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四(前)

 〝魔女の家〟と村人たちが呼んでいたそこは、家と言うよりは小規模な城といった建物だった。石を積んで造られた それは風雨に晒され古びてはいるが、まだ十分に人が住める。部屋は十あるが、住んでいるのは当然、主の魔女ニクトワールだけだった。

 日が暮れて山はとっぷりと暗くなった。人々が考えを弄す夜が更ける。

 もうすぐ満ちきろうとしている月が天に座し、木々に残る、昼に降った雨粒を銀色に輝かせる。そうして一帯の森が仄かに照らし出される様は幻のように美しく、そして静かだった。虫の音すら聞こえず、ひんやりとした静寂を湛えている。雫が集まり、重さに耐え切れなくなった葉から滑り落ちる時だけ、細やかな物を触れ合わせた音が微かにだけするのだ。

 何千夜と目にしてきた光景を窓の外に眺め、ニクトワールは目を眇めた。小さい目はそうすると殆ど皺に紛れて見えなくなる。

 手も足も顔も、全体が小さなつくりをしている老婆は、葡萄酒のような深い色のドレスを着た上に白布を羽織っていた。そうして姿勢よく立つ姿こそ貴婦人のようだったが、鼻も高さがない、凹凸の少ない平坦な顔はそうした雰囲気を相殺している。束ねて櫛を飾った白髪は痩せ細り、晒された首筋は日に焼けた奥で青白く、不調を滲ませていた。

 窓辺に立って物思いに耽っていた魔女の足元に、風が猫のように擦り寄る。

 ニクトワールは顔を上げ、ヴァネシアの為に開け放してあった扉の向こうを見た。廊下は燭台もなく、外よりも暗く沈んでいる。魔女になったばかりの昔であれば、彼女はこのような暗がりでも物を見るには困らなかった。蝋燭が必要になったのは、年老いてからのつい最近だ。

 ゆるゆると吹く風は止まない。それが己を呼んでいるように思えたので、ニクトワールはテーブルの上から金の燭台を取り上げて部屋の外へと出た。

 風は突き当たりの部屋から吹いているとすぐに解った。そこだけ扉が開き、外の銀色の光ではなく、老婆が手にするのと同じ火の金色をぼんやりと廊下に映している。ニクトワールは最近言うことを聞かなくなった足を摺り足気味に動かして其処まで歩いた。

「鍵がかかってませんでしたので、お邪魔致しました。魔女の書庫ってやっぱり気になりますでしょ」

 辿りついた部屋の中央で、〝運び〟は部屋の主のように堂々と腰掛けて構えていた。腕の長さほどある銀の棒こそ離さずに膝の上に置いていたが、実に余裕ぶった体勢だった。

 本来の主であるニクトワールが存在を忘れかけていた革張りの椅子は傷みが目立ったが、座るには支障のないようだ。細身の男は魔女を見上げて笑う。青い瞳は蝋燭の灯りを秘めて光っていた。それを見返すのは深く赤い、魔物の瞳。

「一人かい」

 室内には、窓と扉を開け放しても一日や二日で拭えるものではない、古書の発する革と黴の臭いが漂っていた。運びが杖の上に載せて広げていた大きな本からも埃の臭いがする。

 音を立てて閉じられたその表紙には、金の箔押しで『カトナ王国史』と題字があった。

「一人にしてちょうだい、って言われましたんでね」

 まるで悪びれた様子を感じさせず、運びは言った。

 ニクトワールは呆れた顔をして一つ息を吐き、不遜な若者をやや見下ろす形で眺めた。魔女の基本的な力である見通しの力は彼女も持っているが、最近は衰えたらしく、時によっては上手く像と意味を結ばないことが多くなっている。今がその時のようで、運びの顔を何秒眺めたところで、視えてくるのは至って断片的な事柄だけだった。

 諦めた魔女が口を開く。

「お前は、その手を治すついでに来たのかい」

「……いいえ。お仕事をしにきただけです」

 手袋の下にある引き攣った傷を見越して魔女が言うのに、運びは首を横に振る。白い布手袋は古書に触れた為かいくらか汚れが付いていたが、彼はそれを外す気は無いようだった。

 それより、と膝の上に本を立てて手を置いた上に、更に顎を載せながら言う。

 薄い唇は弧を描く。元から垂れた目も細められ、その印象を強くしている。

「千年の半分も生きてないのに、もう寿命なんですか、魔女様。三国併合の後、五領開始の前だから、ざっと三百年前でしょ。アンタ様の悲しい娘時代は」

 多くの国々を呑んで成長した央国が北南の国を配下として繋げた大国が、此処、カトナである。その歴史は周辺国に比べて長くはなく、現在建国四百七年。今にも引き継がれる五領制――国土を南北東西と王都周辺域に区分した政治が始まったのは、建国から百年余り経った頃の話だ。詳しいことは運びが手にした王国史に記されているが、その辺りの教養を幼い頃に頭に刻んである運びには本来無用の資料だった。おさらいしていた、と言うところか。

