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大陸共通暦1769年:春
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カロルレン王国北東部は大陸北方ベースティアラントに属する地域で、その多くの部分が峻険なプロン山脈とマキラ大沼沢地に占められている。
この北東部の行政区分はマキラ大沼沢地を王家直轄領とし、その付近の比較的まともな土地は王家親族衆に与えられ、特別税制領地となっている(税制優遇をしないと食っていけないほどに貧しい)。
そして、現在、各特別税制領地はマキラ大沼沢地に接する領境へ領地兵団を展開し、大災禍に備えて封鎖線を構築していた。いや、マキラ大沼沢地の救援に向かっていない、というべきか。
なお、カロルレン王国の軍制は王立軍と領地兵団がある。王立軍は国軍。領地兵団は領主権に基づく民兵組織で領内治安活動を旨とする。
封鎖線のとある村へ置かれた封鎖線合同本部では、特別税制領主達が集まって会議を開いていた。
「大災禍が始まってもう一週間以上だぞ。中央はなぜ動かんのだっ!」
大沼沢地付近の特別税制領主であるヴィルヘルムが、苛立ちをあらわにしてテーブルを叩く。
ヴィルヘルム・ラランツェリン子爵。御年53歳。王家たるカロルレン家の傍流筋に当たる彼は、ウン十番目の王位継承権を持つ。小柄ながら筋骨隆々で髭モジャな彼は、まるでドワーフの鍛冶屋のようだった。傍にいる息子達も似たようなもので、ドワーフの軍団みたいだ。
「落ち着いてください、ヴィル小父御」
同じく特別税制領主のフリードリヒがヴィルヘルムをなだめる。
フリードリヒ・ペンデルスキー男爵。御年37歳。王家カロルレン家の傍流筋に当たる彼もまたウン十番目の王位継承権を持つ。長身痩躯で整った顔立ちのナイスミドルな彼は、まるでエルフの紳士みたいだ。背後にいる弟もエルフ染みた美中年である。
「でも、このまま動かずにいたらマキラの民が全滅しちまう。フリッツ小父貴。どうにかならねーの?」
硬い干し肉を豪快に噛み千切りながら、やはり特別税制領主のノエミが尋ねる。
ノエミ・オリコフ女男爵。御年23歳。王家カロルレン家の庶流筋に当たる彼女は流石に王位継承権を持っていない。女性にしては極めて背が高く筋肉質でムチムチしている彼女は、まるで女蛮族の戦士みたいだ。
「ラフィ。中央から何か連絡は無いのか?」
「何も聞いてないから私も困ってるんですよ」
フリードリヒに問われ、ラフィことラファエルは困り顔を浮かべ、ここ数日痛くて仕方ない腹を撫でる。
ラファエル・ナバル伯爵家嫡男。御年35歳。王家カロルレン家親族衆に婿入りした彼は王家閨閥の一人で、王国の中堅官僚だ。今回の大災禍の対策にマキラ大沼沢地封鎖の連絡監督官として送り込まれてきた。ステレオタイプなメガネの事務屋男だ。
※ ※ ※
さて、そろそろ読者諸氏も『なんか王族ばっかじゃねえ?』と思っている頃だろうから触れておこう。
簡潔に言うと、カロルレン王国は王家親族と閨閥が非常に多い。
これはカロルレン王国開祖ジギスムント1世が原因だった。彼の行動を某ネット小説サイト風に表現すると『タイトル:帝国が崩壊しそうだから分離独立しちゃいました』。ここまでは良い。問題は『タグ:ハーレム』である。
漁色家の権力者は珍しくもないが、ジギスムント1世は正妻の子供以外、愛人達(少なくとも4人は居た)の子供達も王族として認知し、明文化してしまった。本人はハーレムの女達を出来る限り平等に扱い、子供達を分け隔てなく愛した結果なのだろうが、これがヒッジョーにマズかった。マズかったのだ。
案の上、彼の死後に子孫の間で骨肉の争いが生じ、やたら数の増えた王家親族と閨閥が諸侯と無数のトラブルを起こした。しかも、これらの問題がいまだに続いている。
たとえば、ヴィルヘルムとフリードリヒは、ジギスムント1世と愛人の間に出来た子の血統である。ノエミは三代目の国王が手を付けた庶流筋だ(国祖に倣って好色な王が多かった)。彼らは先祖が親族衆内の権力争いに敗れ、このド辺鄙な領地へトバされたクチだった。
