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今回も長めですが、御容赦ください。
大陸共通暦1769年:春
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ぼたぼたと大粒の雨が降り注ぐ中、マキシュトクは燃えていた。
西城壁を破壊した巨鬼猿は、悠然と市街内へ侵入し、建物を破壊し、バリケードを踏み潰し、抵抗を試みる“防衛隊”や逃げ遅れた住民を殺害し、食らっている。『破壊の化身』と謳われる怪物は、その異名通りの所業を繰り返しながら、街を徘徊していく。
その巨鬼猿に続いて市街内へ侵入するモンスター達。
倒壊した建物から立ち昇る粉塵。何かしらの理由から生じた火災の黒煙。燃臭と獣臭と悪臭と死の臭いが充満する街は、空を雨雲と煤煙で二重に塞がれて仄暗い。降り注ぐ雨は塵と煤が混じって黒く濁っていた。
そこかしこから聞こえてくる様々な音色。
建物の破壊音。崩落音。倒壊音。剣戟の響き。銃声。爆発音。獣達の咆哮と雄叫び。住民や難民の悲鳴と号泣と絶叫。“防衛隊”の怒号と罵倒と喚き声。
混ざり合ったこれらの音色は、さながらマキシュトクの断末魔のようだった。
それでも、マキシュトクの人々は生を諦めなかった。剣を握り、銃を構え、生存闘争に挑む。
マキシュトクの総司令部たる代官所では、タチアナ・ネルコフが市街地図を睨みながら、残存戦力を搔き集めてモンスターへの抵抗と住民の避難を指揮し続ける。次から次へと凶報を届けてくる伝令達に、新たな命令を与えて送り出していた。
そして、ノエミは巨鬼猿迎撃のため、騎兵達を従えて大通りに居た。
「どうなってるっ!? クソ猿を大通りまで誘導する手筈だろうがっ!! 大通りまで引っ張って来ないと始末できねェぞっ!!」
騎乗用烏竜にまたがったノエミが怒鳴る。黒く濁った冷たい雨など気にもならない。
聖冠連合帝国の有翼重装騎兵が使う長騎槍に似た対モンスター用騎槍を抱えていた。彼女に従う烏竜騎兵達も同じく長騎槍を抱えている。
彼らは巨鬼猿を大通りに誘導し、そこへ騎兵突撃を仕掛けるつもりだった。騎乗用烏竜の速度と質量を乗せた騎槍の一撃ならば、巨鬼猿の頑健な体躯を貫ける。
ただし、攻撃後の退避や反撃回避は考慮しない。大通りの道幅などを考えれば、ヒット&アウェイのような機動など図るだけ無駄だ。
無茶苦茶だが、巨鬼猿を手早く確実に殺す方法は他にない。巨鬼猿を一刻も早く討伐し、市街内へ侵入したモンスターを撃破せねば、街が食い滅ぼされてしまう。手段を選ぶ贅沢など出来ない。
決死隊が大通りに巨鬼猿を誘導する手筈だったが、今のところ、御世辞にも上手くいっていない。
ノエミが焦燥感に煩悶していると、通りに面した建物の屋上から見張りの兵士が叫ぶ。
「巨鬼猿、こっちにきま」
兵士の怒鳴り声は巨鬼猿の投げた大きな瓦礫の衝突音と、建物の崩落音に掻き消された。見張りの兵士がどうなったかは言うまでもあるまい。
建物群の屋根の先に巨鬼猿の頭が見えた。重たい栓が抜かれたような音が響いて巨鬼猿の胸元で炎が炸裂する。誰かが擲弾銃で巨鬼猿を大通りへ誘導しているのだ。
ノエミは口端をかすかに緩めた。この崩壊の最中に遭って義務を果たす者が居る。勇者が居る。なんと頼もしいことか。
ノエミは改めて勇気を湧き起す。
「勇者が命を賭してデカ猿をこちらへ誘ってくるぞっ! 気合を入れろっ!!」
