6. おうちへ帰ろう
「あなたの願い事を一つ叶えてあげましょう」
僕がそう言うと、泣いていた小さな男の子が目を上げて僕を見た。
水たまりから僕が現れても、驚いていない。泣いていて、見ていなかったようだ。
「おにいちゃん、誰?」
「僕は妖精です。あなたの願いを叶えます」
「ぼく、おうちに帰りたい」
男の子は即答した。どうやら迷子のようだ。
「うちに帰りたい。それが、あなたの願いですか?」
「うん」
「契約成立です。では、帰りましょうか」
僕は男の子に手を差し出した。
雨が降っていた。
僕は男の子と手をつないで歩きだした。
男の子は右手に傘を持ち、左手を僕とつないでいたが、途中で僕を見上げて訊いてきた。
「おにいちゃん、濡れない?」
「大丈夫です」
僕は微笑んで答えた。
優しい子だと思った。
そのままなんとなく気の向く方へ向かって歩いていけば、そのうち男の子の家に辿り着くはずだった。
……ところが。
僕が予想していたよりもずっと早く、男の子は家に着いてしまった。
アパートの屋根の下に入って男の子が傘を閉じた瞬間、僕はここの二階に男の子の家があることが分かった。
歩き始めてから、まだ五分も経っていない。
でも、子供にとってはそんな距離でも大きいのかもしれない。
「では、契約は終了ということでよろしいですか?」
僕がそう訊くと、男の子は首を振った。
「ぼく、まだ帰れないの。おにいちゃん、遊んで」
「それはできません。お願いは一つだけです」
可哀相かなとは思ったが、僕は少年の二度目の頼みを断り、アパートの外階段を上がって、少年の家の呼び鈴を押した。
「あ、ダメ……!」
追いかけてきていた男の子が叫んだ。
僕は気にせず、もう一度呼び鈴を押した。
「……うるっさいわね」
玄関のドアが開いて、目つきのきつい女性が出てきた。男の子の母親だろうか。
「誰? 新聞ならお断りよ」
「いいえ。あなたの息子さんが迷子のようだったので、お連れしました」
「はあ?」
女性は僕の後ろに隠れるようにしていた男の子に目を留めると、
「ちょっと。外で遊んできなさいって言ったでしょ!」
と叱りつけた。
「え?」
僕が思わず呟くと、
「あなたも。その子は迷子なんかじゃありませんよ。子供は外で遊ばなきゃ。だから、余計なことしないでください」
「はあ……」
「おーい、まだかぁ?」
家の奥の方から、男の声が聞こえてきた。
すると女性は目に見えてそわそわした。
「じゃ、そういうことなんで」
と言って、さっさとドアを閉めてしまった。
残された僕はしばらく呆然としてしまったが、やがて事情を察した。
「今、家に誰か遊びに来てるんですか?」
男の子にそう訊くと、頷いた。
「ママのこいびとだって。こいびとが来てる間は、ぼくは家にいちゃいけないんだって」
「そうかー……。じゃあ、恋人が帰ればあなたも家に帰れるんですね」
僕がそう口にした時、
「あれ、コウちゃん。また家を追い出されたの?」
どこか聞き覚えのある声が、横合いから聞こえてきた。
「あ、おねえちゃん」
コウちゃんと呼ばれた男の子が呟く。
「お姉さん?」
と僕が訊くと、コウちゃんは首をかしげ、
「お隣のおねえちゃん」
と説明した。
「へえ……」
僕が何気なく見ると、そこにはブレザーの制服を着た、女子高生と思われる少女が立っていた。
その顔に、どことなく見覚えがあるような気もする……。
「あ、あんた!」
不審げな表情で僕を見ていた少女が、急に目を見開いて叫んだ。
「え?」
「まさか、あの時の妖精?」
その言葉で、僕はその少女と以前会ったことがあるのを思い出した。
かつて、僕と同じ力が欲しいと願った女の子だ。
あの時はもっと小さな女の子だったと思ったのに、いつの間にこんなに成長したのだろう。
元々僕の寿命は人間よりずっと長いから、時間の感覚も随分曖昧なのだけれど……。
そういえば、この子の願いを叶えた後はやたらと眠くて、眠ってばかりいたから、その間に時間が経ったんだろうな。
そんなことを考える僕のもとへ、少女はつかつかと近づいてきた。
「あんた、その子の願いを聞いたの?」
コウちゃんの方を示して、そう訊いてくる。
「ええ。家に帰りたい、それがこの子の願いでした。だから僕は、この子を家に連れてきました」
「まだ『帰れて』ないじゃない! 何やってんのよ」
「いえ、多分もうそろそろ……」
僕が言いかけた時、コウちゃんの家のドアが開いて、若い男が出てきた。
「じゃあな」
「待ってよ……」
「だから、急用だって言ってんだろ。また来るよ」
「うん……」
ドア口で中の女性と少し会話した後、そのまま歩き去っていく。
コウちゃんの表情が少し明るくなった。
「ぼく、帰るね。ばいばい、おにいちゃん、おねえちゃん」
