11:8
ちょい長めですが、御容赦を。
大陸共通暦1768年:ベルネシア王国暦251年:冬。
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム。
―――――――――――
寒々しい灰色の高層雲が覆う冬の早朝。
オーステルガム湾は空も海も船舶の往来が多い。連続殺人鬼が暴れていようと、港湾部外れのスラムが軍に包囲されていようと、ベルネシア社会は淀みなく回り続けている。
世はなべてことも無し。
「無知蒙昧の闇が包む無明の世界だ」
屋上に立ったそいつは忌々しげに街並みを見つめながら呟く。
衆愚を啓蒙せねば。この世界を愚昧な妄信と憐憫な無知から解放せねば。
治療したばかりの右腿の傷がずきりと痛む。
……あの忌々しい“聖女”め。
海竜大通りの騒ぎで遭遇した時、血が沸騰した。あの場で八つ裂きにしてやりたかった。この世を暗愚の雲で覆わんとする旧弊社会の象徴。白痴の権化。啓蒙の敵だ。
だが、あの女は“仕上げ”だ。この世界を維新する啓蒙の戦い、その総仕上げに用いなければ意味がない。
そいつはぎりぎりと歯ぎしりをした後、視線を移す。
通りの先には軍の検問が見えた。スラムの包囲封鎖線は今や鉄環の如く硬く厚い。突破は困難だろう。それに、予感があった。
憲兵隊の捜査が足元まで迫っている予感が。
恐らくはこの戦いは志半ばで終わるだろう。完遂は望めまい。
しかし、何も恐れることは無い。
そいつは目線を少し下げる。建物の壁に不気味な蝶の紋様が描かれていた。小柄な青年がじっと蝶の紋様を眺めている。
幾日か前から気付いた。あの青年は我が使命によって啓蒙された者。
我が使命をあの者に継承させねば。
いつの日か、必ずやこの世界を刷新するために。
継承を成し遂げれば、たとえ肉の器を失おうとも、恐れることは何も無い。啓かれた我が魂はこの無明世界から解き放たれ、新たな世界へ至るのだ。清廉なる真の世界へ解放される。そればかりか、我が死を以てより大勢の許へ啓蒙の福音を届けられるかもしれない。
もう何も恐れることは無い。もう何も怖くはない。
そいつは踵を返して窓から離れ、出入り口へ向かう。
使命を果たすために。
〇
結論から言えば、当たりだった。
第一事件の被害者である魔導装具士の店に出入りしていた業者。
第二の事件の被害者カルナ・ベフォンが利用していた魔導装具工房の取引業者。
第三の事件に関係する魔導具店に納品している業者。
どの店舗の出入り業者にも、同じ名前があった。
ヨブ・ラコルデール。
そして、いずれのヨブ・ラコルデールも、30半ば過ぎの髭面男。記録上の50男と一致しない。
「ヨブ・ラコルデール。52歳。ラコルデール準男爵家の次男です。魔導学院を卒業しましたが、魔導術士として大成することは無かったようで、雇われ魔導技師としていくつかの商会を渡り歩いてたようです。20年ほど前に独立して再生素材の卸しを始めています」
ハーベイの説明を聞き、キネは問う。
「女房子供は? 家族構成は分かるか?」
「妻は独立後して間もなく病死してます。子供は娘が二人。姉の方は外洋領土へ出国した記録がありました。帰国記録がありませんから今も現地でしょう。妹の方は不明です」
「不明?」
訝るキネへ、ハーベイは淡々と続ける。
「初等教育終了後の記録がありません。スラムに落ちたのか、他所へ移り住んだのか、追跡調査をしないことには」
「男子は居ないんだな?」
「居ません。ラコルデール準男爵家の本家にも目撃証言に一致する男子は居ません」
「各店舗に出入りしているヨブ・ラコルデールは偽物で、息子でも縁者でもない。そう考えてよさそうだな。成り済ましだ」
少し考えたのち、キネは決断した。
「明日の早朝、ヨブ・ラコルデールの自宅にガサ入れだ」
「特捜に報告しないんですか?」と不安を滲ませる。