言うなれば、ジギスムント1世の愛情が子々孫々へ深刻な負債を残したのだ。あるいは、呪いと言っても良い。
※ ※ ※
話を戻そう。
ド辺鄙な三人の領地はマキラ大沼沢地で獲れる天然素材やモンスター素材の加工業が領地収入で大きな比率を占めている。水害と大災禍をなんとかしないと首が回らなくなってしまう。
すなわち、マキラ大沼沢地の状況は他人事でも対岸の火事でもない。彼らも立派な当事者なのだ。
これは王国全体にも言えることだった。
マキラ大沼沢地は大陸西方有数の冒険者産業地域だ。つまり、モンスター素材と天然素材の大規模供給源。言い換えるなら立派な資源地域なのだ。これがマヒしたということは、カロルレン王国内の大規模な供給不足が発生し、関係する方々の産業や業界に多大な悪影響が及ぶだろう。場合によっては国外にも波及するかもしれない。
言い換えよう。マキラ大沼沢地の状況は国家経済の危機だ。
なのに、どういうわけか中央の動きが非常に鈍い。
「王は何を考えておるっ! まさか辺境の些事などと甘く見ておるのではなかろうなっ! このままマキラを放置すれば、破綻するのはワシらだけではないのだぞっ!!」
再びテーブルに拳を叩き付けるヴィルヘルム。息子達も親父に賛同するように拳を握りしめていた。
マキラ産の素材が入ってこないことは、ヴィルヘルムにとって悪夢的事態だった。なんせマキラ産素材の加工業以外にまともな産業が無い。このままでは領地破綻待ったなし。
「マキラ大沼沢地は食料自給が壊滅的に低い。我らの領内から物資が届かなくなって一週間以上経つ。既に餓死者も出ているだろう。時間が経てば経つほど住民が死んでいく。その次は我々だ。領の経済が破綻する」
フリードリヒはラファエルへ厳しい目を向けた。
「王や中央はこのままマキラを見殺しにするつもりか? それとも、我らを破滅させることが御望みか?」
「男爵閣下。お言葉が過ぎますよ」
ラファエルは流石に聞き咎める。
「……あたしらだけでも動くか」
ノエミが険しい顔つきでぽつりと言った。
「女男爵閣下。それは命令違反です。中央の命令は別命あるまで封鎖線の維持。マキラへ入ることは禁じられています」
「それじゃあ、マキラの民が死んじまうじゃないかっ!」
原則論を口にしたラファエルに、ノエミが青筋を浮かべて怒鳴った。
「この一週間、一匹でもモンスターが封鎖線まで現れたかっ!? 来なかっただろっ! なぜか分かるか!? それは奴らがマキラの民を食い散らかすことに夢中だからだっ! あたしらの助けを待っている民を、今この瞬間も食い殺してんだよっ!!」
「……助けないとは言ってません。ただ、今は封鎖線を維持し、大災禍の被害を封じ込めることを優先して」
苦しげに答えるラファエル。自分自身の言葉をまるで信じていない顔だった。
「黙れ、こわっぱぁっ!!」
ヴィルヘルムが吠える。
「このままでは大災禍が解決するより早くわしらの領が破綻しちまうわっ!! 封鎖線を続けるだけでも銭が掛かるんだぞっ!! 動くなというなら、飯代くらい出しやがれっ!!」
「二人とも、ラフィを責めるのは筋違いだ。彼に事の決定権はない」
フリードリヒが仲裁に入り、そして、冷厳な顔つきでラファエルに告げた。
「二日。もう二日だけ待つ。その間にマキラ救援の行動命令が出なければ、我々は近在領主として、領主権に基づき積極的行動を開始する」
賛同するようにヴィルヘルムとノエミが大きく首肯する。
ラファエルはストレス性胃炎の悪化を感じつつ、水銀蒸気みたいな重たい溜息を吐いた。
「分かりました。中央に改めて指示を仰いだうえで、皆さんの決意を伝えます」
眼鏡の位置を修正し、ラファエルは眉間に深い皴を刻む。
「中央に物言いたいのは、私だって同じなんです」
〇
「現場が堪えきれなくなったようです。二日以内に救援命令を寄こさないなら、領主権を盾に救援活動を始めると言っています」
王国中央府の執務室で報告を聞いた国務大臣は、首を小さく振る。
