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「人間として叩くのはよい」とは何か?

 体罰は、なしという方向になっている。個人的には、それでいいと思う。会話のやりとりができる人間同士であれば、会話で説得するべきだと思う。ただ、まだ言葉を覚えていない赤ん坊であれば、熱いものを触れようとしたとくに手の甲を「めっ!」とはたく程度であれば、世の中も許してくれるかもしれない。学校に必要なのは、注意にしたがわない生徒に対する対応であろう。たとえば慎まない私語は、他人の迷惑になってしまうから、教室から追い出してもよいなど、暴力以外の解決方法をルール化してしまうほうがいいのではないだろうか。生徒も納得いくかもしれない。


 だた、お互いに許しあっている場合はどういう態度をとればいいのか。体育会系の高校生と話をする機会があった。その人は、高校の推薦で進学した人で、みるからに体育会系の体型でした。その人が言うには、顧問は注意として手を出す、と。それは「体罰じゃない?」と尋ねたら、「いや、相手が怪我しない程度にしてくれている」という、回答であった。


 これはたまに耳する理由「体罰は人として扱っているのであれば許される」といえる。ものとして扱っているのではなく、人として扱っているので、たんに殴ったり叩いたりするのとは違う、という主張である。そのとき体罰は「愛の鞭」というフレーズを使う人もいる。しかし、僕はこの話にはついてはいけない。なぜなら、「人として殴らない」というのが基本にあるからだ。叩いた対象が「人」だから、僕は体罰はしないほうがいいのでは?と単純に思う。つまり、「人として叩かない」と言いたい。むしろ、ものにあたるのであれば、たんにイライラを解消しているのかなで済む話である。


 子供への虐待は、この主張とは逆だ。子供へのしつけとして手を出してよい理由として、「人様の言葉はだめだが、自分の子供はよい」という理由を聞く。「自分の子供はよい」の「自分の」という言葉は、英語でいう所有格の「my」である。所有格は、その漢字の通り、誰の所有なのかを表す言葉である。つまり、「<自分の>子供だから」という理由は、子供は親の所有物という前提がある。ここに、子供を「もの」のように扱う姿勢が感じ取れる。子供も人である、人は誰かの所有物になることはない。少なくとも、奴隷制がない日本では、ありえないことだろう。


 いま思ったことだが、もし先生あるいは親が、子供に手を出したとする。それに対して子供が暴力で対抗したとする。その行為に対して、先生あるいは親が「自分のしたことをわかっているのか?」と言ったとする。それに対して子供が、「暴力をしてはいけないということをわからない人間をしつけるために殴った」と言ったとしたら、どう先生や親は答えるのだろうか。

 そんなブッラクユーモアな話は、もうすでに誰かが考えているかもしれない。子供がそんなことを言うはずがないとすれば、大人が子供から気を使ってもらっているのである。



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