「課長には挙げておく。それから、お前は来るな」
ハーベイは目を剥き、顔を強張らせた。
「ここまで来て、それは」
「明日のガサ入れが当たりなら、手練れの魔導術士と一戦やり合う。下手すれば、協力を求めた白獅子の警備に死傷者が出る。最悪、懲戒免職どころか責任追及で逮捕されかねん。お前は関わるな」
「でも――」
食い下がろうとするハーベイへ、キネは突き放すように言った。
「命令だ。いいな? 明日の朝、お前を見つけたら手錠をかけるぞ」
「……わかりました」
〇
夜の青みが残る早朝。港湾部スラム傍を通る青鴎通りの一角。
通りに面した建物は、大概が煉瓦造りの住居一体式店舗だった。
その住居一体式店舗の一つが『ラコルデール・マテリアル』という看板を掲げている。
建物は小ぢんまりした三階建て。一階部分は店舗で二階三階が住居部分。出入口は店舗用の正面玄関と裏口。裏口の脇にある露天階段から住居部分の玄関がある。住居部分に裏口はないが、屋上経由で両隣の建物に移動可能。
『ラコルデール・マテリアル』から少し離れたところで、白獅子のオペレーター達が簡単な打ち合わせをしていた。
「正面に4人、裏に4人。向かい側の建物屋上に狙撃手をツー・バイ・ツーで配置だ」
「突入と発砲の判断は?」
「死傷者が出たら、だ。ただし、その場合も目標の射殺は避けろ。生け捕りにして憲兵に引き渡さないと報酬が減る」
「そいつは困るな。よし。各員、展開しろ」
濃灰色の防寒つなぎと帽子を着込み、白い防具と装具を身に着け、黒い筒形マフラーで顔を隠した白獅子のオペレーター達が通りに展開していく。乗ってきた馬車を使って建物の周りに簡易バリケードをこさえ、配置についた。
全員が不満一つこぼさず朝一の仕事に従事しているのは、ヴィルミーナから支払われる特別報酬のおかげだ。軍なら命令書一枚とわずかな手当てでやらされることも、ヴィルミーナの警備会社ではしっかりした報酬が出る。それに、連続殺人鬼を捕まえられるかもしれない好機に目をギラギラさせていた。
「朝っぱらから物々しいな」
渋面を浮かべるキネ。
「常に最悪へ備えよ、です」
柔らかく微笑むマリサ。
「前歯を一本残らずイッてやるんだから」
動き易いよう髪を結いあげたアリシアは、ナックル部分の厚い皮手袋を装着。本気で犯人の前歯へし折る気だよ、このひと。
「アリス。顎をイワしたら犯行をゲロできねーよ。鼻潰すだけにしとけ」
「鼻なんて簡単に潰せるじゃん。前歯を折るくらいやらないと」
「武闘派過ぎるだろ、聖女様」
緊張感を感じない二人のやり取りに、キネは眉間を押さえて大きく息を吐いた。朝の冷気に触れた吐息がもうもうと白く煙る。
「いいな、俺が良いというまで外で待ってろ。勝手に中へ入って暴れたりするなよ」
キネが2人へ釘を刺すも、2人は不敵に口端を歪めるだけだった。近頃の貴族は娘にどんな教育をしているのだ……
気を取り直し、キネは階段を上って住居用玄関へ向かい、
「ラコルデールさんっ! 憲兵隊だっ! 起きてくださいっ!」
ドアを叩く。と、がちゃりと内開きのドアは屋内へ開いた。
キネは思わずぎょっとした。階段下に控えていたアリシアやマリサも驚き、オペレーター達は緊張する。
大陸西方や北方において、自宅の防衛権は極めて強い。
たとえば、夜間不法侵入した者を殺しても罪に問われない(侵入した段階で殺害しても、だ)。ドアが内開きなのも、いざという時に家具やらなんやらを置いて籠城可能にするため、という意味もあるらしい。
そんな大陸西方圏でドアに施錠していない。掛け忘れ? スラムが近い青鴎通りで? ありえない。就寝前の施錠確認はこの地域の住民にとって生活習慣だ。これは一種の異常事態と言って良い。
キネは右腰に差した拳銃の銃把を握りながら、開いたドアの奥へ向かって怒鳴る。
「憲兵隊ですっ! ラコルデールさんっ! ラコルデールさんっ!」