「まだ審議中だ。ナバル監督官に抑えるよう伝えろ」
「その……ナバル監督官自身が『さっさとまともな命令を寄こせクソッタレ』と」
報告の続きを聞き、国務大臣は目を瞬かせた。
「それは本当にナバル監督官か? あの毒にも薬にもならない大人しい眼鏡の?」
「はい、閣下」
「……分かった。下がって良い」
1人になった国務大臣は眉間を押さえて大きな嘆息をこぼし、上衣の内ポケットからスキットルを取り出して一口呷る。酒精を摂らねばやってられなかった。
時間を確認し、大臣は腰を上げる。会議の時間だった。ここ一週間以上、会議ばかりだ。もっとも、結論を出せない会議など時間の空費でしかないが。部屋を出る前に、大臣はスキットルをもう一口呷った。
飲まずにいられなかった。
中央府の重臣達と高級官僚、軍高官が会議室に集まっている。
議題はマキラ大沼沢地の救援計画―――ではなかった。
進行役の高級官僚が会議の始まりを宣言した。
「アルグシア侵攻計画について、改めて議論を開始します。マキラの状況推移と国内状況を合わせて御確認ください」
そう。カロルレン王国は戦争計画を立てていた。
現国王ハインリヒ4世は国土の膨張拡大を目指しており、アルグシアを標的に定め、準備と計画を進めていたのだ。
それも何年も前から。
カロルレン王国は国家規模こそ中堅ながら国力はそう秀でていない。先述したように国情は挙国一致からほど遠く、しかも社会の封建制が色濃いため民の国家帰属意識が高くない。貴族にしても啓蒙主義が浸透しつつも、旧来の封建主義が根強い。
このため、戦争計画は慎重に着実に進められた。情報を収集し、物資を貯め、装備を作り、軍制を整え、将兵を鍛え、戦略を練り、戦術を立て、作戦を考えてきた。この辺りは大クレテア王国先代国王アンリ15世に通じるものがある。
中堅国ベルネシアがクレテアを殴り倒す大金星によって彼らも一層奮起した。数年に及ぶ時間と費用と労力を費やした大計画はあと二年あれば、完了する見込みだった。
準備完了を目前に控えたところで、この水害と大災禍。
そりゃ会議を重ねてもなかなか結論は出まい。
この時期、軍を投じたなら、大災禍を速やかに鎮圧することも可能だった。それだけの戦力を備えていた。
が、それをしたら、カロルレンの戦争準備が露見する。メーヴラントは戦争ばかりしているため、どこの国も戦争の臭いに鼻が利く。
当然、戦争計画は水泡に帰し、数年に及ぶ時間と莫大な費用と労力がパァになる。そう容易く受け入れられるわけがない。経済学でいうところの埋没費用効果だ。金や資材や労力や犠牲といったコストが大きいほど、人は引くに引けなくなる。
仮の話として、此度の災害がクレテアで起きていたら、アンリ15世は渋々ながらも戦争計画を放棄しただろうし、宰相マリューが失脚覚悟で中止を訴えただろう。アンリ15世にしろ、マリューにしろ、国と民を重視していたから。
翻ってカロルレンはどうか。お偉いさんたちのやり取りを見てみよう。
「計画を優先すべきだ。マキラなど放っておけ。今から手を出したところで、あの水害は解決しようがない。モンスター共もそのうち飢え死にするだろうよ」
「マキラの住民はどうする?」
「どうせ貧民と賎業者ばかりだろう。大した数でもないし、代わりはいくらでもいる」
「貧しかろうと賎業者だろうと同胞だぞっ! 黙ってモンスターの餌にするというのかっ! そんな暴挙が通るかっ!!」
「啓蒙思想にかぶれた奴はコレだから。どう見做そうと民など国家の家畜にすぎん。だが、計画は王国の未来を左右する。どちらが大事か考えるまでもない」
「無辜の民を軽んじて国の未来が明るくなるものかっ!」
「落ち着いて。軍は限定動員とかできないんですか? 水害や住民のことは抜きにしても、マキラ産のモンスター素材や天然素材の供給が止まると、経済に大損害をもたらします。既に影響も現れ始めています。早急な解決が望めなければ、費用と物資面で計画に影響が出ますよ」
「限定動員でも同じことだ。露見は避けられん。領地兵団と冒険者で何とかできんのか」