そして、再び擲弾銃の銃声が響き、巨鬼猿の腹で爆発した。ダメージは一切ないが、巨鬼猿のヘイトはしっかり稼いでいる。その証拠に巨鬼猿が間もなく大通りにやってくる。
巨鬼猿に先んじて、擲弾銃を担いだ勇者が大通りに姿を見せた。
「!? なんてこった……っ!」
ノエミが思わず息を呑む。決死の突撃準備を整えていた烏竜騎兵達も刮目した。
擲弾銃を抱えていたのは、歳幼い少年だった。その小さく細い身体で大きく重たい擲弾銃を両手で肩に担ぎ、擲弾パウチを背負って必死に駆けていた。
ソフィアの兄ヨナスは決死隊ではなかった。
しかし、決死隊が誘導に失敗して全滅すると、死体から擲弾銃と弾薬を取って、巨鬼猿の誘導を試みていた。
義務感でも使命感でも勇敢だからでもない。その小さな体で大きく重たい擲弾銃と弾薬を担ぎ、駆けているのは、ソフィアと小さなヨラ達を守るためだ。ここで死ぬつもりもない。死んでしまったら、もうソフィア達を守れない。
ヨナスは男だ。勇気と命の使い方を間違えない。
ヨナスは大通りに飛び出すと、踵を返して擲弾銃を肩から降ろす。まだ身体が小さなヨナスに擲弾銃を構え撃つことは難しい。だから、擲弾銃を銃床を路面に押し当てて迫撃砲のように構え、銃本体を傾けて射角を取り、引き金を押し込んで撃った。
放たれた擲弾が吸い込まれるように巨鬼猿へ当たる。も、反動で跳ねた擲弾銃がヨナスをしたたかに殴りつける。骨身に染みる激痛を覚えながらもヨナスは素早く体を起こし、擲弾銃を両手で肩に担いだ。熱い銃身が服越しにも肩を焼くが、気になどしない。巨鬼猿を大通りへ誘導するため、次の射点を目指して駆けていく。
勇敢とは何かを眼前で示され、ノエミは体が震えた。
胸の奥から込み上げてきた情動に目頭が熱くなる。同時に、なおも果敢に奮闘しているあの少年を、今すぐ助けに行きたい衝動に駆られた。
ハラルドも他の騎兵達も激烈な感情を抱かずにいられなかった。が、ノエミも皆も堪えた。歯が割れそうなほど強く噛み締め、衝動を堪える。
名も知らぬあの歳幼い少年は、大通りに巨鬼猿を誘い込むため。自分達に巨鬼猿を倒す機会をもたらすために、命を賭している。ならば、その機会を放棄することは彼の努力を踏みにじる行為に他ならない。
ノエミ達は歯を食いしばって機を待つ。
巨鬼猿が大通りに踏み込んできて、破城槌みたいな拳を振り下ろす。破壊される石畳の路面。その衝撃波に幼い少年が小石のように吹き飛び、粉塵の中に姿を消す。
ノエミは嘆かない。ただ少年の献身に感謝し、目元を拭ってから兜のバイザーを下げた。
「あたしが先頭に立つっ!! 続けっ!」
「おうっ!!」
騎兵達が怒声を発した直後、
「とつげぇえええええええええきっ!!」
ノエミは長騎槍の柄を右脇に抱えるように構え、烏竜に鞭を入れて矢のように飛び出す。騎兵達も後に続いて猛然と疾駆する。
誰一人として『国王陛下万歳、王国万歳』とは叫ばなかった。今、彼らが命を懸けるのは、王のためでも国のためでもない。この小さな町に居る同胞達と隣にいる仲間のため、そして今、眼前で勇気とは何かを示した幼子に恥じないため。
もちろん、肝が竦み上がるほど怖い。全身から恐怖と怯懦が冷たい汗となって噴き出している。腹の底から雄叫び声を上げているのは、自分自身を奮い立たせるためだ。
それでも、ノエミは騎士たる矜持と尊厳を賭して疾走し、
「くたばりやがれぇぇぇえええええええええええええっ!!!!!」
烏竜諸共に巨鬼猿へ激突した。
