五(後)
運びと入れ替わりに、娘が魔女の元を訪れる。運びが書庫に入っていく事には気づかず、そもそも運びの事など気にもせず。
一人で魔女の私室へと行きついたヴァネシアは、寝台の横に膝をついた。伸ばされた細く白い手を、皺だらけの手が握り締める。
「私、どうしても見たいのよ。九年、ずっと、そればかり考えていたの」
ヴァネシアは祈るように、小さな手を握り締めた。その手を額に当てて、どうか、と口にする。どうか、どうか。魔女は久方ぶりに聞いた民の懇願に、それはそれは安らかな笑みを浮かべた。
「……闇は私が全て引き受けよう。お前の目を、太陽が照らすよ――」
これ以上のやりとりは必要とされず、それが魔女ニクトワールの最後の言葉になった。
癒しの手がヴァネシアの瞼に触れる。暖かい光が瞳に灯り、春風のようにふわりと、優しく揺れる。
次の瞬間には、彼女の目は全ての曇りを拭われていた。しかし最初に見たものは内側からはぜるように解れた黒い翼の群れだったので、ヴァネシアはその合間に見え隠れする白い寝具や壁を断片的に見せられているように感じた。長年続いた闇が少しずつ引き裂かれていくような錯覚だった。
目の前で起こったことが魔女の死であると気づくには、もっと時間が必要だった。先程まで老婆の臥せていた寝台には、化け物の死体が横たわっている。全身を黒い羽根で覆われた、鷲と何かの獣を混ぜたような、金属に似た銀に輝く大爪を持つ魔物の死体だ。ヴァネシアはその爪の一つを掴んでいた。見開かれた目は暗く濁った赤色をしていた。
全てが瞬き一つの出来事だった。
魔女を見つめていたヴァネシアは目を瞬かせ、強張る手を持ち上げ、眼前へと運んだ。白く細い五指に視界が遮られる。その合間には光が、色が、確かに存在した。息絶えた魔女の姿も、羽根の飛び散った部屋の姿も見てとれた。
昇りきった朝陽が、部屋を照らし出す。
ヴァネシアは部屋を駆け出した。はじめは覚束なかった足もやがて走り方を思い出し、彼女は廊下を駆け抜け、屋上への階段を上がり、外へと飛び込んだ。まさに、飛び込んだと言う他なかった。彼女は外界に迎えられた。
風さえも見えているのではないかと、ヴァネシアは思った。
空は陽の光を受けて、透き通るような色をしていた。西はまだ夜の名残の色を残して澄んだ藍色に、東は太陽が照らす薄紅色に滲んでいた。薄く擦れて広がる雲の端は、金を含んだ橙色をしている。疎らに残る銀の星々もはっきりと輝いているのが見えた。
息を呑み空を見上げているだけで削り取るように時間は流れたが、ヴァネシアにとっては束の間のことだった。やがて、彼女はふらりと前へ出た。
周囲より少しだけ高い城からは、青々と繁る山を見下ろすことができた。命を誇らしげに見せつける濃い翠色の葉は形も表面の具合も様々、褐色の幹も老婆の手のように皺の深い物から、娘の手のように滑らかな物まで、幾つもある。遠くにある物も、触れないままに察することができる。
合間に覗く乾きはじめの土の地面、その上に蔓延る草花や苔の、単一ではない色合い。記憶を頼りに思い描いていたよりもずっと鮮やかで多彩な自然の色使い。
山裾に至ってもまだ続く深い森。途中には青く揺らぐ池があり、光を転がすように流れる川があり、向こう側へと落ち窪む滝があった。更に続く川の遠い果てには小さく、白く輝く三角形が見えた。村とは反対側になる、一度も訪れたことのない世界。しかし、彼女はその白が海であるとすぐに判った。
はじめて見る海は、聞き知った色をしていなかった。見えなければ分からないものはこんなにもある。
ヴァネシアの視界がぼやけた。再び視力を失われる恐怖に駆られ、彼女は必死にその涙を拭った。
それでも涙は止め処なく溢れた。強張った頬が緩んで、彼女は涙を流しながら笑っていた。ああ、世界は美しい。こんなにも素晴らしい沢山のもので溢れている。
悠然と羽ばたく鳥たちの翼がはっきりと見える。木に実ったばかりの青い実が見える。土の中で眠る虫の子が見える。落ちる露の一滴に映る丸い森が見える。海辺に漁村があるのが見える。子供たちが遊ぶのが見える。何もかもが、世界の全てが見える!