「領地兵団の派遣は諸侯の同意を得られるか怪しい。それと、国内冒険者の大半はマキラで被災してる。数が集まらんよ」
いつもの堂々巡りが始まりだしたところで、今回は変化球が投げ込まれた。
「例の、ベルネシアからの被災地支援を利用してはどうだ? 民間の支援は受け入れるんだろう?」
「ああ。外交部が押し切られてな。間抜けめ。計画が露見したらどうする気だ」
「王の認可が出てるんです。文句を言われる筋はありません。港湾部で物資の受け取りだけすればいいでしょ。商工部だって喜んでたじゃないですか」
「まあまあ。この際だ。ベルネシアの冒険者も呼べばいい。大災禍に当たらせよう」
「外国人を引き入れて計画が露見したらどうするっ!」
「アルグシアと関係改善が進んでいるとはいえ、ベルネシアはアルグシアと国交を結んだわけじゃない。上手くやれば、引き込めるんじゃないのか?」
「関係改善が進んでると今言ったじゃないか。期待できないよ」
「商売狂いの王族令嬢が原因だったな。アルグシアの犯行に見せかけて暗殺しては?」
「先の事件で潜入工作員の多くを潰されました。暗殺のような難易度の高い作戦は不可能です。それに、その手の小細工は露見した時の代償が高くつき過ぎます」
「近衛騎士団を出しましょう」
若い将官が言った。
「侵攻計画は国運を賭した国家大計。今更中止になど出来ますまい。しかし、仮にも王家直轄領の民を見殺しにしたとあっては、やはり計画に瑕疵が生じます。軍を動員せず領民兵団と冒険者だけでは格好がつきませんし、諸侯も納得しない。計画露見を防ぎつつ、政治条件を満たすとなると、近衛騎士団しかありません」
「あんな連中、役に立たん」と鼻を鳴らす大臣。
一般に近衛と冠する部隊は精鋭が通り相場だが、カロルレンでは政治的に扱いが面倒臭い貴族のボンボンを収容する形式的部隊だ。実力のほどは……お察し下さい。
「構いませんよ。国内外へのポーズですから。大災禍の始末は我が国とベルネシアの冒険者達に任せましょう。まあ、ある程度の物資を切り崩すのは仕方ないですが、それだけで済む」
若い将官は微笑んだ。会議に参加した面々も納得したように首肯した。
もっとも、これらの話が正式にまとまり、近衛騎士団が現地へ向かうには、さらに時間を要した。近衛騎士団派遣の話が現地へ届く頃には、しびれを切らした特別税制領主達が、自分達の都合と良心に基づき行動を起こしていた。
〇
白獅子の所有する港湾部大型倉庫で、『アイギス猟団』と名付けられた猟団の結成式が行われていた。人員は50名規模。白獅子隷下の警備会社に勤める者達と、『北洋貿易商事』から参加した調査員から成る。
式典に臨む猟団の面々は着衣と装備が統一されていた。
カーキ色の山岳帽と上衣。黒いズボンと軍靴。茶色の硬皮革製防護ベストに装具。前衛要員達が身に着けている高魔導素材製甲冑もデザインを統一してある。完全に軍隊だった。
この簡素な式典に招待されている猟団員の関係者は、身内の立派な姿にどこか誇らしげ。
ヴィルミーナも結成式に参加し、簡単なスピーチをした後、一人一人と言葉短く接見した。
猟団の仕事はカロルレン王国被災地支援に含まれる冒険者派遣へ参加し、『北洋貿易商事』の調査と内偵の偽装となること。
また、この『アイギス猟団』は後に創設するPMCの試験を兼ねている。外国での活動経験とノウハウを得る重要な派遣だった。それだけに猟団の幹部は優秀な者を選りすぐっているし、現場要員も元冒険者だけでなく元軍人も揃えてある。
余談ながら……派遣中にも会社から装備を提供されるし、給料と特別賞与も出るし、大災禍で狩猟採取した稼ぎの7割を得られる(3割は経費として徴収される)。もちろん、死傷した場合の補償もばっちり。という好条件から参加希望者が殺到し、選抜試験が行われたほどだった。
短い式典が終わると、そのまま立食形式の懇親会が催される。
結成式に招待された猟団員の家族達が談笑する中、ヴィルミーナはブロイケレン猟団長へ告げた。