と言い置くと、まだ開いていたドアの隙間から家へ入っていってしまった。
「ええと……、契約は終了ということで、いいのかな……?」
「ちょっと待って!」
僕の呟きに、答える声があった。
少女は眉根を寄せて僕を見つめていたが、
「ちょっと、相談があるの。うちへ来てくれない?」
と言いながら僕の腕を掴んだ。駄目だと答えても、そのまま引っ張っていきそうな勢いだ。
「いいですよ。時間ならありますし」
僕はおとなしく少女についていくことにした。
「まず、改めて自己紹介しておくわね。わたしは景山理桜。ついでに言うと、さっきの男の子はコウちゃん……幸太君というの」
キッチンとくっついたダイニングのテーブルに二つのコップを置きながら、少女――理桜が言った。
「あ、どうも。ご存知のように僕は妖精で、先日アルペジオという名前が付きました」
「へえ、名前……。アルペジオって、何だっけ、何か、音楽用語だったよね?」
「そうなんですか? ピアノ好きな子に付けてもらったので、そうかもしれません」
「ふうん……」
理桜は呟き、少し躊躇った後、こう言った。
「あのね、アルペジオ。幸太君、いつもあんな感じで、お母さんに家を追い出されてるの。なんとかならない?」
「なんとかって……」
「普段はね、それでも大丈夫そうなんだけど、さすがに雨の日とかはつらそうでさ。この辺、屋根のある遊び場ってあんまりないから。駅の反対側まで行けば図書館とかがあるけど、ちょっと遠いし、行き場がなさそうな時は、気付いたらうちに上げるようにしてるんだけど……。それでも、わたしがあのお母さんのことを悪く言うと、コウちゃんは怒るんだよ。『ママは悪くない!』って。それが可哀相でさ」
僕は、コップのお茶を一口飲んで、首をかしげた。
「それで、僕にどうしろっていうんですか?」
「あの子の、本当の願いを叶えてあげてよ。このままじゃ、あんまりよ……」
「僕が叶えられる願いは、一人につき一つだけです。ご存知でしょう? いっそあなたが願いを叶えてあげればいいじゃないですか。あなたが叶えられるのは、どうせ他人の願いだけなんですから、それをあの子のために使ったら」
「わたしだってそうしたいわよ。でもあの子、わたしには『遊んで』としか言わないんだもの。それがあの子の本当の願いなはずないのに」
そこまで言うと理桜は、皮肉っぽく笑った。
「それに正直、わたしはもう誰かの願いを叶えちゃったのかと思ってた。ノート見せてとか買い物してきてとか、しょちゅう色んな頼みを聞いたから、それがカウントされちゃったのかなって。でもそういうわけじゃないの?」
「違いますよ。あなたは僕と同じ力を得た時に、その力の使い方も知ったはずです。お互いが合意してきちんと契約するまで、願い事は効力を発揮しません」
「うん。そうだね。そうだったよね……」
理桜は遠い目をした。
「……あのね、わたしには、母親がいないの。もちろん最初はいたんだろうけど、わたしがまだ小さい頃に死んじゃったんだって。代わりにお父さんが、働いて、ごはんも作って、ずっとわたしを育ててくれた。今はわたしも、家のこととか色々手伝えるようになったけど、これまでさんざん苦労をかけたと思う。だからわたしは、他人の願いしか叶えられないなら、本当はお父さんの願いを叶えたいの。でもお父さんは、わたしが立派な大人になって幸せに暮らすことが一番の願いなんだって。馬鹿よね……」
口にした言葉とは裏腹に、理桜が凄く嬉しく思っていることはよく分かった。
「でもコウちゃんにはわたしみたいに、心から子供の幸せを願ってくれる親がいないの。だから、それならいっそコウちゃんのために力を使いたいって思ったけど、それもうまくいかないの」
理桜の唇が歪んだ。
「わたしはきっと、『母親』ってものに憧れがあるんだよ。だから余計に、あのお母さんのことが許せないんだと思う。でも、どうしたら良いのか分からない……。コウちゃんが、お母さんに優しくなってほしいって願ってくれればいいのかな? コウちゃんにそう言わせるために、協力してくれる?」
理桜が、他人である幸太君のためにそこまで考えているということに、僕の心は動いた。
「……『うち』という言葉には、建物としての家だけでなく、家族などを含む家庭の意味もあるといいます。だとしたら『うちへ帰りたい』というあの子の願いは、『おかえり』と迎えてくれる家族がいて初めて叶うのかもしれませんね……」
「……え? え、じゃあ――」
理桜の瞳に、期待の光が灯る。
「ええ。理桜さんのお話はよく分かりました。あの子はまだ、『おうちに帰』れていない」
「ありがとう!」
ぱっと立ち上がって僕の手を握る理桜に、僕は微笑んで見せた。
「――この契約は、まだ完了していません」




