二
五日後の早朝、運びは朝靄が立ち込める山村に再び姿を現した。服装は前と大して変わらないが、大荷物の驢馬は連れておらず、いくらかの荷を自分で背負っている。
運びは門番に通行証を突き出し、この前とはまるで違う静かな調子で歩を進めた。ほとんど来客のない村の門番は怪訝さを隠すこともせず、口を半開きにしてその背を目で追うが、視線から遠ざかる運びの歩調は早く、瞬くうちに彼は靄の奥へと消えてしまう。
靴音はやがて、村の端に建つ一軒の小屋の前で止まる。
「おはようございます、ヴァネシア。準備はちゃんとできました?」
まだひんやりとした空気の中、運びはやや小声で、しかしはっきりと言った。必要な声量と声質を弁えた声だった。
「本当に来たのね」
小屋の前で驢馬と共に立っていた娘が顔を上げた。ヴァネシアと呼ばれた彼女の口元で、ほう、と息が解ける。
暑さと共に緑を深くした山を背景に、肌の白い男女が向かい合って立つ。立ち込める白い靄はその輪郭を暈し、人と世界の境界を曖昧にした。二人を肌から解かし、取り込んで一つにしてしまおうとしているようだった。
その様は、娘には見えない。運びだけがそれを感じていた。
「やですねぇ。約束はどうか存じませんけど、仕事の契約ってのは守るもんなんですよ」
彼は靄を払うように、顔の横に手を動かしながら言う。
ひらりと気軽に動いた、村の男たちと比べるべくもなく細い手が手袋をしているのを、彼女はまだ知らない。男の顔も体格も知らない。知っているのは特別高くも低くもない若い声だけ。何処のものとも判らない訛りを含んだそれは奇妙に聞こえ、発言に潜む意図に靄をかける。
言葉の中身を信じるべきか疑うべきか、判断を惑わせる。
それでも、山に分け入る為の旅装を調えた盲目の女は、長くそうしてはいなかった。口を引き結び、大事に抱えていた革袋をを開く。ちゃり、と貨幣の触れあう音と共に、馬の紋様が空気に晒された。
細やかな音に重ねるように足音が近づき、一間置いて、女の長い髪の一房へと男の手が伸びる。急な接触に驚いた娘に構わず、彼は指を下へと滑らせてすぐに離した。
「確かに、銀貨が五枚」
また少し間を置き、離れた男の指先が薄汚れた貨幣を摘まみ上げる。枚数を確かめて満足気に言って、捧げるように差し出された財布の口をきつく締め、自らの懐にしまいこんだ。
ヴァネシアは空になった手をゆっくりと握り、爪を眺めるような姿勢を暫く維持した。やがて、握ったままの手を体の横へと戻して口を開く。
「契約って、これでやっと成立でしょ。……今までのは口約束じゃない」
零れたのは、愚痴のような拗ねたような、これまでとは違って年相応に聞こえる言葉だった。それを聞き、驢馬に括った荷の紐を直していた運びの喉からくっと笑いが漏れる。
目を細めて唇を歪めるからかいを含んだ笑みは、律儀に彼女から背けられていた。
「それでもちゃんとお受けしましたもの。――さ、行きましょうや。日暮れ前には着きたいでしょ」
愉快そうに言う、囁きに近い声。運びはヴァネシアを驢馬の背へと促し、鬱蒼と繁る森へと体の向きを変えた。
促されるまま驢馬によじ登ったヴァネシアは、広がる木綿の裾を落ち着けると一度だけ振り返り、育った村の風景を瞼に浮かべた。二十年生きてきたというのに、おぼろげにしか想起できない村の姿――
そうする内に、驢馬は運びに従って歩き始める。歩調は極めて遅い。ヴァネシアが連れ出してきた驢馬が特別に鈍間なのではなく、運びが緩慢に歩いているのだ。
「この村じゃ、魔女はなかなか嫌われているようですけど」
ゆっくりと歩きながら、運びは独り言のように呟いた。ヴァネシアが鼻を鳴らす。
「子供を攫って喰って、木偶と取り替えてしまうのですって。村では皆が言うわ。でも、そんなの一度も起きたことがないの。魔女はそんな存在ではないのよ」
