特定の対象か、特定の領域か。
友人にあるゲームをしようと誘ったときの話である。彼は、次のように断った。「あのキャラクターがいないから、そのゲームをしたくない」と。僕には、言っている意味がわからなかった。どうやら彼は、そのゲームのルールや雰囲気は好きらしい。しかし、ある特定のキャラクターがいないから、やる気が起こらないというのである。
僕の誘いを断るのに気を使って、そういう遠回しの否定を使ったのかと思ったのが、どうやらそうではなかったようだ。というのは、結局彼は、僕と一緒にそのゲームをはじめたからだ。しばらくして、友人のお気に入りのキャラクターがゲームに登場した。友人に感想を聞いてみると、次のような回答が帰ってきた。「そのキャラクラー、使ってみたらいイマイチだった」と。しかし、彼はそのあともそのゲームを続けている。
キャラクターの有無で選択肢を狭めるのは、個人的にはもったいないような気がした。しかし、ここで話の中心にすえたいのは、「あのキャラクターがいないから、そのゲームをしたくないという心情」である。それはどういう感覚なのだろうか。
僕は、ゲームの雰囲気やルールがおもしろければ、そのゲームをやってみたいと感じる。自分が好きなキャラクターがいそうかどうかは二の次である。しかし、友人はどうもそうではないらしい。
これは、「特定の対象」と「特定の領域」の違いで言い表すことができる。僕は「特定の領域」を見て、好みかどうかを判断する。ゲームでいえば、ルールと雰囲気である。スポーツでいえば、サッカーという領域のカテゴリーで好きになるのであって、特定の選手がいるから、特定チームを応援するということはない。つまり、僕の場合、野球であれば、野球自体が好きになるのである。好みの異性の話でいえば、その人の雰囲気や思考などの<全体>に重きをおく。
それに対して、友人は「特定の対象」に重きをおく。ゲームであれば、特定のキャラクターがそれに当たる。スポーツでいえば、特定のスタープレイヤーに目をつけて、あのプレイヤーがいるからあのチームを応援したいということになる。好きな人がいれば、その人の顔や性格などの<部分>に着目する傾向がある。
どちらがよくて、どちら悪いという問題ではない。また他人に害をあたえるような事柄でもないから、個人の勝手である。ただ、「特定の対象」に重きを置く場合、友人がそうであったように、期待が裏切られる場合が多いかもしれない。ある一人のアイドルを熱烈に応援しても、裏切られたり、すぐに引退する可能性がある。スタープレイヤーに目をつけても、いつかは引退するしてしまう。「特定の領域」に重きをおけば、そうはならない。個人ではなく、アイドルグループ全体を応援すれば、すぐに応援対象がいなくなることはない。野球自体を応援するのであれば、死ぬまで応援し続ける可能性が高い。
もしかしたら、「特定の対象、個人」に着目するひとは、引退や裏切られるこを通して、ころころ自分の興味が変化することを楽しんでいるのかもしれない。たしかに、その楽しみ方は、彼ら特有のものである。
あなたはどちらのタイプでしょうか。




