以来、ルートヴィヒは集中力が欠けがちだった。性欲を満たせぬ苛立ちから判断を誤ることも増えていた。
今少し若かった頃は、その常人離れした頭脳と才覚で失態を覆し、トラブルを解決し、万事を問題なく収められていた。
しかし、老いによる衰えがルートヴィヒが抱えるこの”弱み”をより強くし、この窮状に至っている。
ルートヴィヒは腹立たしさを堪えるように蒸留酒を舐め、紫煙を燻らせた。
自身が当主に就いて以来、明確に敵として立ちふさがった者は軒並み叩き潰してきた。例外は帝国宰相サージェスドルフくらいだった。
思えば、あの醜悪なデブが立ち塞がっていなければ、皇室を傀儡にし、自分が帝国の全てを差配することも出来ていたはずだ。地中海一帯の利権だって表裏両方を完全に掌握していただろう。
忌々しい。あの不細工な腐れセイウチめ。もっと早いうちに始末しておくべきだった。
憤慨にハラワタが焼かれる。
“健常”だった頃なら適当な侍女を手籠めにして憤懣を癒すところだが、既にそうした行為で不満を解消することは出来ない。その事実もまた、ルートヴィヒを強く苛立たせる。
酒精の力を借りて気を宥め、ルートヴィヒは緻密さを維持する頭脳を働かせる。
この現状の起点はどこだ? どこから始まった失敗だ?
オーバー=シューレスヴェルヒ大公家の小僧にエルフリーデを娶らせ、クリスティーナとカスパーを手放してからだ。そうだ。エルフリーデの婚姻が起点だ。
エルフリーデ。何年も顔を見ていない娘を思い返した刹那、肉欲が強く強く刺激されて口腔内に生唾が生じた。
エルフリーデ。美しく成長する様に何度、何度、何度、手籠めにしたかったことか。何度、強姦したかったことか。何度、その純潔を奪う妄想に駆られ、その叶わぬ欲望に心身を焦がされたことか。
女性憎悪主義者であるルートヴィヒは、近親相姦の禁忌など持っていない。
肉親であろうとも女は劣等存在なのだから、男に服従して然るべきと考えている。いや、肉親なればこそ、家長たる自分に全てを差し出して当然だ。その体も心も、家長たる自分の所有物なのだから。
あの美しい娘に自身で閨房の技を仕込んでやりたかった。母親と同じように。
アレの母親の時は雑民の盛った毒のせいで抱いた時期が短かった。それでも、元ベルネシア王女を組み敷き、思う存分にその体を貪った時の肉悦はしっかり覚えている。自分に代わって息子達に抱かせた時の享楽もよく覚えている。あの女は最初の妻のように簡単に壊れることもなく、良い声で哭いたものだ。
紫煙を吐き、ルートヴィヒは“楽しい思い出”から現実的な思索へ切り替える。
カール大公達のベルネシア訪問。間違いなくクリスティーナの件を暴露しただろう。先頃、ベルネシアで大粛清が行われ、ソルニオルの紐が付いた王国府官僚や民間業者が片っ端から摘発された。情報はほぼ完全に寸断されている。
これがカール大公達のベルネシア訪問と無関係のはずがない。
ベルネシアでの粛清と前後して地中海の情勢が悪化し始めた。おそらくは、身に覚えのない海賊海岸への襲撃はベルネシアの仕業だろう。マヌケなベルネシア人共が20年遅れの報復に出たわけだ。北洋沿岸の土民共がのぼせあがりおって。
末息子カスパーにクレテア公女が嫁ぎ、ヴァンデリックの侯弟孫娘が愛妾となる予定という話も聞いている。これもベルネシアが裏で糸を引いているとすれば、国内の敵はヴァンデリックが支援をしている可能性が高い。
忌々しいクソ田舎の痴れ犬共め……っ!