言葉は気の強い、跳ねつける調子に戻っていた。
盲目の娘ヴァネシアが魔女の存在に思い至ったのはここ最近のことではなく、年単位の昔のことだ。曾のつく祖父母の代から語り継がれる、村から離れた山奥に住むという癒しの力の使い手。どのような病であれ、怪我であれ、簡単に治してしまうという魔女の伝承。光を取り戻すことを願う者が、幼い頃から知るその話を思いつかないはずはなかった。
魔女に会いたい。会って、目を治してもらいたい。そう強く願った彼女の行動を妨げたのは、伝承を継ぎながらも魔女を忌むようになった村人たちだった。
平和な村での惨事。そこに姿を現し、奇跡を起こさずに去った魔女。
癒しの女として信仰された魔女は百年前に恐るべき魔物へと変貌し、山奥へと姿を隠した。
「どうして言い切れるんです。トリカエコは見たことないけど、癒しの奇跡は、見たことがおあり?」
トリカエコ――取替え子、と、魔女の悪行として名高い行為は、ヨソの町ではそういうのだろうか。考えながらヴァネシアは黙り込んだ。彼女は口調ほどの根拠を持ち合わせてはいなかった。
否、癒しの奇跡を見たことはあるが、それが本当に魔女によるものかは、少々自信がない。取替え子に至っては自分が生まれる前の話であるから、嘘とも断定しきれない。
「貴方も魔女を疑うの?」
そこで出たのは、苦し紛れの一言だった。声に含まれる気の強さだけは十二分に備え、運びを睨んで顔を顰める。
娘にそのつもりは無いかも知れないが、表情は間違いなく、幼い頃に刷り込まれた伝承を信じずにはいられない村人のものだった。村人たちの言う魔女を否定しながら、彼らとなんら変わりのない態度で癒しの女を信じる娘の様子を、運びは表情を変えずに、振り向くこともしないで受け止めていた。
魔を知らない者が魔を恐れ魔に縋る心理を、男はよく知っている。
「いいえ、疑っちゃあいませんよ。下の町で調べてきた分にゃ、確かに此処の魔女は癒しの力をお持ちのようですから」
黙りこんでしまった娘に対し、男は優しい言葉を舌に乗せた。
ヴァネシアはそれを聞いて顔を明るくした。調べ物がどのようなものだったのか彼女には想像もつかないが、手紙も半月に一度纏めて届けられるような閉鎖的な村とは違い、下の町は多くの物と情報が頻繁に行き交うところなのだ。物事の考え方も開けている人が多い。導かれた答えはきっと正解に違いない、と女は安堵の色濃く、噤んでいた唇をまた開いた。
「……魔女に足を治してもらった子がいたわ。屋根から落ちて、命は助かったけど立てなくなった子供。普通に治せるものじゃないの」
記録があったなら、目の見えなくなる前に見たあの奇跡も、魔女の手によるものに違いない。確信した娘の閉じた暗闇の中に、あの日の驚くべき光景が思い出される。
一生歩けないだろうと言われた彼女の泣き虫な友達は立って、歩いて、走っていた。大きく裂けた足の傷は、痕の一筋すら残っていなかった。
「でも、魔女の所へ行って帰ってきたあの子は立っていたわ。家族と一緒に村を追い出されてしまったけど……魔女はいるのよ。医者より優れた、癒しの力を持っているの」
言葉には羨望が交じっていた。
立てなくなった子供が一人で山奥の魔女の所へ行けるわけはない。子供には、怪我の治癒を願い、本人と一緒に魔女に祈ってくれる家族がいたのだ。どうなるかわからないという恐怖も危険も、村を追い出されることも顧みずに、共に魔女の元へと赴いてくれる人が。
ヴァネシアにはそのような相手はいなかった。父も母も既に亡く、世話をしてくれた叔父は、ヴァネシアを魔女の家に連れて行くどころか、外にも出したがらなかった。
