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KRAMPUS  作者: 風嵐むげん
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「……か、ミカ?」

「うっ……うーん」

「ミカ、起きなよ。こんなところで、よくそんな格好で眠れるねえ?」

 風邪、引いちゃうよ? 肩を揺さぶられ、心地良い惰眠に漂っていた意識がゆっくりと浮上する。

 なんだか、身体中が痛い。凝り固まった身体を解すように背筋と腕を天井に向けて伸ばす。うーん、背中からぱきぱきと音が鳴っているのが妙に年寄りくさい気がする。

「ふわあ……おはよう、アンナさん」

「ああ、おはよう」

 ふわふわと欠伸をしながら、目の前に居るアンナにそんな挨拶をする。……あれ、ちょっと待って。

 かなりぼさぼさに乱れているが、鮮やかな金髪をわしわしと掻いて。ここ数日で少し痩せた気がするが、胸元にある二つの膨らみはまだまだ魅惑的。身体中のガーゼや包帯を難儀そうに眺めて「うわあ、こりゃあヒドイねえ。でも汗臭いから風呂入りたいなあ、しみるかなあ?」と暢気な彼女は、さっきまで昏睡状態だった筈。

 反射的に立ち上がったミカに、アンナの身体がびくりと跳ねる。

「あ、あああアンナさん! アンナさんが起きた!!」

「うわっ、な……なんだいいきなり、というか今更?」

 確かに。しかし、驚愕という名の衝撃は後から波のように押し寄せて来るわけで。どうしよう、とりあえずユドを呼びに行った方が良いの? それとも先にご飯? あれこれと考えていると、不意に握り締めていた右手の中に何かが入っていることに気が付いた。

「ん? ……アメ?」

 それは、ミカの好きなロリポップキャンディのいちごミルク味だった。大手お菓子メーカーが誇る長年愛されている定番商品の中の一つ。村の子供達はもちろんミカも好きで、家には何袋も常備してある程で。

 まあ、中毒者であるあの幼馴染には負けるが。

「……なんで?」

 でも、なんで自分はこんなものを握っているのだろうか。まさか、食べようと思ってキッチンから持ち出したのはいいが、包み紙を破る前に力尽きたのだろうか。

 そうだとしたら、色々とショックだ。どれだけ食い意地が張っていたんだ。

「なんだいそれ?」

「え、えっと……」

「ああ、それフロストがいっつもしゃぶってるやつだろ? ……そういえば、フロストはどうしたんだい? ここはミカの家だよねえ?」

 見舞いにも来ないのかい、あの師匠不孝ものめ! にやにやと口元を歪ませて言っているものだから、怒っているのかどうかよくわからない。

 とりあえず、アメを一度カーディガンのポケットにしまい込む。何日も眠っていたのだ、事情を知らないアンナに色々と教えてあげなければ。ミカがそう思って、何から話そうかと頭の中で整理する。すると、突然部屋のドアからノックの音が転がった。

「ミカ? 居るの? 入るわよおー……あら、アンナさん! 起きたのねぇ、具合はどう?」

「あ、お母さん」

 入ってきたのは、ミカの母親のカティだった。真っ白なエプロンを身につけ、長い黒髪をシュシュで一つに纏めている。ミカやアンナと同じトナカイで、ライノと同い年だがまだ若々しく綺麗で、ミカの自慢のお母さんである。

「いやあ、なんか知らない間にすっかりお世話になったみたいで」

「気にしないでいいのよ? 困った時はお互い様だもの。食欲はある? お酒はだめだけど、温かいポトフとかリゾットとか割と何でもあるわよお。あ、プリンもあるし。とりあえず食べれそうなら何かお腹に入れた方が良いと思うんだけど」

「じゃあ……お言葉に甘えて、今言ったやつ全部お願いしようかねぇ?」

 いやー、メチャクチャ腹ペコでさあ! 細く締まった腹を擦りながらアンナが言った。彼女の胃は大量のお酒を溜め込むが、食べ物だって物凄い量を収納することが出来る。食べて飲んだら寝る。それでいて太った様子は見られない。

 なんだ、それ。神様、差別ですか。

 一瞬きょとんとしたカティだったが、すぐにふふっと穏やかに笑う。

「相変わらずねえ? わかったわぁ、すぐに持ってくるから待っててね。ミカも一緒に食べる?」

「あ、ちょっと待ってお母さん!」

 そう言って、ドアを開ける母親をミカが呼びとめる。ポケットから先程の飴玉を取り出し、記憶に無い自分の行動の謎を解き明かして貰おうと思ったのだ。いつもキッチンに居る彼女なら、絶対に何か知っている筈。

「あら。それ、フロストに貰ったんじゃないの?」

 がくんと、肩を落とすミカ。いやいや、それは無いでしょ。だが、カティの答えには続きがあった。

「だって、あの子さっきここに来たでしょ?」

「さっき?」

「そうねえ……二時間くらい前かしら」

 頬に手を当て、カティが首を傾げる。二時間前? ミカは天井に近い場所に引っ掛けてある壁時計を見つめる。

 もうすぐ午後八時に針が届きそうだ。はて、フロストに最後に会ったのはまだ午前中だった筈。うん、確かにそうだ。お昼ごはんも食べずに、彼は自分の家に帰った。それから簡単に食事をした以外はずっと、この部屋でアンナの看病をしていた。

 あれから、フロストには会っていない。

「なんだ、フロスト来てたのかい」

「アンナさんよりは軽傷だけど、あの子も今朝までずっと寝ていたのよ。まだ怪我人なのに、一人で虚無退治なんて……心配だわぁ」

 ふう、と息を吐くカティ。おや、今さりげなく聞き捨てにならないようなことを言わなかったか?