その怒声はドアの奥に広がる闇に飲まれ、何の反応も返ってこない。
キネは決断した。肩越しにアリシアとマリサを一瞥し、
「そこで待ってろ、勝手に入るなよ。いいな?」
不満顔の2人に念押しして屋内へ足を踏み入れる。
「憲兵隊ですっ! ラコルデールさん、入りますよっ! 憲兵隊ですっ!」
夜の残滓が色濃い早朝時のせいか、屋内は酷く暗い。屋内の空気は淀んでいた。
港湾傍特有の潮の臭いが混じった大気は、カビと埃の臭気を多分に含んでいる。床板や壁、天井もかなり傷んでいた。長いこと手入れを怠っているのだろう。
リビングはゴミとガラクタだらけだったが、ダイニングはもっと悲惨だった。
シンクには食器と食い滓が山と積まれ、ネズミ達はキネの姿を見ても逃げることなく食事を続けている。
冬場でよかった、とキネは思う。これが夏場だったら食い物の腐敗臭を嗅がされ、蛆と蠅の大軍を目にしていたはずだ。
しかし、酷い有様ながら、リビングやダイニングを見る限り人が生活していることは間違いない。
浴室を発見する。こちらもやはり小汚い。
浴槽代わりの大型タライ(低所得層は入浴より行水がメイン)と排水溝に血痕があった。屋上の貯水タンクから引かれている洗面台には、市販の回復剤や消毒剤、抗生物質薬品などが置かれ、血塗れのピンセットの傍に摘出されたらしい弾丸があった。
当たりだ。
「ラコルデールっ! 居ないのかっ!? ラコルデールっ!」
犯人と確信したキネは乱暴に怒鳴りつつ、廊下突き当りのドアに辿り着く。鍵を外してドアを開くと、階段になっていた。一階の店舗へ通じているらしい。
本命は上階か。
三階へ通じる階段も物だらけで、人一人通るのがやっとの有様だった。
「ラコルデールっ! 憲兵隊だっ! ラコルデールっ!」
三階に上がり、ねっとりとした大気と暗がりの中をキネは慎重に進んでいく。
一つ目のドアを開ける。
床に堆積した埃の状態を見るに、だいぶ前から使われていない。埃を被った二段式ベッドと調度品や荷物を見るに、娘達の部屋だろう。
二つ目のドアを開ける。
書斎兼家長の私室らしい。足の踏み場もないほど書籍や紙資料が積まれている。壁の棚には自作した物らしい瓶詰標本や剥製標本などが並んでいた。豚の胎児。小鬼猿や猪頭鬼猿の臓器。孵化しかけの鳥や烏竜。昆虫の類も多い。
部屋の一角には着衣や生活雑貨も置かれていた。おそらく犯人のものだろう。
ここと店舗内事務所を調べれば、偽ヨブ・ラコルデールの正体が分かるかもしれない。
だが、今は全室確認が先だ。書斎を出て三つ目のドアへ向かう。
こちらは物置部屋らしい。ガラクタだらけ。外れだ。
最後に、キネは夫婦の寝室らしい部屋を開ける。
がちゃり。
誰もいなかった。が、代わりに、キネは見た。
常軌を逸した世界を。
8畳間ほどの部屋の真ん中に置かれたベッドを中心に、床から壁から天井まで紋様がびっちりと書き込まれている。そこら中に黒い花弁と小鬼猿の頭蓋が転がっていた。
最も目を引くのは、天井いっぱいに描かれた蝶羽型魔導術式と、その中心に磔された骸だ。
ベッドを見下ろすよう磔にされた骸は、手足を大の字に広げ、やはり全身に紋様が描かれている。干からびた肉の残り具合から判断するに、骸は男性らしい。
おそらく……この人間の残骸が本物のラコルデールだろう。
犯人が何者であれ、ラコルデールに対して並々ならぬ感情を抱いていたことは間違いない。でなければ、死体を御神体のように飾ったりはしない。
この部屋はイカレた妄想と現実をつなぐ聖域だ。クソ惨めな犯人が自分を超越的存在だと信じるための礼拝堂。哀れな負け犬が縋り付く祭壇。狂気と妄念の便所だ。
キネは渋面を浮かべながらベッドの毛布の中へ手を差し込む。冷たい。どうやらこちらの動きを察して逃げ出したわけではないようだ。
巣穴を離れてどこに行った? スラム内にあるかもしれない貸し倉庫か? それとも、別の巣穴があるのか?
