四(後)
寄り添い続ける暗闇は、ひやりと悲しい。
子供の頃から周囲を取り巻く闇には慣れているが、親しんでいるわけではない。光をまるで知らなければ友にもできたのだろうが、そうでない娘にしてみればこの闇は虚無と悲しみの象徴で、取り去りたいものでしかない。取り去る手段は今、目の前に示されている。
しかし、魔女になるのはどういうことか知れず恐ろしい。魔女になるのは、人ならざるものを受け入れること。では、魔女を継ぐのはどのようなことか。魔女となった自分は、どういうものだろうか。
ヴァネシアは部屋の中、布に包まりながら考えていた。暗い瞼が昼に映した赤い瞳は心の中に浮かんでは消え、瞬きをして自分を見つめているような感じがしていた。離れたところから、ずっと窺っているような、そんな空気だ。
コッ……と高めで擦れる音が、廊下から聞こえてくる。運びの履く靴が床に触れたならもっと重い音がはっきりすると、ヴァネシアは知っていた。音は部屋の前で一度止まり、壁を背に座り込む彼女の横にまで来た。
「ねえ、……魔女って、人を喰うの」
ヴァネシアが顔を上げて問いかける。魔女の笑った気配が感じられた。老婆の手が上から伸び、娘の黒い髪を撫でる。
「私は喰ったことがないね。喰うのもいるかもしれないが」
「じゃあ子供は、攫わないのね」
「……そうさ」
魔女ニクトワールは、嘘は吐かない。彼女は生まれてこの方、人を喰ったことや子供を攫ったことは一度たりとも無かった。しかし、何故村でそのように言い伝えられているのかは知っている。
百年前に村で起きた出来事を、当事者ははっきりと覚えていた。
行方不明になった三人の赤子。谷底で身を啄まれていた彼らを抱きかかえ、癒しの女ニクトワールは村へと足を運んだ。彼女を待っていたのはいつものような歓迎の声ではなかった。
小さな亡骸を見て泣き叫ぶ母親の声、我を忘れて不条理に怒り狂う父親の声。癒し手といえど、死者を甦らせる術のない魔女にできることは祈り以外、何もなかった。
亡骸を前に言葉を割りいれたのは、一月前に村を訪れた宣教師たちだ。
――それ見たことか。魔女などを崇めているからこのようなことになる。
――その女は神の敵、穢れた化け物の妾である。
――幼子を殺したのもそいつと、化け物に違いない。
悲嘆に暮れる人々に囲まれ、魂の平穏を祈っていた魔女の顔つきが一転した。赤い瞳は呪いのように彼らを射竦め、迸る声と力は身を裂くように。夫を侮辱されることは、魔女にとっては何より赦しがたいことだった。
宣教師たちは逃げるように山を降りた。村人もそれを見ていた。優しき女は、畏怖の対象へと認識を改められた。彼女は癒し手ではなく、化け物かも知れない。
時の経過と共に、魔女は忌わしき伝承へと姿を転じた。
「そのようなこと、人のするものではない。そうだろう?」
夜の語りのように穏やかに老婆は言う。
貴女は人ではないわ、との言葉は、ヴァネシアの唇からは出なかった。静かに髪を撫でる手が人殺しや化け物の持ち物とは思えず、彼女は黙っていた。魔女になったところで、人間であるのと何も変わらないような気さえした。
「――さあ、お嬢さん、時は決断を待たないものだ。私は明日死ぬ」
声は変わらず、優しく娘に語りかける。
涙の流れる頬をただ渇いた掌で拭って、ニクトワールは娘の整った面差しを見つめた。美しいのに硬い頬の強張った表情は、泣いているからではなく、長らく笑っていないからだと知れる。
ヴァネシアも魔女を見返していた。青く濁った瞳の中には、年老いた女がいた。ヴァネシアは確かにニクトワールを見ていた。
「満月が私を連れて行く。朝陽が私を焼き殺す。それまでに決めなさい」
呪文じみた言葉を最後に告げて、立ち上がった魔女の足音が遠ざかっていく。ヴァネシアが耳を澄ますと、階段を昇り、扉の閉まる音が微かに聞こえた。ニクトワールの部屋は、二階の真ん中にある。
何もない部屋は再び静かになり、月が西に傾いた中、ヴァネシアは九年前を思い出した。
父と母は優しかった。あの頃の自分の家は村のどこより幸福だったと、彼女は今でも思っている。しかし、儚い幸福であったとも。幸せな日常は一年のうちに跡形もなく崩れ去った。
風邪をこじらせ質の悪い病を患い熱に浮かされる中、ふっと意識が遠退き、母の顔がぼやけて闇に呑まれる。それがヴァネシアの目の最後の記憶だ。あまりに遠い日のことで、ヴァネシアはもう、母や父の顔をはっきりと瞼に浮かべることができない。
病自体がどうにか治癒しても目は元に戻らず、病の牙は看病に無理を重ねていた母に、薬代を稼ぐ為に働き詰めだった父にと順番に向いた。二人は病に打ち勝つことが出来なかった。
少女は十一にして暗闇の中に放り出され、叔父に手をとられて道を歩むこととなった。
暗い中で、彼女は叔父の手を頼りに彷徨った。叔父は姪を、世間から引き離す方向へと引っ張り続けた。ただでさえ繋がりの危うくなった場所から引き離し、ヴァネシアを孤独にしていった。ヴァネシアは己で道を探せぬまま彷徨い続けた。
そうして九年も過ぎたある夏の日、盲目の娘は続く暗闇の中で声を聞く。叔父が引いて向うのとは別の方から聞こえる声。運びの来訪を告げる、聞き知らぬ声だ。
娘は叔父の手を振り払い、手袋を嵌めた白い手を握った。
運びの手は迷いなく、一箇所へと彼女を導く。そこでは一条の光が、小さな手の形で待ち受けている。
「ああ、――朝だわ」
静か過ぎる此処では鳥の鳴き声も聞こえず、目の見えぬ者が朝の訪れを判断することは容易ではないはずだった。しかしこのとき彼女は、はっきりと朝陽の訪れを感じ取った。死が魔女の隣に至ったのを、彼女は知った。
ヴァネシアは決断した。
盲目の娘は顔を拭ってゆっくりと立ち上がり、誰の手も借りずに、冷たい床の感触を踏みしめた。壁を頼りに歩くのはこれが最後だと思いながら。