運動エネルギーと質量が乗った長騎槍が、巨鬼猿の頑健な甲殻と分厚い皮と肉を貫き、巨鬼猿の臓腑へ達した。穂先が衝突のエネルギーに耐え切れずにへし折れ、楔の如く巨鬼猿の体内に残る。
ノエミは折れた槍を捨てて手綱を捌き、巨鬼猿の脇へ抜けようと試みるが、激痛に脊髄反射を起こした巨鬼猿に殴り飛ばされた。
巨鬼猿の巨大な拳を浴びたノエミは烏竜と共に宙を舞い、大通りに面した建物の大窓に激突、窓ガラスを砕きながら屋内へ落下した。通りに残る烏竜の残骸。大窓から煙る粉塵。ノエミの生死は定かならず。
だが、後続の烏竜騎兵達は怯むことなく、雄叫びを上げてノエミ同様に巨鬼猿へ突撃していく。
そして、火に飛び込む羽虫の如く、巨鬼猿に蹴散らされた。通りにばらまかれていく騎兵と烏竜の血肉と残骸。しかして、その犠牲は無駄ではなかった。
腹と足を幾度も抉られた巨鬼猿は大通りに崩れ落ち、口腔と鼻腔から夥しい量の吐血を発した。騎兵達の命を賭した長騎槍は巨鬼猿の腹腔動脈を損傷させ、膝の健を破壊したのだ。
なおも大型種の意地を見せて上体を起こそうと足掻く巨鬼猿へ、長柄物を掲げたハラルドが、全身全霊を込めた一刀を叩きつける。
「しねええええええええええええええええええええええ!!」
落雷のような轟音と共に叩き割られた巨鬼猿の頭蓋。
が、仕留めきれない。
巨鬼猿は頭から真っ赤な鮮血を噴き出しながら絶叫し、生命の残り火を激しく燃やす。血塗れの体躯を起こして立ち上がり、残された時間の全てを破壊行為に注ぎこむ。
砕かれる建物。割られる路面。榴散弾のように降り注ぐ瓦礫が兵士や冒険者達を薙ぎ倒す。巨鬼猿は鮮血をまき散らしながら、腕の届く範囲の全てを破壊していく。
ハラルドは巨鬼猿が『破壊の化身』と恐れられる所以を思い知らされる。手負いの巨鬼猿を止める手立てがない。モンスター狩りに慣れた冒険者達すら近づけなかった。
「一旦、退避しろっ!!」
ハラルドが叫んだ、その直後。
街を覆う煤煙が切り裂かれ、巨大な影が巨鬼猿をその場に叩き伏せる。大通りを駆け抜ける衝撃波。吹き払われる粉塵と煤煙。して、その巨大な影の正体は――
西方巻角大飛竜のダイナミックエントリーだ。
ノエミ達が死力を尽くしてなお仕留めきれなかった巨人を、巻角大飛竜は強靭な後脚とその巨体で容易くねじ伏せていた。
巨鬼猿が発狂したように激しく暴れる。巻角大飛竜は疎ましげに鼻息をつくと、後脚の爪で巨躯を掴み、巨大な翼腕を羽ばたかせて離陸。
大重量の巨鬼猿に難儀しながら高度を取り――マキシュトクの街へ向けて勢いよく落した。
〇
門扉を硬く閉ざされた聖堂内では、詰められるだけ詰め込まれた女子供達が身を寄せ合い、聖剣十字の像へ無心で祈り続けている。聖堂の外から激しい戦闘騒音が届く度、女子供達は一層必死に祈る。
小さなヨラと子犬のナルー、ソフィアもヨラの母と共に聖堂内へ避難し、神に祈っていた。
今のところ、彼らの信仰する神は、彼らの必死な訴えに耳を貸す気はないらしい。代わりに、性格最悪の運命の女神が彼らのためにサイコロを振るった。
大飛竜が捨て落した巨鬼猿が聖堂に直撃し、轟音と共に屋根と鐘楼が大崩落を起こす。礼拝堂内に降り注ぐ大量の瓦礫が、神へ祈っていた女子供達を押し潰す。
粉塵がもうもうと立ち込める大礼拝堂内は阿鼻叫喚の地獄となっていた。
子供達の涙声。痛みに苦しむ子供達の絶叫。子供を眼前で失った母親達の慟哭。恐怖に満ちた声。絶望が飽和した声。悲劇が音になって礼拝堂を満たす。
恐慌状態に陥った者達が正面扉に押し寄せたが、籠城のために固く閉ざされているため、まったく開かない。そうこうしているうちに、踏み殺される者や押し合いの末に窒息死する者が出始める。