「……えっ、フロストがどうしたって?」

「あら、聞いてないの? わたしが見た時、あの子二階から降りてきたからてっきりここに来たのかと思ってたのに。忘れ物でも取りに来ただけなのかしら」

「いや……そうじゃなくて」

 思考が混乱する。ミカの持っている記憶と、カティがくれる情報とが上手く合わさらない。これがパズルだとしたら、ピースが足りなさすぎる。

 訊きたいことが多すぎて、その全てが我先にとミカの口から飛び出したがっているのだが。オーバーヒート寸前の思考が、それらの交通整理を丸投げしてしまった。

「虚無退治って?」

「そうなの。なんか、軍に応援要請をしたんだけど吹雪がひどくて来られないみたいなの。それで皆が困ってたら、突然フロストが来てね?」

 自らキュリの討伐を志願したとか何とか。ミカの疑問の一つを、代わりにアンナが解決してくれた。ふと、窓の外を見やる。冬の昼間はとても短い。珍しく月が出ていて明るいが、もう既に夜の闇が世界を覆っている。

 ついさっきまではお昼だった。昼から夜へと変わる僅かの時間を、ミカは眠ってしまっていた。最後に見た時計の針は、五時半を過ぎたばかりだった気がする。

 もしかして自分が目を瞑っている間に、フロストがここに来たのではないか? そして眠っているミカとアンナを起こすことはせず出かけた。

 その時に彼の気が向いて、眠っているミカにこの飴を握らせた。がちゃがちゃとしていた思考を組み合わせただけの仮定だったが、そこにあの記憶が加わるとミカは思わず奇声を上げそうになった。

 ――十三年前のあの夜、ヒョウがしたことと全く同じではないか!

「……私は、死なす為に銃を教えたんじゃないんだけどねぇ」

 アンナがぽつりと、そう零した。いつの間にかカティの姿が無い。思考のパズルを組み合わせることに必死で、部屋を後にした彼女に気が付かなかったらしい。

 完成したパズル。整理された頭の中は、夜明け前の雪原のように静まり返っていた。

「まあ……あの馬鹿はそんなすぐにくたばらないと思うけど」

「…………」

「ミカ? ちょっと、大丈夫かい?」

「…………う」

「う?」

「うきゃああああぁあああ!!」

 屋敷が揺れた。天井から埃かぱらぱらと落ちて、丸い傘のランプがぐらぐらと揺れる。実際にそうだったかはわからないが、そうであってもおかしくないくらいの爆音、もとい奇声が轟いた。

 そして、残される余韻と訪れる静寂。呆気にとられたアンナが、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「……ど、どうしたんだい一体?」

「フロストの……フロストのトンチンカン!! どっちがバカよ!? バカっていう方がもっとバカじゃない!」

 玩具屋の前に居る小さな子供みたいに地団駄を踏み、ミカが喚く。なにこれ、なんて死亡フラグ!? 飴の棒が折れんばかりに握り締めても、ミカのいら立ちは少しも治まらない。むしろどんどん噴き出す。

 あの頃のフロストと同じように、自分もこれを舐めて大人しく待っていろというわけか。ふざけんな、冗談じゃない!

「お、落ち着きなよミカ。急にどうしたんだい?」

「落ち着け? ……これが、落ち着いて」

 いられるか! ベッドの端に手をついて、ミカが低く唸る。餓えた犬のような剣幕に、流石のアンナも口角をひくひくと引きつらせている。

「あー! もう、何なのよぉ!! ヘコんでると思ったから、気を利かせてそっとしておいてあげたのに……またあたしをだましたのねぇえ!」

 爆発した苛立ちを拳に込め、ベッドを殴りつける。あれはどうせ、虚無を退治しに行くと言ったら自分がうるさいから、とかいう理由で打った一芝居打だったのだろう。なんてヤツ! 腹立つ!

 こっちはただ、心配しているだけなのに。いつも怪我してないかとか、ちゃんと帰ってくるかとか、そんなことでハラハラしているのがどれだけツラいことか。

「なんでわからないかなぁ。ヒトのまごころを踏みにじって、そんなに面白いの!? どうなの、アンナさん!」

「いや……あたしに言われても、さ」

 呆れたように笑うアンナの顔を睨み付け、ようやく少しだけ怒りの噴火が収まってきた。

 真っ赤な頬に、鼻息荒く。椅子に浅く腰を掛け、俯いて残りの鬱憤を長く重い溜め息と共に吐き出した。なんか、どっと疲れた。

「……でも、ミカ。あんたって、フロストのことが本当に好きなんだねぇ」

 しばらく何も言えず。のろのろと顔を上げて、嫌ににっこりと笑うアンナと目が合う。

 ……何ですと?

