矛盾を超越する人間
正義感が強い中学生がいた。普段の言動からは、そのような様子を伺うことができないが、納得できなことがあれば、口調が変わり、自分の意見をはっきり述べていた。僕にとっては意外性があったので、その人を見直した。そういうこともあってか、学校では生徒会長をしているらしい。
しかし、なぜだが自分の行為に対する批判は行わない。僕は、その生徒の行為に対して、行為の変更を求めた。その際、なぜそれがよくないのかの理屈を説明したが、無視である。困ったもんだなぁと思っていた。その人は、他の人に「うるさい」と言って静かにするように求めることもある。しかし、自分自身が私語をしていて、注意されるとすごく不機嫌になる。
不思議なものである。他人に注意はするが、自分に対しては注意をしない。つまり、自分には甘いのである。これでは、正義感というよりかは、自己贔屓のように思えてくる。ここで主張したいことは、彼の言動を問題視することではなく、「人間というのは、そういう矛盾を平気で行う」ということである。
彼の場合は、他の人には静粛を求めるが、なぜか自分だけはそれがあてはまらないということにある。実際に、本人になぜそのような行為をするが理由を尋ねてみたが、教えてはくれなかった。自分だけは、静かにする必要がない理由がなければ、それは矛盾を犯している。
ただ、人間は平気で矛盾を犯すものだ。僕も例外ではない。自分だけ優しくしたり、自分だけ特別視したり、「この場合は、あの場合と違う」と言ったりする。往々にして、矛盾には理由がある。彼が、矛盾したことをしたとしても、そこにはやましい理由があるのだろう。たんに「私語をしたくなったから」というものかもしれない。矛盾だからといって、それは間違っている、ダメだとはいえない。そこには矛盾をもたらす原因が潜んでいる。それを見極めることが重要である。
僕たちは、植物を命とみなし大切にするが、雑草は平気で抜く。それは一種の矛盾だが、そのような矛盾をもたらす理由は、すぐに思いつく。理由があれば、それはもはや矛盾でなくなる。矛盾を超越するのである。