クリスティーナが手元にあれば、ベルネシア人の跳梁は防げるだろう。だが、オーバー=シューレスヴェルヒ大公家から連れ戻すのは、ソルニオルの力を以ってしても難しい。
同じ皇族だが、オーバー=シューレスヴェルヒ大公家は筆頭皇族であり、ソルニオルよりも家格が高い。その本領屋敷を襲ってクリスティーナを無理に拉致して連れ戻そうものなら、大公領の領兵団が動くだろうし、何よりもカール大公自身が乗り込んでくるに違いない。
剣の腕が立つ護衛が言っていた。
『自分がカール大公閣下と対したならば、三合と交えず自分の首が飛びます。自分以外なら初撃をかわすことも出来ますまい』
クソガキめ。つけあがりおって。
まぁいい。まずは鬱陶しい召喚状を対処しなくてはなるまい。
体調不良とでもして先延ばしにしても良い。息子達は差し出す必要があるが、三人ともボンクラのドラ息子だ。“失っても痛くはない”。後継者には孫をつければいい。もっとも、その孫達にしても甘ったれて育てられたクソガキ揃いだが、構うことはない。
ルートヴィヒは自身の亡き後のことに関心がない。自己愛的現世主義者とでも言って良い。
正味な話、自分の亡き後、ソルニオルを先妻の息子達が継ごうと、カスパーが継ごうとどうでも良い。ソルニオルをここまで発展させた名誉は自分だけのものだ。自分が亡き後に衰退すれば、名声は一層強化されよう。
ルートヴィヒという怪物は、家族愛といった概念を持たない。
召喚状をやり過ごし、息子達を身代わりに差し出している間に、自分へ喧嘩を売ってきたカス共を始末する。まず国内のカス共。次にコルヴォラントのクズ共。最後に海賊海岸の劣等人種共だ。
国内のカス共は帝都のデブを利用して始末させよう。裏社会といえどヴァンデリックの連中に国内権益を奪われたくはあるまい。
コルヴォラントのクズ共は幾人か暗殺すれば、いつものように内輪揉めを始めるはずだ。春の終わりまでに片が付くだろう。それから海賊海岸の劣等共を屈服させればいい。
有象無象の雑民共め。この私を敵に回したことを地獄の底で後悔させてやる。
ルートヴィヒが煙草を揉み消したところで、ドアがノックされた。
入れ、と冷たい声で命じると、顔を蒼くした家令が入室し、
「御当主様。たった今報せが入りました」
告げた。
「エルヴィン様が――」
”敵”の手が遂にソルニオルの一族に達した瞬間だった。
〇
ヴィルミーナの持つ“白獅子”銀行は、王都内に抵当流れや融資担保として差し押さえた物件を60ばかり保有している。
そのうちの一つが計画拡張区域にある人魚広場の物件で、登記上名称の人魚広場2丁目17番を略し、MP217と呼ばれていた。
現在、このMP217には白獅子の銀行系列の金融会社が入っている。年明け以来、ヴィルミーナは頻繁にこの子会社を訪れていた。
経済界では、ヴィルミーナが再び大きな仕手戦を仕掛ける気だ、と噂が飛び交い、一部の業界人がより詳細な情報を探っていた。しかし、MP217の警備はやたら頑丈で社内に忍び込むことも、人を潜り込ませることも出来ず、その子会社の社員に近づくことも出来ない。
その警備の厚さがより噂に真実味を持たせていたが、実際は違う。そもそも噂自体が白獅子の流した恣意的偽装情報だ。
聡明な諸兄諸姉は既に御察しだろうが、真実を話そう。
MP217。
実態はソルニオル潰しに従事中の任務部隊135と136を支援/管理する作戦本部だ。
そのMP217のオフィスはバカバカしいほどに凝っている。
綺麗どころの受付嬢に始まり、“社員”の働くオフィスには備品がしっかりと整えられ、幹部職員用の部屋は豪華な調度品まで用意してあった。なお、受付嬢が控えるカウンターの裏には回転式拳銃と短銃身散弾銃が隠してある。