「…………えっ?」

「あんたみたいな可愛い女の子にこんなに愛されてるなんて、フロストも幸せ者だねぇ? あの若白髪には勿体ないよ」

「すっ、すすす好きじゃないよ! そんなんじゃないんだよ!!」

 かああっ、と顔面が火照る。違う違う違う! ただ、あたしは心配してるだけなんだから。

 だって、兄妹みたいにいつも一緒に育った幼なじみだもの。

「あれー? 照れちゃって、可愛いねぇ」

「照れてないもん! そんなんじゃないもん!」

「あらあら。じゃあ、本当に違うんだぁ? なら、フロストは私が貰っちゃおうかねぇ」

「えっ……」

 ほこほこと茹だったように熱を発していた筈の頬が一転、さぁっと氷水を浴びせられたかのように冷める。

「まだまだ甘ったれたガキだけど、あと十年経ったらフェロモン垂れ流しのエロい男になりそうだからねぇ?」

「ふぇ、ふぇろもん……って」

「ま、今でも若いから『あっち』の方は充分なんだけどねぇ。まあ、ミカが要らないって言ったんだからお姉さんが喜んで貰ってあげる――」

「や、やっぱりダメー!!」

 ダメダメ、絶対ダメ! 首がもげるのではないかというくらいぶんぶんと横に振って。

 腹を抱えて、大笑いしながらアンナが目元を指で拭う。

「あっはははは! はー、腹痛い。あ、いてて。傷が開きそうになった」

 毛布の上から脚をさすり。しばらくそうした後、ようやく気が済んだのかアンナがミカの方を向いた。

「ふう、笑った笑った。さて、冗談はここまでにしておこうか」

「冗談、だったんだ……なんだ」

 良かった、と一人胸を撫で下ろす。しかし、それも束の間の安堵であった。

 不意に、赤みの強い茶色の瞳が真っ直ぐとミカを射抜く。

「ミカ、あんたに頼みがある」

 くらくらと眩暈がしそうなアルコールの匂いも、にやけた笑いも無い。いつになく真面目な様子のアンナに、ミカも知らず内に姿勢を正してしまう。

 こんな彼女は、見たことが無い。

「な、なに?」

「情けないが私はこの通り、とてもまともに動ける状態じゃない。フロストだって、ケガしてるんだろ?」

「……うん」

「なら、あんたしか居ない。頼む、フロストを助けに行ってくれないか?」

 それは、全く少しも思っていなかったことで。はて、彼女は何を言っているのか。

「……へ?」

「だから、私は動けないからあんたがフロストを助けに行ってくれって――」

「いや、いやいやいや! ななな、何言っちゃってるのアンナさん!?」

 無理だよぉ! と、ミカが喚く。数日前、自分に銃は持たない方が良いと言っていたじゃないか。それに、キュリは歴戦の戦士二人がかなわなかった相手なのに。

「あたし、銃の使い方とかわかんないし……こわい、し」

「大丈夫。あんた、十六になったんだから車の運転くらい出来るだろ」

「そ、それは一応……トナカイだもん」

 トナカイは十六歳の誕生日を迎えたら、自動車の運転免許証を取得することが出来る。案内人として、必要不可欠のスキルである故にトナカイは出来るだけ早くこれを取るようにしてある。

 ミカも、誕生日の数ヶ月前から頑張って練習して、既に取得済みだ。

「それなら上等さ。あんたは運転だけすればいい」

「ふぇえ? なにそれぇ?」

「ねえ、あの夜に私が着てたジャケットって……もしかして捨てちゃった?」

「ジャケット?」

 そういえば、三日前のあの夜に彼女が着ていたジャケットはどうしたのだっけ。フロストのコートと一緒に、カティが洗濯していた気がする。

「捨ててはないよ、多分」

「良かった。いや、あんなボロい服なんて捨ててくれて良いんだけど……あれの左胸の内ポケットに、鍵が入ってるんだ」

「鍵?」

「私の『ダンナ』の鍵さ」

「だ、だんなさんの鍵?」

 何だか嫌な予感。何故なら、アンナに旦那が居るなんて聞いたことがないからだ。しかも鍵とな。そして、彼女には困った癖がある。

 お気に入りの銃火器を擬人化してしまうという、到底ミカには理解出来ない悪い癖だ。

「とにかく、ミカは運転だけすれば良いの。あんたのことはダンナが護ってくれるし、まず自分から向かってくる命知らずの虚無はまず居ないだろうさ」


 自分の腰丈まであろうかという真っ黒なネズミの額に、ネラの弾丸を数発撃ち込む。フロストの身体を喰い千切ろうと企んでいたらしい、のこぎりのような歯列がぼろりと崩れ、肉塊となったネズミを蹴り飛ばす。数は大分減った、弾奏も予備を含めてまだ充分ある。

