只野武人
駅に着いて最初に戸惑ったのは、改札横の待合いに鏡があったことだった。鏡の下には、何処かで聞いた店の名前。戸倉商店はこんな高級な広告を出す店だったろうかと首を捻る。
次に戸惑ったのは、駅前の商店街に、アーケードができていたことだった。軒を並べる店も、記憶より小洒落て見える。復興を超えて、開発が順調に進んでいるということか。
「それとも、10年ぶり、だからか」
かつて、友人たちとともに遊んだはずの、知ってはいるが見慣れない道を、そろそろと歩く。そのうち、アーケードも途切れ、田畑が見えるようになり、雑木林を抜けて、10年前とさほど変わらぬ門前に辿り着く。表札は、只野。まぎれもなく、実家である。しかし、門に手をかけようとして、ためらいからそれができず、僕は、誤魔化すように胸元の封書に手を添えた。父からのこの封書がなければ、師の勧めがなければ、はたしてここに来ることはあっただろうか。
「盆も正月も帰らなかった付け、というものだな」
寡聞にして、年月による気まずさの付けを清算する方策を、僕は知らない。かといって、ここに立ちすくむのも、逃げと言うものだろう。退路も断ってきている。意を決して、門を開けたところで、少し記憶より老けた母と目があった。
「ただいま、帰りました」
母は、一瞬固まったかに思えたが、少し潤んだ目で、記憶通りに笑いかける。
「お帰りなさいませ、武人さん」
僕の清算は、何とか始められたようだった。
10年前、父が経営する私学を避けて、都心の高校へと進んだのは、一種の反抗だった。父が戦地から帰り、更地となったこの土地で人を集め、金を集め、学園による復興を目指し成功していることは尊敬している。
だからこそ、僕は、外での教育を受けるべきだと考えていた。生え抜きでなくなれば、教育者の道を選ばなくて済むと、父と比べられなくて済むと、ただ、それだけの、ちっぽけな動機だった。しかし、真剣だった。それほど、当時の僕は、教育者というものに幻想を抱いていたのだろう。
出来たばかりの民俗学科に進んだのも、私学にない学科だったというのが大きい。父が渋りながらも許可したのは、同じ理由だと先日まで思っていた。違うとわかったのは、帰る羽目になった封書からだ。
封書の内容は、見合いを受けるため帰郷しろという、いたって簡単なものだった。問題なのは、文末だ。「民俗学をつづけたいのなら、そろそろ所帯をもち、泉野に戻れ」と。付け加えて、相談した師が、僕が泉野出身だと聞いた瞬間から、帰郷を熱心に勧め始めたのも原因の一端と言える。研究中の資料を取り上げられ、外堀を埋められ、気づけば、帰郷以外の選択が残っていなかったのだから。
見合いの席として通された客間の床には、鏡が置かれていた。刀や香台でなく、鏡を置く家もあるとは聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。この家が戸倉商店という古物屋を営んでいることもあり、おそらく、謂れのある品なのだろう。見合いより学術的興味を優先しようとしたところで、入室を告げる凛とした声が響いた。
茶盆を手に現れた彼女ーー鏡花をみて最初に感じたことは、白、だった。かつて見た米国人のような白さではなく、病的な白さというのが近いか。鏡花は、楚々とした様子で、茶を勧めると立ち去る。立ち去る時、ちらりとこちらを見て微笑んだのが印象的で、いつしか、鏡花と共に暮らすことに否を唱えられなくなっていた。
先方へ承諾の返事を出し、帰ろうとした時、鏡に映る自分と目があった。目元が赤い自分の顔を見て、思わず微笑む。
「願わくば、彼女との幸せな家庭を」
つぶやきと共に、鏡の表面が揺れたように見えた。
それからは、あっという間だった。あれほど気のりしなかったのが嘘のように、鏡花と共に暮らす日が楽しみでしかたなかったのだ。ただ、鏡花に会うたびに、肌が白くなっていったような気がするのは、惚れた欲目であろうか。
吉日を選んで挙げた祝言の日、鏡花はさらに白くなっていた。いや、これは、化粧のせいだろう。式をおえ、ようやく、二人となった時、鏡花は、なぜか、床の間にあった鏡を持ち出してきた。
「武人さんならご存知かもしれませんが、これは、我が家に伝わる願いの鏡。心より願えば、叶うこともあると言われています」
「必ずではないあたり、信憑性があるのかないのか。鏡花は何か願ったのか」
「えぇ。願ったからこそ、今日を迎えられたのですわ」
はかなげに微笑む姿に惚れなおした僕は、そのまま、鏡花を抱きしめて、そっと、寝かせる。
「あ、武人さん、少し、待って……」
「もう、充分待った。好きだよ、鏡花」
白い肌が赤く染まり、鏡花は言葉もないようで。小さく同意の言葉が聴こえると、僕の、最後の理性が切れる。彼女の冷たい肌は気持ち良く、僕の熱さと混ざって、そして。朝を、運命の朝を迎えた。
目を覚ました僕の隣には、誰も、いなかった。
「きょう、か」
返事は、なかった。
「いや、まて、落ち着け。そうだ、朝食だ」
台所には、義母しかいなかった。
「武人さん、まだできていませんの。出来たら部屋までお持ちしますから……」
僕は、この不安が懸念である事を祈りながら、厠へと急ぐ。下駄を履くのも片手間に、厠の戸を開く。
「誰も、いない」
いや、すれ違っただけで、鏡花は、きっと、部屋に。
「いな、い」
震える手で触った布団には、まだ、昨夜の名残があり、鏡花がいないのが、信じられなかった。
「武人さん、朝食をお持ちしました、と。まぁ」
呆然と座り込む僕に、いつの間にか現れた義母が、声をかける。そして、なにごともなかったかのように、淡々と一人分の膳を準備し出す。
……一人分?