ヴィルミーナは応接室で熱い珈琲を嗜みながら思う。
絶対に悪ノリでやっとるな。
隣に座るエステルはどこか緊張した面持ちをしていた。ヴィルミーナは今回の“裏仕事”に側近衆は関わらせず、自身と“商事”だけで扱うつもりだったが、エステルが率先して立候補してきた。
エステル・ド・シュヴランはくりっとした巻き毛のショートヘアをした男爵令嬢だ。はにかむような笑顔がとても美しい。旧デルフィネ閥ながら、ヴィルミーナの”信奉者”の一人だった。
そんなエステルは先の戦役で友人の死を目の当たりにして以来、心の傷を由来とする使命感を持っていた。
もう二度とあんな思いはしたくない。この国を守る。私に出来るやり方で戦禍から守るんだ。
銃器製造会社『セヴロ』設立など、その使命感に基づく行為だった。そして、強い信念を持つエステルは汚れ仕事にも踏み込もうとしていた。
ヴィルミーナはそんなエステルに危うさを覚えつつも、その望みに応えて仕事を任せている。使命感に駆られている人間はしっかりと手綱を握り、節度と尺度を弁えさせた方が良い。
まして、エステルは内に溜めて思い詰めるタイプだから、下手に放置したり、抑制したりすると、その使命感に基づいて暴走しかねない。
ドランのような大冒険ならまだ笑えるが、財閥が傾くような“やらかし”をされたら、処分せざるを得なくなってしまう。そんな事態は絶対に避けなければ。
「肩の力を抜きなさい。この仕事は盤遊戯のようなものよ」
カップを置き、ヴィルミーナがエステルへ告げた。
エステルは大きく眉を下げる。ヴィルミーナの気遣いはありがたいが、本物の首狩りを主とする秘密工作をボードゲーム感覚で行えるほど、エステルは割り切れない。
「どうしたらヴィーナ様のように図太く振舞えるのでしょうか……」
さらっとかなり失礼なことを言われたが、
「まあ、自分の仕事に自覚的なことは悪いことではない」
ヴィルミーナはくすくすと楽しげに喉を鳴らし、次いで、真面目な顔で言った。
「そうね。なら、こう言いましょう。これは正否や善悪から離れた人の世の所業。誰かがやらねばならない仕事であり、覚悟と意志を持った人間にしか為しえない」
エステルはじっとヴィルミーナの紺碧色の瞳を見つめ、話を真剣に聞く。
「こういう仕事に勝利はない。延々と繰り返されるバカバカしい愚行だからね。ゆえに、為せる人間が限られるし、その人間にしても長くは続けられない。余程図太くない限り、そのあまりの愚劣さに心が擦り切れてしまうから」
ヴィルミーナはエステルの頬に手を添え、顔を近づけた。
「だから、辛くなったら、限界を迎えたら、素直に足を止めて、一歩退きなさい。無理に頑張る必要はない。貴女は1人じゃない。私や頼りになる”姉妹”がいることを忘れないで」
「はい」とエステルは大きく頷き、おずおずと尋ねる。
「ヴィーナ様が御辛くなられたら、どうなさるのですか?」
「もちろん、可愛い“姉妹”達に甘える。恋しい旦那様に甘える。頼もしい御母様や家人に甘える。後は、そうね」
にやりと悪戯っぽく口端を緩め、ヴィルミーナは言った。
「面倒事をどこかの誰かに引かせるわ」
エステルはドングリ眼をパチクリさせ、次いで、屈託なく笑う。
会議室のドアが開き、背の高いイケメンが入ってきた。
「お待たせしました。会議室へご案内します」
イケメンに案内され、ヴィルミーナとエステルは会議室へ向かう。
部屋の北側の大きな掲示板が並べられて複数枚の大地図が貼られていた。それら大地図には複数のピンが刺してあり、赤と青の塗料で書き込みがしてあった。