「……この場所にだって迷わずに辿りつくとは思わなかったが、よくよく調べてくるものだねぇ、〝運び〟というのは」

「仕事で手抜きなんざ致しゃしません。魔女様相手なら尚更だ」

 窓から吹き込む夏の風を受けながら低い声で言った魔女に、運びが笑った。ヴァネシアに向けていた愛想笑いとは別の顔だ。

 企みを抱え込んだ者の笑みを絶やさず、彼は再び口を開く。

「調査記録を盗み見させてもらったら、この辺りだけ百年前と地形が変わってた。山が崩れたんなら分かるけど、それも無いのに平らだった場所がでこぼこなるなんて、ねぇ、そりゃ魔女の仕業でしょう。アンタ様が繋ぎ変えて此処を隠してたんだ。……それで? どうなんです、ヴァネシアを諦めさせる為のご都合ですか?」

 いとも簡単と口にして話を本題へと引き戻す。話の主導権を握り続けようとする運びの言葉は、温い風と共にニクトワールを取り囲んだ。彼女は眉を寄せた。

 皺だらけの手が虫でも追いやるように軽く閃く。

 魔女と運びの間に旋風が巻き起こった。不愉快な風を吹き飛ばし、書庫中の物を震えさせて上へと解ける。

 一瞬で空気が締め付けられ、硬質なものへと変質した。喉に縄でも括られたような感触を得た運びの笑顔が僅かに強張るのを、魔女は煌々と赤い瞳で見下ろした。

「あの憐れな娘にそんな嘘を吐けたものかね。魔女にも色々あるのだよ、坊や。人の寿命が定まらないのと同じさ。お前の会ったあの魔女(ひと)は、もう千年も軽く生きているだろうがね」

 言葉は室内に冷ややかに、それでいて大層厳かに、部屋を渡った。魔物の吐息を含んだように、人を怯えさせる声だ。

「やっぱりあの婆ァは特別なのか」

 灰色の髪がそよぐ。運びには魔女の存在自体、倍以上に膨れ上がったように感じられた。小柄な老婆の姿に重なるのは、大男よりも丈のある化け物の姿だ。先程までは大したものとは感じなかった目線の差が、今は途轍もない。

 しかし彼は口調と態度を改めることはなく、この状況がとても愉快だと言うように口元を歪めていた。ニクトワールの眉間の皺は一層深まった。

「魔女が怖くないのかい。お前を殺すことぐらいは簡単だと、知っているだろう」

「恐ろしいですよぉ?」

 相当な緊張を強いられているはずの彼の口は、驚くほど滑らかに、発音の瑕疵の一つもなく言葉を紡いだ。それどころかとぼけて大幅に右上がりな発音をして唇を歪める。

 緊張を強いる側の魔女はいよいよ呆れるしかなくなった。何をして育てばこのような男になるのか、今の彼女では上手く視ることができなかった。

 そんな魔女の様子を青い瞳で見透かして、運びは極めて小さい声で囁くように、言った。

「でも、アンタ様は私を殺さない」

 考えを取り纏めた運びの独り言に近い言葉は、勝利の宣言にも聞こえた。

 その言葉の意味に気づいた魔女は、自嘲の笑みを浮かべ指先を僅かばかり折り曲げた。途端に温い風が窓から流れ込む。運びの首に据えられていた刃に似た緊張感も、数秒後には完全に消え失せる。

「否定なさらないってこた、見つけた系譜は間違いじゃないようですね。……こんな片田舎で王族の姫様が魔女やってるなんて、半信半疑でしたけど」

 再び動き始めた空気の中で、運びはニヤついたまま言う。

 癒しの手は普通、魔物や魔女などの持ち物ではなく、神に選ばれ君臨する王の持ち物である――というのも、彼の中では基礎知識だった。無論例外もあり、王族が必ずそれを持っていることもないとは知っていたが、彼は下調べでそれらしい証拠を見つけていた。今回の仕事に特には必要ないと理解しながらもそんなことを調べていたのは、ただの凝り性か、好奇心か。

「この国の(おも)だった貴族は多かれ少なかれ三王国、いずれかの王の血を継いでいるのさ。お前もそうだろうよ、運びに落ちぶれた貴族の坊が」

 また薄らと見えた情報を摘み上げて、疲れ老いぼれた老婆の声が言葉を返す。その言い様に運びは眉を寄せ、肩を竦める。

「お生憎様ですけどね、私の家は新興貴族だ。王家とは髪の一筋も関係ない」

「……そうかい。見破れないとは、やはり私の目も曇ったねぇ。元々、他の魔女に比べて占いは得意ではないけれども」

 運びの語調が不機嫌なものになったことにニクトワールは気づいていた。さっきまでの仕返しにからかってやることにも考えは至ったが、結局、詮索を切上げる。理由と程度はどうであれ、魔女と彼は同じ立場であり、古傷を抉れば自分の傷も痛むのだ。

「もうすぐ死ぬんなら曇ったって何も困りやしない。そうでしょうや」

 ニクトワールは答えず、笑みを潜めた運びの顔を見遣った。二人ともが表情を変えないままに時間が過ぎた。月が僅かながら傾くほどの時間だった。

 やがて老婆は踵を返し、ふぅ、と口をすぼめて息を吐く。部屋の中に灯っていた三つの蝋燭が揃って消え、書庫は濃い闇に飲まれた。唯一の灯りを手にしたニクトワールの足音も遠ざかり、運びは暗い部屋に残される。

 まだ闇に慣れぬ目を、彼は本棚の下段に安置された箱へと向けた。骨董品の域にあるそれは洒落た作りでありながら頑丈そうで、蓋には古い王家の紋章が、横には小さな鍵穴があった。

 部屋よりも更に暗く闇を潜めたそこをぼんやりと見つめながら、運びは目を閉じる。

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