「無理はしなくていい。派遣前にこんなことを言うのはアレだけれど、失敗しても良い。それ自体重要な経験とノウハウになる。狩りの成果を上げることより、人員の保全と経験と技術を持ち帰ってちょうだい」
彼は中年の元冒険者で有名猟団の幹部だった。家庭を持ったことを機に不安定な冒険者暮らしを捨て、白獅子の警備会社に幹部として就職した。今回の猟団長への就任要請は断るつもりだったが、報酬内容を知った奥方に尻を蹴飛ばされる形で同意した。
「将来的な傭兵派遣業の布石、ですか?」
幹部職であるブロイケレンはそうした情報に触れられる立場だった。
「傭兵じゃないわ。危険地域における武装活動要員よ」
まさに詭弁の回答を返し、ヴィルミーナはチーズと魚肉のカナッペを手に取り、
「政治的な面倒もあるだろうけれど、その辺は『商事』の連中に押し付けていいわ。貴方は猟団の運営と人員を連れ帰ることに注力して」
ぱくりとカナッペを食べる。咀嚼して嚥下した後。呟く。
「あら、美味しい」
〇
ちきしょう。なんてこった。
騎乗用烏竜にまたがったノエミが胸中で毒づく。
某大作RPGのデカい鳥にそっくりな騎乗用烏竜だが、某デカい鳥に比べて顔つきがトカゲっぽいし、尻尾も生えていて、あまり可愛くはない。
騎乗用烏竜は馬に比べて足が遅く、牽引力が弱いため、平野部の多い大陸西方ではあまり需要がない。しかし、その高い難地形踏破力が好まれ、こういう災害時にも強かった。
その騎乗用烏竜をして難儀するほどの泥濘。水害が報告されてから一週間以上経つのに、増水は全く収まる気配がない。むしろ、増水した状態が既定状況になりつつある。
数騎の手勢を率いて先行偵察に出たノエミは、副官に命じた。
「ヴィル小父貴に伝達。道路状況は最悪。馬車での通行は極めて難しい。魔導術士による路面凍結で対処されたし」
「了解」と通信士は烏竜を降り、魔導通信器を積んだ烏竜の許へ向かう。上等なブーツがたちまち泥に塗れるが、通信士は気にもかけなかった。
ノエミは再び周辺を見回す。マキラ大沼沢地の特別税制領地に近い辺りは、比較的地盤がマシな湿地原野だった。
例年なら今頃は立木に若葉が広がり、春の草花に溢れ、雪解けの水溜りが陽光を浴びて煌めく幻想的な光景を見られたはずだった。鳥達の歌。虫達のダンス。獣達の散歩。生命の息吹に満ちた豊かな自然を目に出来たはずだった。
なのに、今は濁水に覆われた泥の湖が広がっているだけ。水面からぽつぽつと生えている立木が墓標のようだ。
なんて無残な光景なのか。
ノエミは苦々しい面持ちを浮かべ、動きの鈍い中央への怒りを新たにする。
「このまま前進する。橋の状態を確認へ向かおう」
「頭上に影っ!」
と、そこへ対モンスター用の大弓を担いでいた騎士の一人が鋭い声を飛ばした。ノエミも部下達も即座に警戒態勢をとる。
地面の状態がこれほど酷い状況で、飛行系モンスターに襲撃されたらシャレにならない。
上空を舞う影が旋回を開始し、信号弾を放つ。味方の翼竜騎兵だ。フリードリヒの翼竜騎兵だろう。維持費に大金の掛かる翼竜騎兵を自前で持つ領主など数えるほどしかいない。フリードリヒは領民兵団の戦力を抑える代わりに、翼竜騎兵を一騎だけ保有していた。
上空の翼竜騎兵が吹き流しのついた金属筒が投げ落とし、そのまま飛び去って行く。
「降りてこないとは無礼な」と騎士の一人が毒づく。
「地面がかなり柔らかい。下手に降りると飛び立てないのかもしれねーな」
翼竜の飛翔には助走が要るから、地面が軟弱だと離陸が難しい。
部下の一人が回収した金属筒の泥を拭い、ノエミに差し出す。
筒を開き、ノエミは中身に収められた文書を読み、顔を蒼くした。
「いかが、されましたか?」
副官が『出来れば知りたくない』と言いたげな顔で問う。
ノエミは血の気が引いた顔を副官へ向け、
「手遅れなのかもしれねェ」
呻くように告げながら文書を副官に渡す。
副官は心底『読みたくねェ』と思いつつ、文書に目を通す。そして、ノエミと同様に顔から血の気を引かせた。
そこには短くも重大な内容が記されていた。
『大型種ノ竜ヲ確認セリ』