 しかし、身体は疲弊しきっていた。突如、フロストの左肩を激痛が襲う。

「ッぐ!?」

「素晴らしいわ、フロスト。でも、此処までのようですわね」

 落としてしまう前ににネラを右手に持ち替え、キュリに向ける。肩を抉ったのは、キュリの放った弾丸。しかも、ただの弾ではない。指先まで駆け廻る電流。麻痺か、それとも雷撃の能力を持つ弾丸かはわからないが。両脚から力が抜け、フロストはその場に膝をついてしまう。

 加えて、肺腑を侵す鉄錆の臭い。左肩から噴き出す鮮血が、フロストのコートを濃い紅に染めていく。指先を伝う雫が、純白の雪を無遠慮に染める。

「ッ……」

「善戦でした。でも、負けは負けですわ」

 ちらりと、スノーモービルとの距離を確認する。あそこまで行くことが出来たら、すぐにエンジンを駆けて逃げることが出来る。村長達と約束したのだ。こんな場所で死ぬわけにはいかない。

 何とかキュリの隙を突ければ。だが、フロストの思考はキュリにお見通しだったらしい。

「逃げようとしても、無駄ですわ。ご覧なさい、フロスト」

 キュリが夜空を指す。それを追って目をやれば、今まで辺りを明るく照らしていた筈の月が薄い雲に覆われ、ぼんやりとした朧月に様変わりしていた。星達の煌めきも色褪せ、青白く輝いていた雪面も闇に覆われ始めている。

 フロストの銀髪を揺らす風も、いつの間にか乱暴なものに変わっている。軍の足止めをしていた吹雪が、ここまでやってきたのだろうか。

「やはり、月はわたくし達の味方ね。意味がおわかりになったでしょう? 確かに、貴方のスノーモービルならわたくしを振り切ることが出来るでしょうね。でも、闇の中で村まで逃げ切れるとお思い?」

 犇めき始めた暗闇がざわりと蠢く気配。流れる血の臭いに誘われてきたのか。しかし、すぐに近づいてくる様子は無い。キュリが牽制をかけているのだろう。虚無の上下関係は、時に此方が感心してしまう程に厳正だ。それでも、キュリが何らかの合図を出せば大量の虚無がフロストを襲うだろう。

 屈辱。フロストは唇を噛んで、耐えるしか出来ない。傷口は小さくなく、血が止まる様子は未だ無い。体温はどんどん奪われ、右腕の感覚も麻痺していく。向ける銃口はぶるぶると震え、とてもじゃないがキュリを超える速さで引き金を引くことなんか出来ない。

「くっ、そ……」

「思えば、貴方も哀れですわね。あの村で、たった一人の戦士として努力していたというのに……ああ、そう言えばこの銃は貴方の父親の銃だと仰っていましたわね?」

 キュリが歩み寄り、フロストの手から銃を蹴り飛ばす。ネラは淀みの無い弧を描いて、雪の中へと静かに落ちた。

「父親、というものがよくわかりませんが。この銃は、貴方にとって大切な方のものだった。そうなのでしょう?」

「……だったら、何だ」

「貴方にとって最高の屈辱と絶望は、父親を奪った虚無にこの銃で殺されること」

 そうでしょう? 額に当たる、硬い金属の嫌な感触。先ほど放った弾丸の熱が、ほんのりと皮膚を撫でる。少しでも動けば、フロストの頭を金色のリヴォルヴァーが撃ち抜くだろう。

 動かなくても、時間の問題だが。

「このまま殺せば、貴方はそこら中に居る虚無の餌として貪られ、食い散らかされるでしょうね。貴方に相応しい、醜く無様な最後。勿体無い気もしますが、その中からまたスイのような優秀で可愛らしい子が生まれるでしょう」

 撃鉄の上がる音が耳に届く。もう、この状況に抗う術がフロストには無かった。武器は何も残っていない。体力も、気力もゼロに近い。

「今までの善戦を称えて、一発で終わらせて差し上げますわ。安心なさって? あのミカとかいう小娘も、他の村の皆様もすぐに貴方の後を追わせて差し上げますから」

 キュリの指が引き金にかかる。引いた瞬間、灼熱の弾丸が放たれると同時にフロストの命の灯は呆気無く消えるだろう。そう思うと、何だか笑えてきた。こんなところまで、ヒョウに似なくても良いのに。

 約束、したんだけどな。

「……さようなら、フロスト」

 響き渡る轟音。それは、広がる雪原を超えた先にあるライアスまで届いたかのように思えた。いや、実際届いたかもしれない。

 わんわんと反響を繰り返す、甲高い音。なるほど、頭部を撃ち抜かれるというのは案外無痛らしい。……いや、待て。響く音は、銃から発せられる筈の爆音とは全く違う。

 そもそも、キュリはまだ撃っていない。何故だか、どうにかまだ生きているらしい。

「なっ……何故。いくらなんでも早すぎる」

 わなわなと震えるキュリ。その紅い瞳は既にフロストではなく、遥か後方を見据えていた。さりげなく金色の銃口から離れると、フロストも其方を見る。ふと、視界が狭いことに気が付いてゴーグルを額に押し上げる。