部屋の西側にも大型掲示板が置かれ、小さな似顔絵もしくは名前書きが幾つも貼ってあった。そのうちのいくつかには赤ペンでバツが書かれ、『完了』と共通語で記してある。
そして、部屋の中心に置かれた大テーブルの真ん中には、地中海圏の特大地図が広げてあって、駒がいくつも並んでいた。
会議室というより、作戦本部といった方が正しい光景だ。そして、その作戦本部はスタッフの喫煙で煙っている。
「皆さん、相変わらず煙草の呑み過ぎですね」
ヴィルミーナがちらりと嫌味を吐き、卓の上座で細長い煙管を粋に吹かすレヴェンヌ少将へ挨拶した。
「レヴェンヌ閣下、こんにちは」
「ええ。こんにちは、ヴィルミーナ様」
左頬に大きな傷があり、左手の指が欠けているレヴェンヌは、人の悪い微笑を湛えて返事を寄こす。
ヴィルミーナはエステルと共にレヴェンヌの左側に腰を下ろし、卓上の特大地図へ目線を向けた。
「狩りの塩梅は如何です?」
そこで情勢を尋ねず、狩りの進捗を問う辺りがヴィルミーナらしい。
「先日、ガルテン52が当主の弟エルヴィンを拉致することに成功しました」
「それは吉報ですね」
ヴィルミーナはつまらなそうに言った。
斬首作戦の第一段階はソルニオルと海賊海岸の穏健派、及び内政屋を始末することだった。戦うことしか能がない武闘派は怖くない。瞬間的な脅威はあるものの、長期的な弱体化と事態の不安定化を図るなら、穏健派と内政屋を潰すに限る。
それに、中間層――現場で指揮を執ったり、上層部と下層部の仲介を務めたりする人間、軍で言うところの下級将校や会社で言うところの課長クラスを始末することで、組織統制を破綻させる。
ヴィルミーナは白獅子としてMP217に様々な協力と援助を提供していたが、個人的には組織運営、経営論の観点から狩りの獲物を選定する手伝い(時には指示を)していた。
「ガルテン52の『水蓮』作戦は帝国司直が動いてからが本番と伺っていましたけれど」
「どうにも連中の動きが鈍いのでね。少しばかり尻を叩いてやろうかと」
悪党顔で嘯き、レヴェンヌは煙管を吹かした。
帝国内でソルニオル公弟が拉致される。これはかなりの大問題だ。帝国も本格的に動かざるを得ない。
「身柄は既に帝国外へ移送しました。グリルディⅢ型改は足が速くて助かりますな。まあ、ラ・モレン警備保障が予定外に繁盛して注目を浴びているのは、困りものですが」
レヴェンヌがどこか皮肉っぽく笑う。
地中海の治安悪化に伴い、ラ・モレン警備保障――TF135:パサージュ108が提供する海上護衛、海域警備の依頼業務が繁盛していた。本来は私掠船商売を口実に海賊海岸を攻撃すべく投入したのだが。
まぁ、無理もない。海運保険会社にしてみれば、船と積荷を奪われるよりベルネシア戦闘飛空艇を雇う方が安上がりだ。ラ・モレン警備保障へ依頼したくもなろう。
この“民間警備会社”の活躍に、面目を潰されかかったクレテア海軍も近頃は活発に海賊狩りと領海警備を実施していた。迂遠な結果だが、このおかげで海賊海岸の連中はクレテア沿岸まで手を出せない。つまり、ラ・モレン警備保障の巣を叩けない。
「儲けが出る分には結構ですね。物資もタダではありませんから」
ヴィルミーナはしれっと応じ、
「公弟エルヴィンを“出し殻にしたら”、情報は早めに回していただきたい」
「何をするつもりかな?」
「事前情報とソルニオルの実情を擦り合わせして、資産評価をしたい。クレテアとヴァンデリックに現地利権をある程度獲られるのは仕方ないにしても、旨みのある所は確保したいのでね」
冷たい微笑みを湛え、
「必要ならソルニオル側に反撃してもらう。そのためにも、情報が欲しい」
さらっと恐ろしいことを言った。