キネは締め切られたカーテンを開き、窓を開けた。やきもきした顔のアリシアとマリサが見上げてきた。
「誰もいない。それと、憲兵隊へ通報してくれ」
キネの報告に、狩りが空振りに終わったアリシアとマリサは歯噛みして唸り、大手柄の機会を逃したオペレーター達が慨嘆をこぼした。
〇
ラコルデールの自宅が大急ぎで調査される中、その昼過ぎ。
「犯人はスラムの外の人間だったか。ならば、一斉捜索は不要なのか?」
報告を受けた憲兵隊長官が渋面を浮かべる。既に一斉捜索に向けて相当の費用を投じている。ここで中止してもその費用は返ってこない。
が、特捜指揮官である憲兵大佐は首を横に振った。
「いいえ、長官。犯人自宅の特定は大いに捜査の一助となりましたが、それと一斉捜索は別です。犯人の自宅……いえ、犯人が住み着いていたラコルデールという人物の家からスラム内の賃貸契約書が見つかっています。それも複数。書類漏れを考えれば、借りている部屋は相応数に及ぶと見られます」
「部屋をいくつも借りてるとは、どういうことだね?」
小首を傾げる長官へ、特捜指揮官は説明を続けた。
「いわゆる又貸し商売ですよ。これはスラムなどに限りませんが、賃貸物件を借り受けた後、そこを又貸しして住居料を稼ぐんです。多くの場合、口利き屋や女衒が一部屋に複数人を住まわせ、費用を巻き上げています。この手の商売は大家も承知済みですから、契約書などを作らないことがほとんどです。犯人がいくつの部屋を所有しているか、現状での把握できません」
「なるほど……一斉捜索は予定通りに実施できるわけだな」
長官が最も重要な点について念押しすると、
「はい、長官。問題ありません」
特捜指揮官はにっこりと微笑む。
「予定通り、王都に巣くう害虫を減らせます」
〇
夕闇の帳が落ちてくる中、憲兵隊本部裏の休憩所でキネとカールスネーゲ憲兵大佐は並んで煙草を吹かしていた。
二人とも滅多に煙草を吸わない性質だったが、それでも、吸う時は吸う。たとえば、言いようのない疲労感に襲われている時とか。
「惜しかったな、キネ」
カールスネーゲは煙草を吹かしながら言った。
「犯人が在宅だったら逮捕できただろうに」
「私の能力不足です」キネは頭を振って「もっと早くに辿り着くこともできたんです。最初の被害者が出た時点で、店に出入りする業者まで注意深く調べれば、第二第三の事件を防げたかもしれない」
「俺はそうは思わんよ。第二第三の事件が起きたことで証拠と情報が集まり、お前は犯人の自宅を特定できた。そう思う」
紫煙をくゆらせるカールスネーゲの声色には、キネを気遣う調子はない。ただ、その健闘を称えるといった向きだけがあった。
「それで、犯人のクソ野郎は何者なんだ?」
「まだ情報の裏取りをしていませんが、順を追って説明します」
キネは煙草を吸ってから話し始めた。
全てはヨブ・ラコルデールが妻を流行り病で亡くしたことに端を発するらしい。
魔導術士としても、魔導技師としてもパッとしなかったラコルデールにとって、奇麗な女房は自尊心を満たすことができる唯一無二の存在だったようだ。
ラコルデールは娘二人にも恵まれ、ちょっとした不満を抱えつつも、概ね幸せな人生を送っていたが、この大事な恋女房の死により、頭のネジが外れた。
「娘達のベッドの下に隠されていた日記、おそらくは姉が記したものですが、これによれば、ラコルデールは娘達を女房と錯覚して犯していたようです」
「クズだな。死んでせいせいする」
カールスネーゲが吐き捨てた。キネも首肯を返す。
「行方不明の妹はその虐待によって死亡していました。そのことで姉は父親から逃げるために外洋領土に渡った。これが真実のようです」
「なんてことだ。そこで憲兵隊に通報していれば……」
「この件が発覚していなかったのは、ラコルデール一家が女房の死後、近所付き合いが極端に減っていたためです。娘達の姿が見えなくなったことは、娘達が揃って家を飛び出した、とごまかし、周囲もこれを信じました。青鴎通りはスラムに近く、非行に走る児童や、家出する子供も少なくないため、誰も疑わなかったんです」
キネは疲れた顔で話を続けた。
「妻と娘を失ったことで、ラコルデールはこの時期から完全に常軌を逸しています。表面上は普通に暮らしていたようですが、日記は完全に幻想怪奇小説のようなもので理解不能です。ハーベイが言うには暗号解読のような状態でして、妄想と事実の選別に苦労しています」
「では、犯人については分からないのか?」