 薄暗い景色の中では、キュリを狼狽させた原因を探し出すことが思いのほか難しい。虚無は暗闇でも目が利くが、フロストはそうではない。それでも、注意深く見つめていると不意に妙な違和感を見つけた。

 滑らかった筈の雪面に突如出現した、不自然な膨らみ。自然に出来た雪の塊などではない。

 あれは、まさか。目を細め、やけに人工的な輪郭を辿る。だがその瞬間、再び鼓膜をぶち抜かんばかりの轟音が響き渡った。ようやくわかった。先ほどのも今のも、そもそも銃声ですらなかったのだ。

「この、耳障りな音……まさか」

 それは、けたたましく唸るハウリングだった。思わず耳を塞ぎたくなるような甲高い雑音が、辺りを縦横無尽に響き渡る。次いで、ぶつぶつと何かを切るような音。

 その中で、微かにヒトの声のようなものが聴こえるが、何を言っているのかは理解出来ない。

『……ぇ…………す、ちょっ……どう…………れ』

 ぶちん、と一際大きい雑音。しばらくの沈黙の後、もう一度同じ音が飛んできた。そして、今度こそ闖入者の声をスピーカー越しに聴くことが出来た。

『あー、あー。テストー、テストー、マイクテストー。……うん、直った直った』

 さっすがあたし! と、一人で勝手に喜んでいる闖入者、もとい馬鹿。姿を見なくても、名前を聞かなくても、フロストにはそれが何者かがすぐにわかってしまった。

 問題は、どうして田舎村に住むトナカイの小娘が、何故あのような物騒な乗り物に乗っているのかだ。

『こらー、フロスト! あんた、またあたしにウソ吐いたわねぇ!? しかも、ケガ人のくせにこんな場所まで一人で来るなんて、バカじゃないの!?』

「……テメェにだけは言われたくねぇよ! おい、ミカ!! 何なんだよ、そのふざけた車は!」

 車、と言ってしまったが実際はただの車なんかじゃない。車体は頑丈な装甲に包まれ、尚且つ全体には目立たないよう雪上用の迷彩で塗装されている。

 更には、行く先が雪だろうが岩場だろうが構わず突き進む無限軌道に、何やらごんごんと首を振る巨大な砲塔。どう見ても、これはあれだ。

 重装甲戦闘車両。一般的に言うと、いわゆる『戦車』というやつだ。

『ふっふっふー。そんなに知りたいの? これはねぇ、アンナさん秘蔵の旦那さん、その名も暗黒に煌めく最果ての銀河号よ!』

 しん、と広がる静寂が、先ほどのハウリングとは比べ物にならないくらい耳に痛い。何故だろう。戦車からは距離もある上に、ミカは中に居て此処からは角すら見えない筈なのに。

 腹立たしいドヤ顔が頭に浮かぶ。殴りたい。

 どうしてミカが戦車を運転出来るのかとか、あんな大物どこに隠してやがったとか、なんていうか独特過ぎるネーミングセンスとか。色々と物申したいことがあるのだが、とりあえずこれはマズい。

「……軍に見つかったら、即捕まるな」

 基本的に戦士は基本的にどんな武器を使っても良いことになってはいるが、制限はある。銃の所持数だとか、重量だとかが細かく法律によって決められている。でもフロストにとっては、そこまで気にするようなものではない。

 だが、目と鼻の先にあるあれは、大問題だ。三日前にアンナがトラックに積んでいた銃や爆弾をぎりぎりセーフ――百歩程譲ってだが――とするなら、戦車は余裕でアウトだ。見つかり次第現行犯逮捕で間違いない。

 しかも、逮捕する側の連中を待っている最中でこの暴挙である。

「ありえねぇ……何なんだよ、あの変態トナカイ」

「ふ、ふふふ……軍がいらっしゃったのかと思いきや、まさかあのトナカイの小娘とはね」

 驚きましたわ。そう言って笑うキュリの表情が、どことなく引きつっている。突然現れた戦車の存在に戦慄いたか、それとも奇抜な名前に呆れたか。

「でも、それなら何も問題ありませんわ。むしろ、あの車両を手に入れられれば軍にも対抗出来ますわね」

 キュリが再び銃を向ける。そしてフロストではなく、戦車の方を見て朗々と声を飛ばす。

「トナカイのお嬢さん。ここにいる幼なじみの命が惜しければ、今すぐその車から降りなさい。フロストの命はわたくし次第なの、おわかりでしょう?」

「ッ、テメェ!?」

 油断した。色々と呆気にとられてしまっていて、キュリに隙を許してしまった。

 引き金にかかる指は、いつでも絞れるよう。まさか自分が交渉の材料に使われるとは。

「わたくしはいつでもこの指一本で、貴方の大切なフロストを殺すことが出来ますのよ? 貴方が大人しくその車両を渡してくれるのなら、フロストと貴方には危害は加えません」