なんの躊躇もなく”共食いをさせる”と宣言したヴィルミーナの悪辣さに、エステルは息を呑み、会議室内のスタッフも顔を強張らせた。
レヴェンヌは心底楽しげに笑い、悪魔のような目つきでヴィルミーナを見据えた。
「貴女と仕事するのが楽しくなってきたよ」
〇
「ベルネシア人め。好き放題暴れてやがる」
帝国宰相執務室を訪ねてきた皇太子レオポルドは開口一番に毒づき、執務机前に置かれた椅子へ足を投げ出すように座った。
「地中海はほとんど戦争状態だ。海軍の沿岸警備だけでは追い付かん」
聖冠連合帝国は陸軍国家で、海軍は地中海内のチェレストラ海で活動することしか考慮されていない。二等戦列艦が一隻あるだけで、他は小型の沿岸警備用船艇しかなかった。飛空船にしてもその数は多くない。あ、翼竜騎兵はいっぱいいます。騎兵、好きなんです。
「ソルニオル公弟エルヴィンは拉致されたまま行方不明。犯人は海賊海岸の手の者と見られているが、国内の反ソルニオル組織かもしれん。正直、もう何がどうなっているのか」
慨嘆するレオポルドに対し、部屋の主たる帝国宰相サージェスドルフはぐふふと笑う。
「ベルネシア人はよほど腹が立っていたと見えますな」
「笑っている場合か。このままだとティルクが動きかねんぞ」
皇太子レオポルドは憤慨気味に吐き捨てる。
地中海を挟んで大陸南方北部にあるメンテシェ・ティルク帝国はクナーハ教の大国だ。近世の西方侵略で出し殻同然の東レムス帝国にとどめを刺し、ディビアラント南部を征服している。
ただし、現在は中央域勢力との長い抗争と数代に渡って繰り返された後継者争いにより衰退、斜陽の時期を迎えつつある。
それでも、大帝国の持つ戦力は決して侮れない。
何より、メンテシェ・ティルクが動くとなると、東部諸侯が色めき立つ。ディビアラント人にとってティルクは不倶戴天の仇敵であると同時に、絶対的恐怖だからだ。
当然、カロルレン王国を相手にしていられなくなり、サンローラン協定の利得を何一つ得られなくなってしまう。
しかし、サージェスドルフはぐふふと不敵に笑う。
「御心配なく。メンテシェ・ティルクは外交で対処可能です。奴らは奴らで余裕がありませんからね」
「だと良いが」
レオポルドは溜息を吐き、言った。
「ベルネシアはどういうつもりなんだ。ソルニオルへ仕掛けるのは、我が国の司法当局が奴らを告発してからのはずだろう。それがどうしてこんな……」
「連中に言わせるなら『とっとと動けバカ野郎』といったところでしょうな」
レオポルドに詰問されても、サージェスドルフはふてぶてしい笑みを崩さない。細巻を口に運び、燐棒で火を点けた。溜息交じりの紫煙を吐く。
「ですが、連中の跳梁はソルニオルの一族郎党に限られるでしょう。我々の面目を立てずにソルニオル当主とその倅共に手は出せません。ドブネズミとはいえ、帝国皇族の公爵本人を攻撃されては、我々も報復せざるをえませんからな」
「ベルネシアもそこまで政治的リスクを踏まないか」
辟易顔のレオポルドも細巻を取り出し口にくわえた。サージェスドルフが火をつけようとしたが、手振りで断って魔導術で火を点す。
「一族郎党を減らしてくれる分には、こちらの手間が減ります。もう少し静観しても良いくらいだ。まあ、カロルレンの件がありますし、春季攻勢までにある程度済ませておきますよ」
サージェスドルフは細巻を吹かした。心底美味そうに。
「ま、ドブネズミの悪足搔きと獅子の暴れ振りを見物させてもらいましょう」
皇太子レオポルドは思わず尋ねた。尋ねずにいられない。
「一体、どんな理由で卿はそこまで事を楽観視できるのだ?」
サージェスドルフは口端を吊り上げ、ぐふふとセイウチのように笑うだけで答えなかった。