「そこなんですよ、問題は」
カールスネーゲの問いへ渋面を返し、キネは煙草を一吹かしした。
「周辺住民が言うには、偽ヨブ・ラコルデールは親戚のハンセンと名乗っていました。ところが、その素性を示す物が今のところ何も見つかっていません。ラコルデールの日記を見るに、スラムで拾ってきた浮浪児のようなんですが、先にも言ったように記述内容が妄想と事実が混然としている関係で、氏素性が定かにならないんです」
「この事件は徹頭徹尾、狂人に振り回されてるな」
カールスネーゲは短くなった煙草を吸い殻受けに放り込み、問うた。
「その下の娘の死体は発見したのか?」
「いえ。どうやらラコルデールは娘の亡骸を加工してある種の標本、いや、御神体にしたようです。おそらく、その亡骸は今、犯人が隠れ家で“祀って”いると考えています。それと――」
「まだあるのか」と心底嫌そうに顔を歪めるカールスネーゲ。
「これは、まだ確定していませんが」
キネは声を潜めて言った。
「犯行は何年も前から行われていた可能性があります」
「――――なに?」
カールスネーゲが凍りつく。
「ラコルデールの日記には時折、生贄や供物と言った単語が出ており、また、記念品の獲得が記されていました。今回の被害者達が眼球を摘出され、開腹されたように―――」
「そんなことはいい。何人だ?」
「未確定ですが、数十人に達します」
その瞬間、カールスネーゲの浮かべた表情は、『恐怖を目の当たりにした人間』そのものだった。
「……勘弁してくれ。なんでそんな」カールスネーゲは頭を抱え「犠牲者は皆、スラムの住人だったのか」
「ええ。より具体的に言えば浮浪者や街娼でしょう。姿を消しても誰も気に掛けない」
キネは深々と嘆息を吐いた。
現代日本では年間行方不明者が年間約8万人。そのうち犯罪の可能性含む行方不明者は1パーセント未満。世界有数の治安優良国日本でも年間当たり600人以上が死体すら残さず消えている(警察に失踪届けが出されていないケースもあるだろうから、数字はさらに増えるだろう)。
魔導技術文明世界でも地球世界でも、闇は濃い。
「明日のローラー作戦ではどんなおぞましいモノが日の下に晒されることやら」
どこか倦み疲れた顔で呟くキネへ、
「私が手を回す。明日のローラー作戦に貴官も参加しろ。なんとしても犯人を逮捕するんだ」
カールスネーゲは強張った顔で呻くように告げた。
「このおぞましい悪を、なんとしても倒せ」
〇
吐息まで凍り付きそうな真冬の夜。
スラム内に漂う不穏な気配も不安な雰囲気も、ギイにはどうでも良いことだった。
安酒と阿片で酔っ払っていたギイは、自らが建物の壁に描いた落書きを見つめている。両翼と胴体に目を持つ不気味な蝶型の変形魔導術式に、ギイ以外には理解できない魔導言語の乱数的羅列。
魔導の深奥を表現したはずだが、何か足りない。これは不完全だ。なぜだ? なぜあの深奥に存在する真理を正確に表現できない。どうしてだ? 何が不味い? 何が問題だ?
イライラする。どうしようもなくイライラする。
近頃は酒を飲んでも阿片を吸っても薬物をキメても、その状態で女を抱いても、あの魔導の深奥を幻視できない。まるで真理から見放されてしまったように……
イライラする。どうしようもなくイライラする。
どうして、なぜ。なぜ再び幻視できない。もっと酒が必要なのか? 阿片や薬が要るのか? それとも、もっと別な何かが要るのか……? どうすればいい? どうしたら―――
刹那。ギイの瞳孔が猫のようにキュッと絞られた。
魔導励起反応。それも、かなりの高水準。
この縄張りを狙うカス共か? これまでぶちのめしてきたカス共の御礼参りか?
いや、これは―――
ギイは腰を上げ、励起反応の発信源へ向かって歩き出す。
まあ、何でもいい。誘いに乗ってやる。薄らバカをぶちのめしてすっきりすれば、多少は思考の巡りも良くなるだろう。
小汚い集合住宅が並ぶスラムの狭間をしばらく進み、猫の額ほどの空き地に出たギイは、
見た。
建物のシルエットに切り取られた四角い空に浮かぶ、巨大な蝶を。
鱗粉の如くまき散らされる数多の魔導言語。ギイを見下ろす両羽と胴体にある3つの目。その3つの眼を通して魔導の深奥を幻視した、その刹那。
ギイの意識が急速に薄れていく。体の力が抜け、崩れ落ちた。背中に大地の硬さと冷たさを感じる中、視界に影が映る。
黒い影が大きく笑う。
「小さき継承者よ。迎えに来たぞ」