司祭や修道士達が混乱をなだめようとするも、誰の耳にも届かない。
そこへ、大飛竜が巨鬼猿にとどめを刺すべく炎塊を放つ。
その炎塊はラランツェリン子爵の一団を吹き飛ばした物よりも規模は小さかった。しかし、強烈な爆発圧力が鐘楼と屋根の崩落で痛んでいた聖堂を周辺建物もろとも半壊させ、炎の奔流が半壊した聖堂内にも流れ込んだ。
女子供が燐棒のように燃えあがる。表現できないほどの凄絶かつ悲惨な悲鳴。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。女子供のあまりにも悲痛な悲愴な、悲鳴。
炎の津波が小さなヨラ達にも迫る。
咄嗟。ヨラの母親がヨラとナルーとソフィアを抱きかかえ、その場にうつ伏せに屈む。炎熱がヨラの母を焼き尽くすも、殺人的熱量は母の体を焼くことに費やされ、ヨラ達には届かない。
小さなヨラ達が最後に目にした母の顔は、優しく微笑んでいた。この世のどんな聖母像が浮かべる笑みよりも、慈しみと愛に満ちた笑みだった。
ヨラの母親は自らの命を代価に小さなヨラ達を守り抜く。いや、ヨラの母親だけではない。周囲でも同じように母親達が我が子を、幼い兄姉達がより幼い弟妹を、その命を以って守る。
それは余りにも残酷で悲愴な自己犠牲的利他行為であり、人間がもちうる最も美しい高貴性の発露だった。
全身に重度の熱傷を負いながらも即死を免れたマキシュトク聖堂の主任司祭は、自身の預かる神の家が女子供の凄惨極まる墓場に化けていく様を目の当たりした。
あまりにも無慈悲な光景に茫然自失した司祭は、誰へともなく呼びかける。
「誰か、聖油を用意してくれ。臨終の秘跡を行わくては……誰か……誰かいないか」
司祭の呼びかけに応える者は、いなかった。
〇
巻角大飛竜はこんがりと焼けた巨鬼猿の肉をむさぼり食らう。強大無比な咬合力は巨鬼猿の頑強な骨を枯れ木のように噛み砕き、頑健な筋肉を咀嚼して嚥下していく。時折、突き刺さっていた長騎槍の穂先を面倒臭そうに吐き捨てる。
小一時間ほど掛けて巨鬼猿の肉塊を平らげ、巻角大飛竜は血の臭いが濃密なゲップを吐く。高熱のゲップが雨の寒気に触れて白く煙った。
体を起こした巻角大飛竜は、近くの瓦礫の山から聞こえてくる泣き声や悲鳴に興味を示し、ぽっかりと開いた穴から中を覗き込む。
瓦礫の山――半壊した聖堂の中で生き残っていた女子供が悲鳴を上げた。
巻角大飛竜は小動物達の悲鳴には何の反応も示さなかったが、聖堂内に満ちた『焼けた肉の美味そうな臭い』には惹かれるものがあった。
食える時に食えるだけ食っておく、という野生生物のセオリーに従い、巻角大飛竜は大聖堂内に頭を突っ込ませる。
と。
か細くか弱く小さな、だが、強い戦意と敵愾心に満ちた犬吠が聞こえてきた。
巻角大飛竜は金色の瞳をぐるりと巡らせ、唸り吠える豆粒みたいな子犬を見つけた。
牙と呼ぶのもおこがましい小さな歯を剥き、汚れ切った子犬が巻角大飛竜を睨み、ひたすら吠え続ける。
なんとなく煩わしい気分に陥った巻角大飛竜は、満腹感も手伝って『つまみ食い』を諦めた。長大な翼腕を広げ、幾度か羽ばたかせる。翼腕と翼膜に付着していた雨水が盛大にまき散らされる。
幾度目かの羽ばたきで大気中の魔素を捉え、巻角大飛竜の巨体が宙へ浮かび始め、強靭な後脚で地面を蹴り、鈍色の空へ飛翔する。
悠然と雨空へ上がった巻角大飛竜は、マキラ大沼沢地ではなく、ペンデルスキー男爵領へ向かった。
