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共約不可能性なしで済ます現状

 共約不可能性をご存知だろうか。

 自然科学の世界では、かつて天動説という科学観が主流であった。聖書に基づいたその考え方は、地球を不動のものとして、太陽などの天体が動いていると主張する立場である。現代では否定された考え方ではあるが、地球に住んでいる僕たちの直感に近い考え方ではある。普段、僕たちが町を歩いているときに、地球の自転や公転を感じる人はまずいない。そして、毎日太陽は東から西へと動いている。だから、動いているのは太陽であって、地球ではないと考えたくなる。時間を経て、地動説に科学観は変わった。動いているのは天体ではなく、地球の方であった。

 

 しかし、面白いことがある。天動説はいまになっては役に立たない科学観ではあるが、それなりに宇宙の動きを説明することはできた。そして、天動説で使われる概念は、地動説に完全に置き換えることはできない。その理由として、それぞれが使っていた用語の意味が異なることが挙げられる。つまり、同じ言葉でもそれぞれが違う意味合いで使用していたので、単純に両者を置き換えることができないのである。これを共約不可能性という。


 この話をすごく簡単な話に置き換えてしまおう。二つの異なるトンカチであれば、優劣をつけることはできる。実際に叩いてみたり、大工さんに使ってみてもらえばわかるだろう。しかし、トンカチとハサミのどちらが優れているかは判断できないだろう。ナイフとパン、ものさしと机、種類の異なるものは「単純には比較できない」。僕で言いたいことは、この異なる種類のものは、「単純には比較できない」ということである。


 法律における刑罰もそうである。たとえば1人の人が殺されて、加害者は10年の実刑に処されたとしよう。被害者家族は、10年では短すぎると感じるかもしれない。もしかすれば、「死刑」が妥当だと考えるかもしれない。もちろん、被害者家族の主張だけで「死刑」にはできない。量刑の制限は、法律とこれまでの前例によって構成されているからだ。

 

 そもそも量刑に完全に納得するのは困難なことかもしれない。なぜなら、「刑罰の程度」と「被害内容」は、あきらかな異質なものであるからだ。これは、トンカチとはさみを比較するのと似ている。ここには、「単純には比較できない」という共約不可能性と類似した絶対的な壁がある。だから、僕として、「まぁ、こんなものでしょう」と言える程度だと思っている。

 罰金でいえば、慰謝料というのは「これこれに対して、これこれの罰金にしときましょう」といったもので、数学のような等式(A=B)が成立しているわけではないのである。あくまでも、「こんなものでしょう」であって、悪しき行為とお金は等価交換しきれない。ただ、できるように装っているだけである。しかし、お金以外に見合うものはないから、いまはこれで物事を済ませているのである。


 「ある悪しき行いに対しては、それに見合った罰がある」と思い込んでいる人が、「私刑」を主張するのかもしれない。「なぜ、悪いことをしたのに、あれで済むのか」といって、面倒な正義感を奮い立たせてしまう。しかし、そもそも行為に<完全に見合う>罰というものはないのではないか。いまの日本に生きる僕たちにできることは、司法の判断に任せる、それだけである。



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