無意識の条件付け
僕たちは、意識せずとも条件付けを行い、普段の生活を円滑する。条件付けとは、「〜のときは」「もし〜なら」という条件文のことを指す。たとえば、「人をなぐってはいけない。しかし、もし他者によって自分の命が危険にさらされるなら、相手を殴って自分の命を確保してよい」という正当防衛が挙げられる。
要するに、「人を殴ることはよくない」ということが、いつでもどこでも当てはまるものだとすれば、正当防衛のために暴力を行使することは矛盾を引き起こす。それを解消するために、この場合では「もし他者によって自分の命が危険にさらされるなら」という条件文をつけ加えるのである。
他の例も探してみる。僕たちは、「動物の命を大切にしなければいけない」という共通理解をもっている。しかし、そういうことを表向きでは言いつつも、僕たちは豚、牛、鶏の肉をたべる。「人を殺してはいけない」と文は、わざわざ言葉にしなくても共有している規範である。しかし、日本には死刑制度がある。なぜ死刑は許されるのか。その理由として、「法的な手続きがなされているのであれば」という理由を僕たちは見出すのである。
この条件付けに、自分を当てはまめるとワガママな人間になる。「順番は守るべき」が「私の場合は、順番を守らなくてもよい」となったり、「機会は平等に与えられるべき」が「私だけは、周囲より機会が多くてよい」となったりする。つまり、「私だけ」、「私の場合は、」という条件付けによって、自分を特権化し、自分勝手な行為を意味するようになる。
このような自分勝手な行為に対して、多くの人は疑問を投げつけるだろう。「どうして、あなただけなの?」と。条件づけは、何を用いてもよいわけではない。それなりの理由が必要である。先にも挙げたが、「なぐることはだめ」と皆が口を揃えて言う。しかし、「先生が生徒に対する教育として行うとき…」という条件付けが行われると、「そのとき、なぐる、はたく行為は許される」となり、体罰を許容する表現となる。このとき問わなければならないのは、この条件である。つまり、「なぜ、教育に関するときだけ許容されるのか?」と。