なお、ペンデルスキー男爵領の先へ進んでいくと、カロルレン王国西部へ到達する。
そこは大陸西方メーヴラントに含まれる肥沃な平野で、カロルレン王国の重要な穀倉地域だった。
〇
巨鬼猿が死んでも、竜が去っても、マキシュトクの危機は終わらない。
むしろ、市街内に侵入したモンスター達は大型種が居なくなったことで“狩り”と“食事”の勢いを増す。
”防衛隊”は闖入してきた大飛竜を恐れてモンスター達の動きが鈍っていた間隙を活かし、崩落した西城壁近くの街区に残余戦力を結集して”最後”の戦いに臨んでいた。
もう、後がない。この防御戦闘に敗れたら……
「諦めるなっ! 戦えっ! 戦い抜くんだっ!!」
ハラルドは先陣へ立ち、“防衛隊”を鼓舞し続けた。代官所で総指揮を執っていたタチアナ・ネルコフもこの場に参じて戦っている。既に全体指揮だのなんだの言っている状態ではない。戦える人間が戦うしかなかった。
ベルネシア義援団のマキシュトク遠征隊が現地に到着したのは、そうした状況の真っ只中だった。
「おいおい。街が燃えてるぞぃ」
ベルネシア義援団マキシュトク遠征隊は、もうもうと立ち昇る黒煙に包まれたマキシュトクを目にし、手遅れだったか、と徒労感を覚えた。
と、そこへ風に乗って燃臭と共に戦闘騒音が聞こえてくる。
「どうやら無駄足ってわけでもなさそうだ」
「急ごう。ここまで来て間に合いませんでした、と来たら情けなさすぎる」
「非戦闘員も一緒に来い。もうじき日暮れだ。強引にでも市街内に入った方が良い」
遠征隊は戦闘準備を整え、非戦闘員共々マキシュトクへ向かう。
どいつもこいつも腹を空かせたヒグマみたいな顔つきをしていた。
彼らがマキシュトク市街内に到着した時のことは、あれこれと言葉を尽くすより、タチアナ・ネルコフの手記から抜粋した方が早いだろう。
『ベルネシア人達の応援で我々はかろうじて生き延びた。彼らは少なく、持ち込んだ物資も少なかったが、そんなことを気にする人間は誰一人としていなかった。助けが来てくれた、我々のために戦ってくれる者がまだ居たという事実が、全てだった』
一方で、マキシュトク入りした遠征隊は、市街の惨状に言葉を失くした。特に、聖堂の有様を見た者達は、そのあまりにも悲痛で凄惨な光景には立ち尽くすしかなかった。
ベルネシア遠征隊は現地の冒険者達に代わって夜の歩哨と警備につき、医療関係者達は持ちうる全ての技術と知識を絞りつくして負傷者の手当てに当たった。が……この日の夜は悲嘆と慟哭とすすり泣きが絶えなかった。
遠征隊の隊員が日記に書いた一文が全てを表している。
『まるで地獄に迷い込んだようだった』
〇
曇天の午前中。小街区オフィスの執務室。
「カロルレンが我が国による義援団救出活動に合意しました。さらに支援物資を毟られたものの、モンスター素材をかなり提供されることになったそうです」
“侍従長”アレックスはヴィルミーナに爪の手入れをされながら報告する。
「加えて、義援団の安危が確認されました。モンスターとの戦闘で少なからず犠牲を被りつつも、団はいまだ健在。孤立しながらも現地村落を陣地化して籠城しているとのことです。さらに、少数の遠征隊がマキシュトクにも到達したと」
「団が健在のことを喜ぶべきか。死傷者が出ていることを嘆くべきか。孤立した状態にあることを危惧すべきか。あるいは、現地でたくましく過ごしていることを讃えるべきか」
ヴィルミーナは微苦笑を湛えつつ、アレックスの右手の爪にネイルオイルを塗っていく。