 明らかな虚言。しかし、単純なミカなら引っ掛かるかもしれない。あの戦車がどのくらい使える代物なのかは検討もつかないが、虚無などに絶対渡してはならない。

 ミカは何も言わず、沈黙を保っている。しばらく待ってから、キュリがより大きい声で甘言を紡ぎ続ける。

「そこからご覧になれているかわかりませんが、フロストに抗う力はもう無くてよ? さあ、良い子だから降参なさって――」

『……はぁ? なに言ってんの、オバサン』

 バッカじゃないの? スピーカー越しに聴こえる声はいつもより高く、ばちばちとノイズが絡んでいて感情を読み取れない。

 ただ、キュリの交渉に応じる気はさらさら無いらしい。

「なっ、またわたくしのことをその言葉で侮辱するなんて!」

『言っとくけど、フロストを脅しに使おうと思ってもムダだからね? ……ところでフロスト、あたし今ね。すごく、すごーく怒ってんの』

 どうしてか、わかる? いきなり、しかも身に覚えのないことを問われてしまい。怒っているといわれても、ミカがよくわからない些細なことで腹を立てているなんて日常茶飯事で。

 改めて考えても、やっぱりわからない。

「知らねぇよ。つか、今はそれどころじゃ――」

『ふうん? わかんないんだぁ……あー、そうなんだぁ』

 肌がぞくりと粟立つ。何故だ、傍らのキュリや今にも火を噴きそうなリヴォルヴァーよりも、今はミカの方がヤバいと感じる。声にはいつもの能天気さが無く、やけに冷やかに響いている。

「み、ミカ……一体どうしたんだ、お前」

『別にぃ? ああ、フロストまたケガしちゃったんだぁ。そっかぁ、なら……あたしが代わりにそのオバサン倒してあげるよぉ』

「は? 何、言ってんだ」

 お前、という言葉は声にならないまま口からぽろりと零れる。ぴたりと動きを止めた砲塔が、ゆっくりと此方を向く。

「え……ま、まさか」

 フロストの腕がすっぽりと入ってしまう程に巨大な主砲が、ぎろりと此方を睨む。狙いがキュリなのか、それともフロストなのかはここからでは判別出来ない。いや、どっちであるかなんて大した問題ではない。

 何故なら、どちらであっても関係ないからだ。装填されているスピネルの種類にもよるが、あれだけ巨大な砲口から放たれる弾なら確実にかなりの広範囲を焼き払うだろう。

「ちょ、ちょっと待ちなさい! 貴方、そんなものを撃ったら、わたくしだけでなくフロストも巻き添えになってしまいますわよ!?」

『えー? だいじょうぶだよ。だって、フロストは村で一番の戦士様なんだもん。こんな場所で、間抜けに死んじゃったりしないよねぇ?』

 一体これはどういう状況だ。虚無であるキュリがまともで、ミカの方がおかしい。まさか、あれか。

 ブチ切れた、というやつか。

「いや……落ちつけよミカ。冗談にしては全然笑えねぇぞ」

 たとえ彼女に撃つ気がなくとも、ちょっとでも手元が狂えば最悪の事態になる。

 からかっているだけなら、早くやめさせなければ。

「何がそんなに気に食わないのか知らねぇけど、危ねぇからふざけんのもそれくらいに―」

『なに、あんた……まだわかんないの?』

「わかんねぇよ! いきなり勝手にキレやがって、そもそもどうしてお前がこんな場所まで来てんだよ!?」

 遊び半分なら、とっとと帰れ! 声を張り上げる度に、肩の傷に響く。スピーカーからは、反論の声は無い。わかってくれたのだろうか。

『……か』

「あ?」

『フロスト、大ばかやろおおぉ!!』

 ぎゅんっ、と空気を握り潰すかのような音。見ると、今まで空っぽだった砲身の先から強烈な光が輝いている。先程フロストが撃った信号弾も凄まじいものだったが、あれは格が違う。

 ぐんぐんと大きく、そして輝きを増していく。

「なっ、なんてことを!!」

 銃を下ろしたキュリが、地面を蹴りふわりと宙に浮く。だが、僅かに遅かった。

 放たれた砲弾は、まるで流れ星のような長く美しい尾を煌めかせながら、フロストの頭上を駆け抜ける。

「…………あ」

 僅差だった。砲弾が地面と接触するより先に、フロストが両手で耳を塞ぎ伏せる。百メートル程離れた場所で起こる、凄まじい光の爆発。何層にも積み重なる雪と氷を粉々に吹き飛ばすだけでなく、その下にある土までもを深く抉る。

「いやああぁあ!!」

 巻き上がる雪の粉と、もはや暴力でしかない爆風。それは浮いていたキュリにも同じだったようで、少し離れた場所に背中から打ち付けられていた。暗がりで蠢いていた他の虚無が、今の砲撃で戦慄く声が聴こえる。