「鏡花は、説明する前に行ってしまったのですね」
「どういうことですか」
義母に向き直るが、彼女は膳をすすめるだけ。軽くにらんでも態度は変わらない。
僕は、仕方なく、朝食をかきこんだ。
「鏡花から、鏡のことは聞かれましたか」
朝食を食べ終えたところで、義母がようやく話を始めてくれた。
鏡。視界の端に、鏡花が持ち込んできた鏡が入る。
「願いの、鏡と」
そっと、台座ごと手に取る。造形は神棚に祀る御神鏡に似ている。大きさは1尺足らず。材質は、よく見る銅鏡と違い、白っぽい色をしている。裏返しても、銘や細工は見当たらない。
「先代である父も、来歴は知らないとのことです。夫も、只野先生も分からないと。ただ、私でもわかることが、一つあります」
この辺りで只野先生と言えば、父のことだ。そんな、どうでも良いことが脳裏をよぎる。
「子どもが出来ずに悩む私と夫に、父がこの鏡を見せた時、夫はためらいもなく、私との子どもを願いました。そうして、私達の前に現れたのが、あの子です」
義母は手を前に掲げると、赤子を抱え込む動作をする。
「いきなり現れたあの子ですけど、幻と思うにはあたたかくて、夫が願ったのだから、私の子だと」
「……鏡花が、変わった生まれだから、突然現れたのだから、突然消えることもあると言うのですか」
専攻上、変わった謂れの伝承はそれなりに知っている。だが、伝承ではなく本当にそんなことが起きると、本気で思っていたわけではない。何かの比喩と考えられるそれらを解きほぐしていくのが自分の研究主題だった。
何よりも、ここで主張を変えれば、鏡花がいないと認めることになるではないか。
「武人さんが来られる前に、あの子から私達に嫁入り前の挨拶とともに聞きました。嫁げば、私達の子どもとしての存在ではいられなくなる。だけど、たとえ消えたとしても、武人さんの妻となりたいと、言っておりました」
我が子の心からの願いを止められませんでしたと、義母は語りを終えて、膳を下げる。その目の端に、涙の影を見た僕には、恨み言を放つことは出来なかった。
本当なら、鏡花と二人で歩むはずだった、新居への道を、僕は、一人で戻っていた。1週間後には、学院へ初出勤となる。そんなことでも考えないと、僕は、前に進める気がしなかった。
実家の隣にある、新居に辿り着いて中に入る。靴を脱ぎ、夫婦の寝室となる部屋へと入ったところで、限界が来た。僕は、崩れるようにしゃがみこむと、鞄から鏡を取り出して見つめる。
あれから、何度願っても、鏡花は現れない。
義母の戯言だと切り捨てようにも、切り捨てきれない、未練がましい僕がいる。わずかな希望に、すがりつきたい。あの夜を、幻にしたくない。頼むから鏡よ。鏡花を、返してくれ……
「武人。お前の願いは、本当にそれなのか」
思いがけぬ声に目を向けると、父がいた。
「母さんが、今日帰るはずなのに顔を出さんと心配していた。明日にでも顔を出せ」
用件は済んだとばかりに、父は踵を返して立ち去る。その言葉足らずさに怒りを覚える。父は、いつも、そうだ。僕には分からないことでも、自分には分かると偉ぶっている。家長の尊厳など、この戦後の時代にどこまで必要と言うんだ。第一、所帯を持ち、独立した息子の新居に断りもなく現れるとは、どういう了見か。
「花嫁を連れ帰らなかった息子は、半人前とでも言うのかよ」
鏡花が消えなければ、今頃は二人で実家に顔を出せていたのだろう。本当に、なぜこんなことになっているのか。僕はただーー
「鏡花と、幸せな家庭を築きたかっただけなのに」
こぼれた言葉とともに白い光が目に入る。真っ白ではなく、生成りに近いが白と言える色。鏡花の肌の色……!?
「鏡が、光ってる」
願いの鏡は、白く発光していた。その光は壁にあたり、何かの像を結んでいる。歪むように、揺れるように。長い黒髪、白い肌。少し垂れ目な目元に、色づく唇。気づけば僕は立ち上がり、揺れる像を抱きしめていた。
「もう一度、お会いできました」
僕に泣きそうな顔で微笑みかけるのは、間違いようもなく、鏡花だった。
「幸せな家庭を築いていこう。二人で」
鏡花は、泣きながらうなづく。僕は、腕の中の鏡花を、しっかりと抱きしめた。
この後の話は蛇足だ。僕と鏡花は息子を授かり、幸せな家庭を築いている。それ以外は、この文章を読む君に必要ないことだろうから。
昭和五十二年三月吉日 只野武人記