五(前)
そうして、暗闇を終わらせる朝はやってきた。
空が白みを帯び、夜空は端から拭われる。眩い太陽が地平から光を零した。
運びは魔女の部屋で時が来るのを待っていた。窓の外が明るくなるのを見ながら、銀の杖を握る手に力を込める。そうして魔法を執り行う手前のように佇むのは、特別な仕事に臨む時の彼の癖だった。
朝陽が姿を現すのに合わせ、横たわっている老婆の瞼がゆっくりと開いて赤色が覗く。
「ヴァネシアはどうやら、魔女を継ぐことを選んでしまったようだ……もうすぐ此処に来るだろう」
目を開けたニクトワールが吐息に近い声で言う。とても微かな声だったが、運びの耳には確かに届いた。
運びは視線を窓の外、薄明るく朝焼けに彩られる山へと向けたまま、薄く口を開く。
「そうですか」
応答は短く、感慨も何も含まない相槌だった。そのまま部屋に沈黙が満ちた。魔女が再び眠ったかの空白だったが、まだ彼女は瞬きを繰り返していた。赤い目がゆっくりと動き、窓辺に立つ男を捉える。
白い横顔が照らされている。全体的に薄い色合いで構成された風景の中、彼の手にした杖の銀色が涼やかに魔女の目に入った。彼女はそれを昔どこかで見たことがあるような気がしたが、他に考えることが多すぎて、思い出すことはできなかった。
「帰りは不要、これで運びの仕事は終わったろう? 何故出て行かない」
「魔女の死ぬとこなんざ滅多に見れるもんじゃないから、見物してこうって魂胆ですよ」
またゆっくりと声を発した老婆に対し、運びの答えは素早く、短く。
身も蓋もない、善人とはほど遠い言葉にニクトワールはひっそり笑った。無為に時間が過ぎる。外は明るさを一層増していく。
ニクトワールは呆けたように笑い続けた。いくらか続けていると、杖の端が強かに床を打った。
苛立たしげな音に靴音が続き、硬い音が、今度は魔女の横の壁で鳴った。
「私に押し付ける仕事があんだろ。さっさと言えよ。婆ァの臨終看取る趣味なんざあるわけないでしょうよ」
眉を寄せて不愉快を露わにした男の顔が、魔女を見下ろす。
ニクトワールはその視線を受けて立ち、目を見開いて彼を見返した。死の間際になって魔女の視野は活発に働き、様々な事柄が視界の端を掠めるように、急な思いつきのように浮かんで見える。運びのこれまでの仕事や知り合いの姿が赤い目の前に脈絡なく浮かんでは消えて、すぐに思い出せなくなる。
奇妙な走馬灯だ、と魔女は笑った。
「ほほ、待っているだなんて、見かけによらずお優しいんだね、坊や。どうしてそう思うんだい?」
「アンタ様の目と同じですよ。ガキの頃からやってりゃそういうのは判るんだ。仕事に鼻が利かないんじゃ食いはぐれるでしょうや」
言葉は淡々と紡ぐ代わり、杖の先は感情的に振り下ろされた。今度は寝台を叩いたので音は無かったが、薄い緑の光が尾を引いて、魔女の低い鼻に微かな草の匂いが触れる。
「対価には何が欲しい?」
甘い花の芳香も交じり、老婆はまだ若かった頃を思い出した。井戸の近くに植わっている見事な白木蘭は、魔女が何よりも大切にしている贈り物の一つだ。引っこ抜いてきたそれを花束のように軽々しく差し出して、娘は花が好きだろうと石臼のような声で言ったのを、彼女は今でも覚えている。
「書庫にある箱の中身が欲しい」
問いかけに、待ち構えていた運びはすぐ答えた。この場で価値のある物はそれだけであるように、迷いのない一言だ。箱の中身を思い出し、運びの目利きに老婆は笑う。
「王家の持ち物を所望するとは、業突く張りだねぇ。何の為に――ああ、ああ解ったよ。見えた見えた。お前はかわいそうな子だねぇ」
真意を探る〝魔女〟の目利きに、運びの顔は盛大に顰められた。彼女の目が己を視て何を捉えたか、大凡の察しはついているのだ。また銀の杖が音を立てる。
「これだから魔女ってのは。勝手に視んじゃねーや」
「知ったことかい」
杖を捌いて手袋の上に落ち着けた運びの批難に、魔女は体を震わせて笑った。
「持ってお行き。鍵も箱もくれてやろう。売ればそれなりの値になるだろうよ」
月は西に入り、太陽はもうすぐ全てを地上に現す。
一頻り笑ったニクトワールは、軋むような動きで左手を握り、開く。掌には小粒の青石を嵌めた、古びた金の鍵が現われていた。
無言で、仕事内容の確認もせずに小さな鍵を摘まみあげる運びの手を見ながら、彼女は目を細めた。死の近くに立っているというのに、その顔はとても嬉しそうだった。
「此処から西の池だ、まっすぐ降りて行けば分かる。さあ、二人だけにしておくれ」
魔女は部屋の隅に置いた、中に幾重にも羊皮紙を入れた鳥籠を指差した後、自分の胸に手を当てた。
それを見た〝運び〟は、力を入れて口の端を上げた。依頼主へと向き直り、一礼して、体を折ったまま魔女に視線を向けて言う。
「確かにお受けしました。契約違反は御免ですから、ちゃんと死んでくださいよ」
彼は籠を手に、魔女が声を上げて笑ううちに部屋を後にした。