 おかげで頭をぶち抜かれることだけは免れたが。本当に、シャレにならない。

『わー……凄い音。……でも』

 不安定に揺れるミカの声。しかしそれは、怖いからとかそんな可愛げのある理由からではないらしい。

『これが……カイカンってやつ?』

「おい」

『きっもちいいー! 気持ちいいね、これ。超ストレス発散!』

 きゃっきゃっとはしゃぐ様子が、スピーカーから転がってくる。フロストは上体を起こすと、髪やコートに張り付いた雪片を叩く。

「……おい、ミカ」

 運が良いことに、今の衝撃と爆風でネラがフロストの傍らまで飛んできていた。手を伸ばし、雪を払い肩の痛みに苦労しながらも、背中のホルスターに収める。

『……なによ?』

 むっと不機嫌な声。一体何にそんなに怒っているのかわからないし、それを言わないミカも気に食わない。けれどもここは自分の苛立ちを飲み込んで、折れるしかないようだ。

 幼なじみがどれだけ意地っ張りかは、改めて考えなくてもわかることだから。

「あー……その、俺が悪い……んだよな?」

 やはり、どのように記憶と思考をこねくり回しても、彼女の怒りの原因がわからない。わからないから、謝りようがない。でも、このままではまたあの主砲が一方的な暴力を振るうかもしれない。

 本当に当てるつもりは無いのだろうが――そうであることを、無理矢理にでも信じたい。      

「でもよ、このまま言い争ってても埒が明かねぇ。だから、お前の話は後でいくらでも聞いてやる。俺に問題があるなら、納得がいくまで謝るよ」

『…………』

「全部片付いたら、ミカの気が済むまで叱られてやるから」

 上手く言葉を繋ぐことが出来ない。それでも、ミカもまたフロストとの付き合いは長いのだ。

 お互いがどんな性格なのか、嫌になるくらいよく知っている。

『……もう、仕方ないなぁ』

 呆れたような笑い。とりあえず、この場はどうにか凌げそうだ。

 倒れないように、ゆっくりと立ち上がる。貧血で頭がくらくらする。左腕は肘から下が辛うじて上がるが、力は入らずネラを撃てる状態じゃない。

 ブランシュは雪に埋もれてしまい、見つけることは難しい。不本意だが、あれに頼るしかない。

「ああ……髪がぼさぼさ。せっかく磨いた肌が、こんなに傷だらけになってしまいましたわ」

 ゆらりと、黒い影が揺れる。キュリの立つ場所から、眼下まで伸びる漆黒。

 雪にまみれた髪をかきあげて、鋭い血色の視線でフロストを射抜く。

「良いでしょう。そこまで仲がよろしいなら……この場で今すぐ一緒に葬り去って差し上げるわ!!」

「ミカ、来い!」

 可能な限り声を張り上げると、返事の代わりに戦車が唸りを上げて意外な俊足を見せた。驚くことに、本当に彼女が運転していたらしい。

 フロストが駆け寄り、適当な突起を掴んで右腕だけでなんとか身体を持ち上げる。車体の全長はおよそ十メートル、高さは二メートルくらいだろうか。

 途中、車体に小さな緑色の若葉マークを見つけた。戦車でも必要なのだろうか。

「くっ、ったくあの女……マジでどこにこんなもん隠してやがったんだ」

 息を切らしながらも、なんとか砲塔までよじ登る。車長の席であるそこは、本来ならば状況を把握し色々な指示を操縦者に伝えるべき場所である。だが、騒々しいエンジン音がとにかく邪魔で、このままでは会話なんて到底不可能。

 ミカが一方的に喚くことは可能だろうが、恐らくエンジンがかかった今の状態ではフロストが「このチビ、馬鹿!」と叫んでも気づきやしないだろう。それはそれで都合が良いが、今は我慢しなければ。

 フロストは席の内側を見つめ、すぐに目当てのものを見つけた。

「えっと……あ、あった」

 よかった。基本的で最低限な装備は揃っていた。内壁に引っかかっていた一対のヘッドフォンと喉頭マイクを手に取り、マイクを首に巻き付けるように装着する。これなら、他の雑音は一切拾わずフロストの声だけを集めてくれる。次に、少々大きめに調整されたヘッドフォンに耳を当ててみる。

