2. 叶えたい夢
「あなたの願いを一つ叶えてあげましょう」
僕がそう言うと、その少女はにっこり笑った。
「ありがとうございます。あなたはご先祖様の霊ですか?」
彼女がそう考えたのは、僕が仏壇に供えられた水入れから現れたからだと思う。
「いいえ、違います。僕は妖精です」
「はあ、そうなんですか……」
「あなたの願いは何ですか?」
僕がそう訊くと、少女は少し迷うように首をかしげた。
「願いを、叶えてくれるんですよね。それは、頼めば絶対に叶うんですか?」
「ええ。いくつか不可能なこともありますが、大抵のことなら」
「そうですか。だったら、お願いするわけにはいきません」
「え?」
僕は驚いた。
今までにも契約を断られたことはあったが、ここまで即座にきっぱりと断る人は珍しい。
「どうしてですか?」
「私には夢があります。でもそれは、私自身の力で叶えなくては意味がないから」
「ああ、なるほど……」
少女の夢というのが何なのか、ちょっと気にはなったが、僕は話を進めることにした。
「では、契約の権利を放棄するということでよろしいですか?」
「ええと……、あの、願うのは、私の一番の夢に関する願いでなくてはいけませんか?」
ふと気付いたように、少女は少し頬を染めながら訊いてきた。
「いえ、そんなことはないですよ」
僕が答えると、
「もし願いが何でもいいのなら、私と友達になってくれませんか?」
と、目をキラキラさせながら言った。
そんなことを言われたのは初めてだったから、胸の奥がむず痒いような気分になった。
「……僕とあなたが友達になる。それが、あなたの願いですか?」
「ええ」
少女が大きく頷く。
僕は少し考えたが、この願いを叶えることに、特に問題はないように思えた。
「……契約成立です。あなたの願いは叶いました。今から僕達は友達です」
「本当ですか!? 嬉しい。それならぜひ、私のピアノを聴いていってください。それで、できれば感想を聞かせてください」
「それはお願いですか? 残念ながら、願いは一つしか叶えられないんですが」
「いいえ」
少女は微笑んだ。
「私はお友達として、あなたを誘っているんです。もしもお忙しいのなら、断ってくださってもいいんですよ」
「別に忙しくはないですが……」
なんとなく、騙されたような気がした。「友達」という言葉を盾にして、際限なく「お願い」をされそうな予感がする。
……でも、まあ、普通の人間にもできるようなことなら、聞いてあげてもいいのかもしれない、と僕は思った。
だって僕は、彼女と友達になったんだから。
「そういえば、まだあなたのお名前を聞いていませんでした。私は杉本友香といいます」
ふと気付いたように、少女――友香が言った。
「名前ですか? 特にありませんが……。人間の皆さんは『妖精さん』と呼んでくださいますので、問題はないかと」
「そんな。『妖精』は名前ではないじゃないですか」
「そう仰るなら、あなたが付けてください」
「え!?」
「……嫌ならいいですが」
「嫌なんて、そんな。でも、本当に私が付けてしまっていいんですか?」
「ええ。お願いします」
友香はしばらくじっと考え込んだ後、
「アルペジオ……というのはどうですか? ふと思い浮かんだんですけど。それで、普段は『アル』と愛称で呼ぶんです」
と、言った。
そう言う彼女の表情は、なんだか妙に嬉しそうだったので、僕までつられてにっこりしてしまった。
「ありがとうございます。友香さん」
「はい、アル。……嬉しい。友達を愛称で呼ぶの、ずっと憧れだったんです」
弾む声で言うと、友香は部屋のドアまで歩いていき、そこで振り返って僕を手招きした。
「こっちへどうぞ」
ついていくと、友香は廊下へ出て、そこにあった階段を下り始めた。
地下には大きな部屋が一つあって、その真ん中に一台のグランドピアノが置かれていた。
「ここに座ってください」
友香が示したソファに、僕は腰を下ろした。普段はピアノの先生か誰かが座る場所だろうか。
友香はピアノの大きい蓋――屋根――を少しだけ上げると、ピアノの椅子に座り、鍵盤の蓋を開けた。
両手の指を、鍵盤の上に置く。
そして、一つ息を吸うと、その指がもの凄い勢いで鍵盤の上を踊り始めた。
最初は速く強く、やがて少し穏やかに切なく、そしてまた速く――。
音の奔流に、僕は言葉を失ってただひたすら耳を傾けた。
だが、途中でふっ…と突然、友香の指が止まってしまった。
僕がびっくりして友香の顔を見つめると、彼女は苦笑いして、少し前のフレーズからまた弾き始めた。
曲が最後まで終わった後、友香は僕を見つめて訊いてきた。
「どうでしたか?」
「凄かった。あんまり上手くてびっくりした」
僕は正直に答えた。興奮のあまり、敬語を忘れてしまった。
「ありがとう」
友香は嬉しそうに微笑んだ。
「あ、でも、途中で一回止まったのは何だったんですか? そこだけちょっと気になりました」
僕は、いつもの僕を取り戻してそう付け加えた。
「一ヶ所指を間違えてしまって……」
「そうなんですか? 全然気付きませんでした」
「先生にも言われるんです。間違えても止まらずに最後まで弾けって。頭では分かっているつもりなんですけど、ついつい手が止まってしまって。私の悪い癖なんです」
「『悪い』癖、なんですか?」
「はい……。え? どうしてですか?」
「なんとなく、友香さんは、本当は悪いと思っていないんじゃないかと思って。一音も間違えずに弾きたいんでしょう? だから、ちょっとでも間違えると最初からやり直したくなるんじゃないですか?」
図星だったのだろう、友香は少し困ったような悲しげな顔で俯いてしまった。
「それが本当に悪い癖だというなら、本気で直す努力をしないと」
「……本当に、そうですね……」
友香は困った表情のまま、それでも笑顔を作った。
「アルの言う通りです。私、がんばってみます」
「はい。応援しています」
と僕は言った。
彼女が、悪癖の改善を僕に願ってくれたら良かったのに、と思った。
「では、僕はこれで」
仏壇の前まで戻ったところでそう挨拶すると、友香は微笑んだ。
「もし良かったら、また遊びに来てくださいね」
……また「お願い」されてしまったような気がする。
でも……、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ彼女のためになら、際限なく願いを聞いてあげたいような気分だった。