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初めは、居ても居なくても気付かない、ハッキリ言ってどうでもいい存在だったんだ。
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(あー…ヤバいな…)
さっき、意識を失った楓ちゃんを守ることに必死で、自分の体を守ることを考えていなかった俺。
体のあちこちが、まるで裂けているかのように痛い。
喋る度に自分の体のどこかが千切れていくようだ。
でもきっと、楓ちゃんの胸の痛みはこんなもんじゃなかったんだろう。
遼って奴が死んでこの世から居なくなった時の、大切な人を失った時の楓ちゃんの痛みはきっともっと凄かったんだろう。
…悔しい。
楓ちゃんの痛みを分かってあげられない自分が、想像することしかできない自分が、堪らなく悔しい。
今だって、腕の痛みのせいで、楓ちゃんの頬を伝う涙を拭うことさえできなくて。
自分がどれだけ無力なのかを思い知らされる。
好きなのに。
こんなに大切に想っているのに、何もできない自分。
楓ちゃんは自分のことをよく『私なんか』って言うけど、俺にとっては違うんだ。
もうずっと、
15の時、塾が一緒だった時からもうずっと、
楓ちゃんは俺にとって特別な人だったんだ…─。
◇
俺があの塾へと通い始めたのは中学三年、受験生になってから。
今まで勉強らしい勉強をろくにしていなかった俺を見かねて、口うるさい親が無理矢理入塾させたのがキッカケ。
でもまぁ、俺も一応将来っていうものを子供ながらに考えて、ちょくちょくサボったりしながらも塾へと通っていた。
俺は男だから、将来家族を養っていかなくちゃいけない。その為には頭の良い高校を卒業しといて損はないだろ。とか、そんな風な適当な考えだったけど。
楓ちゃんが入塾して来たのは、たぶん五月くらいだったと思う。
何故『たぶん』なのかというと、そんなに印象に残っていないからだ。
良くも悪くもない平凡な顔立ちに、一度も染めたことのなさそうな黒い髪。
楓ちゃんは本当にどこにでも居るような子で、大して気にも留めていなかった。
大勢居る塾生の内の一人。
名前も知らない女の子。
そんな程度の薄い印象だった。
それが変わったのは、楓ちゃんが入塾して三ヶ月ほど経ったある日のこと。
夏休みに入って、すっかりサボり気味になっていた俺が久々に塾へと足を運んだ時だった。
(あっついなー…)
夏の暑さにげんなりしていた俺は、授業が始まってもいないのに帰ろうかどうかを本気で悩んでいて。
「いや、そろそろマジで勉強しないと…」
だけどなんとか自分を奮い立たせて、教室のドアを開ける。
すると、そんな俺の耳に
「…性格ブスには、言われたくない」
そう、物騒な言葉が飛び込んできた。
(えっ、)
状況をまるで把握していない俺はただ驚いて、その言葉に自分の耳を疑う。
その言葉を言われたのはどうやら塾生の中でも派手な部類に入る女子のようで、
(じゃあ…誰が…)
言ったのは誰か、そう思って俺は女子達から視線を移動させた。
するとそこには、あの平凡な女の子の姿があり、だけどその瞳の強さは、まるで別人のようで。
「っ」
俺は思わず息を呑んだ。
どこまでも澄んだ黒い瞳。
それが強く真っ直ぐに女子達を見据えていて、
綺麗だと思った。
強い意志が宿ったその瞳に、吸い込まれてしまうんじゃないかと思った程に。
暫くすると女子達は酷い言葉を彼女に浴びせ、
彼女は男と二人で教室を出ていった。
騒然とする教室。
そんな中、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。
動けなかったんだ。
彼女のあの瞳に、強く真っ直ぐな瞳に、
まるで捕らわれてしまったかのように動けなかった。
そして俺は、この事で初めて、
楓ちゃんの存在を意識したんだ。
それからの楓ちゃんは一緒に教室を出ていった男とほぼ一緒に居て、周りの噂から二人が付き合っているんだと知った。
楓ちゃんの名前も、その男が『楓』と呼んでいたことから知って。
初めはなんとも思っていなかった楓ちゃんの存在。
でも俺はあの日から、無意識のうちに楓ちゃんを目で追って、気が付けばいつも楓ちゃんのことを考えていた。
こんなに平凡な子が、瞳にあんなに強い意志を宿すのかと、そんな風に思って。
楓ちゃんのことばかり考えているそんな俺が、楓ちゃんのことを好きになるまでに、そんなに時間はかからなかった。
ここが良いからだとか、具体的な理由なんてない。
急激に好きになったわけでもない。
雫がひと粒ひと粒溜まるようにゆっくりと、だけど確実に俺の中に蓄積されて、
気が付けば、気のせいだと言えないくらい好きになっていた。
サボり気味だった塾にちゃんと通うようになったのも、退屈で仕方なかった講義で眠ったりしなくなったのも、全部楓ちゃんを好きになったからだ。
たとえ俺のものじゃなかったとしても、違う奴の恋人だったとしても、楓ちゃんの色んな表情をこの目に焼き付けておきたかったから。
片思いはツラい。
できるなら、俺を好きになってほしい。
それは、幾度となく思ったことで。
だけど楓ちゃんがあまりにも幸せそうに笑うから、彼氏のことが好きで仕方ないって目をするから、
だから俺は、この想いをずっと胸に仕舞って、楓ちゃんの幸せを願おうと決めたんだ。
引っ越しして、この塾から居なくなっても、
楓ちゃんに俺の存在を知ってもらえなくても、
それでいいって、本気でそう思ったんだ。