メルフィナのコスメ開発で作られた商品だ。メルフィナの美容事業はどんどん進歩している。商館を通じてイストリアやアルグシア、クレテアに出荷した結果、各国の貴顕や小金持ちの婦人方から熱烈な、それは熱烈な要望が絶えないらしい。メルフィナ曰く『怖い』。
「カロルレンの軍が義援団とマキシュトクを救出する可能性は?」
「今のところ、確認できません」
向かい側の応接ソファから嫉妬と羨望の目を向けているニーナが言った。
「大飛竜がカロルレンの西部、穀倉地帯へ進出しましたから。大災禍の鎮圧と飛竜討伐に掛かりきりです。だからこそ、我が国による義援団救出に合意したとも言えますね」
「カロルレン王国は西部の平野部で国全体の食糧需要を賄ってるそうです」
ニーナの隣で茶菓子を摘まんでいたヘティが説明に接ぎ穂を加える。
曰く、カロルレン王国の産業分布を乱雑に言えば、東半分が資源(北東部はモンスターや天然素材で、南東部は鉱物資源)とその加工商売で、西半分は農業主体の食糧生産と緩衝国経由の貿易で食っているらしい。
ニーナはヴィルミーナが未見の報告書を手にして、ページをめくった。
「そうだ。物資の関係ですが、“商事”が言うには、カロルレン軍の物資充足率が極めて高いそうです。全軍動員されて間もないこともありますが、ほとんどの物資は増産品ではなく軍の備蓄倉庫から搬出された物とのことです」
「へぇ……」ヴィルミーナはアレックスの左手の甲にハンドクリームを塗りつつ「なんとなく見えてきたわね」
これまでカロルレンは軍の動員を渋っていて、動きがやけに鈍かった。にもかかわらず、全軍動員した後、増産体制を整えずして物資供給を充足している。そんなことが出来る理由は、あらかじめ全軍動員に備えていたからだ。その理由は一つだろう。
「カロルレンは戦争の準備をしていたのか。道理で軍を動かしたくなかったわけだ。軍を大規模に動員すれば、計画が破綻してしまう」
ヴィルミーナは嘲弄するように口端を歪めた。
「なるほどね。損切りできなかったのか。気持ちは分かるけど……これは危ういわね」
「危うい、ですか?」と訝るヘティ。
「隣人が自分の寝首を掻こうとしていたのよ? 刃物を収めたからといっても、これまで通りの関係性はもう保てないわ」
「たしかに。アルグシアの気質からすると……戦争が起きてもおかしくないですね」
アレックスが首肯し、自らの推察を開陳する。
「となると、警戒動員の規模と物資の動きでアルグシアの真意が分かりますね。それに、戦争をする気なら、我が国に対して何かしらの動きを見せるはず」
「事と次第によっては、今回の騒ぎが戦争の呼び水になるかもしれないな」
ヴィルミーナはアレックスの右手の手入れを終えた。続けて左手の手入れを始める。
「ほんとにアレックスは手が奇麗ね」
すりすりと左手の甲を艶めかしく撫でられ、アレックスは頬へうっすらと桜色を差す。ニーナが嫉妬と羨望で歯軋りを始めそう。ヘティが「尊い」と呟く。数えでもう21歳ですよ、君達。
アレックスの左手にハンドクリームを塗りながら、ヴィルミーナはニーナへ言った。
「聖冠連合にも探りを入れておいて」
「聖冠連合、ですか?」
「アルグシアとカロルレンが揉めれば、聖冠連合も無縁ではいられない。既に目と耳を澄ませて注意深く事態の推移を窺っているはずよ」
ヴィルミーナは倦んだ面持ちでぼやく。
「事態がどんどんややこしくなっていくわね。これは一体だれの責任なのかしら」
答えを持たぬアレックス達は控えめな微苦笑を返すだけだった。