彼女は昔に絵物語で読んだ、囚われの姫を救い出す騎士のような勇ましい存在や、自分を上流階級へと誘う見目麗しい金持ちの男を求めたことはない。
彼女がずっと求めていたのは、失った光を取り戻してくれる存在。癒しの手を持つという、山奥に住む魔女。その住まいへと連れて行ってくれる、誰か。「また遊べるね」と笑い、しかし二度と一緒に駆け回ることはなかった、魔女の手に触れた少年の家族のように。
そう、と小さく呟く声が、叔父に対して燻ぶる不満を思い出した娘の耳に届いた。はっとして曇った瞳を開いた彼女に、運びはわざとらしく靴を鳴らす。
「アンタ様も、村を追い出される」
声は断定的だった。間違いなくそうなるだろうという、予言だった。先程は優しかった声音のあまりに急な変わりように、ヴァネシアは驚いて息を呑む。
「魔女に会おうが、会うまいが、今のこの村じゃ、会いに行っただけで重罪だ。もう村には帰れない。その目の治る保障はないのに。本当にいいんですか、もう戻れませんよ」
座った驢馬の背が一段揺れを増した。村を囲う柵を通過し、森へと入った事を教える揺れだ。
ヴァネシアは進む方向を見据えた。もう一度振り返ることはなかった。
「こんな村出たって構わないわ。私は、魔女に賭けるのよ。この先もずっとめくらのままなら、もし喰われて死んだって、同じことよ」
代わりに、運びがちらと目を流した。村を思ってではない。娘が出てきた小屋だけを見て、すぐに逸らす。
「それなら宜しい。契約どおり、魔女の門までアンタ様をお連れしましょ」
舞台の上で宣言するように、高らかに、運びは言った。片手間に発されたその言葉は優しさの欠片も含まず尊大だった。ヴァネシアは五日前に聞いた、同じ雰囲気の言葉を思い出した。
魔女の元へ運べと要求した娘に応じた運びの契約条件は、そう多くない。
運べるのは姿を見せない魔女が作り出しているだろう結界の境、〝魔女の門〟までであり、門を開けるのは魔女本人であるから、魔女との対面までは確約できないということ。支度は自分で行い、驢馬を一頭用意すること。準備に五日間の猶予を設けること。
この条件で賃金は銀貨五枚だと、運びは告げたのだ。銀貨五枚、百ビージュは、町では一月暮らすにも足りない額だ。
魔女に会うことができるなら少ない財産の全てを捧げても構わないと考えていたヴァネシアは、運びの声色に見合わぬ内容に拍子抜けした。自分の願っていたことは、その程度のことだったのか、と。
その程度のことだ。運びが村から余所へと運ぶ手紙や荷を掻き集めて山を降りてから、娘の方の準備は二日足らずで終わってしまった。殆どのことが物々交換で賄われる村で貨幣を集めるのは普段なら容易では無いが、今時期は、どこの家も収穫祭の為に少なくとも十枚は貯えている。ヴァネシアの家も例外ではなく、風習に従い屋根裏に置かれていた財布はあっさりと見つかった。驢馬は三年前から叔父が所有しているものを連れ出せば済む話だった。
あまりにもあっさりとしていた。魔女と聞けば誰もが――村人だろうが、外の運びたちだろうが――顔を顰めた中で、この運びは異端と言うほかない。
目が見えないのをいいことに騙されているのかもしれないとも、身包みを剥いで山の中で置き捨てられるかもしれないとも、考えはした。しかし、その悩みも最後はふるい落とされた。
もう二度とこのような機会は訪れないだろう。本当に、運びが魔女の元へ連れて行ってくれるのなら。その可能性を捨てるのはとても愚かしい。ヴァネシアはようやく、同伴者を得たのだ。
運びが歩調を上げた。驢馬は木立をぐんぐん進む。一歩ずつ村から離れていく。誰かが挨拶に叩くように緩やかな風がヴァネシアの肩に触れたが、彼女は振り向かなかった。
靄が引き始め目覚めを迎えた村の中、背後に遠ざかる小屋は静まり返ったままだった。