年齢という数字
もし人生がエスカレーターだとして、そのエスカレーターが高校、大学、働き始める、という順序であれば、僕は同期の人たちと比べて3年遅れて社会に出ることになる(「社会に出る」は変は言葉だと思う)。というのは、一年、自宅浪人をして、二年間大学院に在学をしていたからだ。僕が新卒で働きだしたときに、同期は働きだし、いまや社会人4年目になっている。
大学に入ってからは、周囲に自分と同じ年齢の人がいなくなり、わざわざ年齢の違いを考えることのほうがおかしいと思い始めた。だから、相手が年上だろうと、年下だろうと同じように接するようになった。そしてわかったのは、年齢という数字の不思議さである。
中学生、高校生のとき、野球部に所属していたときがある。野球部というのは、なぜだか上下関係が大好きな共同体である。新入部員のとき、先輩という年上から偉そうにものを言われる。だれもが嫌に感じるはずだが、1年経てば新入部員は二年生となり、新たに入ってきた部員に偉そうな態度をとり始める。周囲をみていると、今まで我慢してきたから今度は自分たちが偉そうにする番であるらしい。
中学生のときから、この習慣が変だなぁと思っていた。自分は、偉そうな人になりたくなかった。そういう大人が苦手だったからだ。だから、後輩には近づかないようにしていた。近くと偉そうにしないといけない雰囲気があったからだ。
そもそも、年齢が違うことで上下関係が生まれるのもおかしな気がする。とくに中学生のときは、学年差と年齢差が対応している。つまり、先輩と後輩というのは、ただ1・2年早く生まれたかどうかだけの話である。なぜ、生まれたときがはやいだけで、偉そうにできるのか。そういう慣習だといえばそれまでだが、それはよき慣習か?僕はデメリットのほうが多いと思う。
上下関係をスポーツのなかでつくるならば、上手にできる人が上に立つのが筋だろう。それができないなら、いっそのことみんな同じような言葉遣い、同じような態度をとるのが良いのではないか。実際に学校生活から離れると、年齢に関係なく、ある程度の礼儀を尽くすのが一般的だと思うのだが。
年齢が重要視されるのは、上下関係だけではない。「好きなタイプは?」という質問に対して、「年上の方がいいです」というときに年齢という数字が登場する。年齢が上であると、なぜが包容力や寛容性がますと考えられているらしい。もちろん、年齢という数字がそうさせる理由はない。たしかに、年齢を積み重ねると、人生経験も豊富になって、包容力や経済力も豊富な可能性は高い。しかし、年齢が絶対にそうさせるのではないのを忘れてはいけない。その人からみて年下の人にも、包容力や寛容性がある人はいるだろう。
つまり、年齢という数字にこだわりすぎない方がいい。年齢という数字にこだわりを見せる人は、僕からすれば、自分で自分を縛り付けているようにみえる。「年上だから・・・」「年下だから・・・」ということで決まりがあると考えたほうが、いろいろ考えないでラクなんだ、と。