空の奥へと消えた地平の向こうすら、彼女の瞳は見ていた。大きく見開き、驚くべき世界との遭遇に濡れたその瞳で、彼女は世界との再会を果たした。
「やあ、お嬢さん、御機嫌いかが? 一緒に帰らなくてもよろしいですか」
ヴァネシアが呼びかけに振り返ると、白い上着が風に翻るのが見えた。建物の中へと続く階段の前に運びが立っていた。
銀を透かした青硝子、宝石のような上等の色をした瞳が、魔物のそれのように煌めいてヴァネシアを見ていた。小さな双眸だけがいやに力強くはっきりと、彼女には見てとれた。先ほどに少しだけ見えた魔女の爪のような色で、魔法使いの杖が陽光を弾いて輝く。
太陽を背に、口元は弧を描き。声はさも愉快そうな歌のような調子だった。
彼の後ろにも様々な物が見える。夢想のように浮かんでは消える数々の群像。それが運びの男の母であり父であり、兄であり友であり敵であることは彼女には分からなかった。男が通ってきた道であるとは。
ただ、その中でこちらを見た美しい老婦人が魔女であることだけはすぐに察しがついた。彼女こそ、運びの言っていた渓谷の魔女、この国の魔女たちを統べる大いなる女であると。幻の魔女は静かにヴァネシアを見つめ返した。
「結構よ」
ヴァネシアは震える声で言う。運びは動かないまま笑みを深め、嘲りか憐れみを含んだ顔でそれを見た。それがこれまでと同じ笑顔なのかどうかも、ヴァネシアには分からない。
「そう。では、」
ひらりと、運びが手を振る。その右手がしている薄汚れた手袋の親指に、赤黒くこびりついた染みがある。途端、ヴァネシアの視界に村での最後の朝が想起された。
運びの来訪を待ち、家を出ようとした娘。テーブルに置かれていたカップに気づかず落としてしまった。割れた音が響き、慌てて拾おうとしてももう遅く、隣の部屋で寝ていた叔父は飛び起きて駆けてきた。
今年で四十だったはずの叔父は、老人と言っていいほど老いた姿で彼女に歩み寄った。
――ヴァネシア、大丈夫かい。
――ヴァネシア、何をしていたんだい。
――ヴァネシア、
「うるさい!」
娘の白い手が闇の中を閃き、叔父を突き飛ばす。ふらついた叔父。娘の手は彼の体を遠ざけようと、再び、彼を押しやった。
調子の悪かった彼の足は耐え切れず、床をまずく踏んで体を傾けた。後ろにあった棚に、運悪く、白髪ばかりの頭が当たる。盲目の娘の為に削った角も、当たり所が悪ければ意味を持たない。
酷い音がして彼は倒れこんだ。血の溢れ出した頭を触り、悲しみに目を見開いて、呻いて起き上がる。強張った形相で自分を見下ろす姪を見て、叔父は震える、血塗れの手を伸ばした。
静まり返る小屋の中。
血を流し倒れる男と、服に血の手形を付けた娘。濁った目を見開いていた彼女は暫くの後に慌てて着替え始める。髪に一筋だけ残ったそれには気づかないまま。
死体となった男の口が動いた。
――ヴァネシア、何処へ行こうとしているんだい。
――ヴァネシア、危ないから行ってはいけないよ。
――ああ、ヴァネシア、
運びの指が、彼女の汚れた髪を撫でる。手袋で拭い取ったその色が何であるかを知り、彼は眉を寄せて、ヴァネシアの育った小屋を見た。盲目の娘が一人で暮らしているはずはなく、そのあたりの調べを怠る彼ではなく。運びは最初から気づいていた。
ヴァネシアの目は、望んだ以上に見えた。
「早く行って!」
紅い瞳を濡らした娘が吼える。声は木々を揺らし、空気を震えさせた。それは幻覚だったかもしれない。
五枚の銀貨と魔石の腕輪を入れた懐に手を当て、いつかの化け物のように男は微笑した。