 アンナがちゃんと説明したか、ミカがこれに気が付いているか。

「ミカ、聴こえるか?」

『おお! すごいすごい、フロストの声がちゃんと聴こえるよお!』

 少しの間を置いて、場違いなまでにはしゃぐ声が返ってきた。こもってはいるが、会話可能だ。

「よし。ところで、お前どこに居るんだ?」

『んとね、でっかい大砲から見て左の前の方。そっちは?』

「そのでっかい大砲のところだ」

 フロストの想像通り。操縦席は車体の前方、進行方向左の方にあるようだ。軍が所有する汎用型で、似ている形のものがあることを思い出す。

 それには操縦席と車長席の他にもう一つ、砲主席がある筈。この場からもそれらしき席が見えるが、空っぽだ。

「……いや、ちょっと待て。おかしいだろ!」

『へ? どうしたの?』

「ミカ、お前さっきの一発……どうやって撃ちやがった?」

 砲撃は砲主の席からしか撃てない。それなのに、さっきの一撃はどのようにして放たれたのか。ふふん、と自慢げにミカが言う。

『侮るなかれ! この暗黒に煌めく最果ての銀河号は、その辺に転がってる普通の戦車とは違うのよ!』

 普通の戦車はその辺に転がってねぇけどな。嬉々として説明するミカに、胸中だけでツッコミを入れる。

『なんとなんと、この操縦席からでもそこにある大砲をボタン一つで撃つことが出来ちゃうんだよ! 全部コンピュータ任せだけどね?』

「……なるほど」

 と、いうことはだ。ガサツなアンナのことだ、主砲を司る仕組みを作ったはいいが、細かい調整は怠っていたのだろう。僅かな誤差で、砲撃の命中度は大きく落ちる。砲主の席からならばわからないが、どうやら主砲は使い物にならないようだ。

 元から使う気は無いけどな。

「それからミカ、この戦車をどれだけ自在に操ることが出来る?」

『ん? 別に何でも出来るよ。だって、これ普通のマニュアル車とほとんど一緒だもん。違うのは、今仰向けの状態だってことだけかな。あ、あと後ろ見えないから指示よろしく』

「……わかった」

 少々情けないことに、運転ということに関してはミカに敵う気がしない。それはトナカイとサンタクロースという種族の違いから仕方の無いことなのだが。ミカは殊更にこういうことに関しては飲み込みが早い。

 心強いが、何だか釈然としない。

『で? で? どうするの、これから』

 やけに張り切っているミカに、フロストはしばらく思考する。キュリは再び数多の虚無を生み出そうとしている。それに、暗闇に逃げ込んでいた虚無達もぞわりと蠢いている。

 砲撃の恐怖より、垂れ流れる血の魅力の方が勝ってしまっているのだ。

「……ミカ、今すぐこいつの向きを百八十度変えろ」

『うんうん、それで?』

「全速力で、逃げろ」

 村に帰る間くらいなら、この身体でもなんとか応戦出来るだろう。それからタイミング良く、軍が来てくれるのを祈るしかない。

『え、やだ!』

 だが、ミカははっきりと拒絶した。フロストの口から、長い溜め息が漏れる。

『ていうか、だめだめ。だめだよぉ!』

「あのな……お前が思ってる以上に状況はヤバいんだよ。この車は無敵なんかじゃないし、それに――」

『フロストは、ヒョウさんの銃があのままで良いの!?』

 耳元から割れんばかりの叫び。はっとした。ミカは、遊び半分でここに来たわけではない。言葉だけでなく声からも、彼女の思いが伝わってきた。

『お父さんのこと、大好きだったんでしょ? 本当は、悔しいんでしょ……あんなオバサンに良いように使われて。大切な思い出を踏みにじられて』

「それ、は」

『悲しいんでしょ? 良いの、このままで』

 良くない。良いわけがない。

「でも、俺は……」

 このままじゃ、俺はお前まで失うことになる。零れそうになった弱さをぐっと堪え、フロストは息を吐く。これを言ったら、多分もう立っていられなくなる。

 護りたいものを、護れなくなる。

『……だいじょうぶだよ』

 ミカがフロストの言葉を待たずに、言った。

『だって、フロストは戦士なんだもん!』

「……ミカ」

『それに、このあたしが居るんだよ? フロストとあたしなら、なんでも出来るよ! だから諦めちゃだめなんだよ! これ以上、そういう後悔はしちゃだめなんだよ!』

 ああ、どうやらミカには全部お見通しだったようだ。誰にも言っていなかった筈なのに。そう、フロストは今までずっと後悔していた。

 あの夜。もし、フロストが強くヒョウにしがみ付いていたなら。大きくて温かい手を離さないでいたら、ヒョウは居なくなったりしなかったのではないか。

 何もしなかった自分を責めて、毎日のように後悔していた。

「……確かに、これ以上後悔するのはつらいな」

『フロスト?』

「悔しすぎて……頭、おかしくなるかもしれない」

 それだけ言って、一度ヘッドフォンを耳から離す。そして、大きさを調節して再び、今度は両耳に当たる様に装着する。これで、両手が空いた。

「……全力でやってやる。俺は親父よりずっと強いからな」

『フロスト!』

 嬉しそうな声が、名前を呼ぶ。どうなるかわからないが、後悔するなら出来る限りのことをやってからの方が断然良い。

 目の前に広がる暗闇を睨みつける。

「ミカ、お前は出来るだけ虚無がこの車を取り囲めないよう、好きなだけ走りまわれ」

『りょーかい! で、タイミングを見計らって大砲をばーんっ、だね?』

「いや、頼むから大砲だけは撃つな。そのボタンとやらは絶対に押すんじゃねぇ、忘れろ」

 この車体は大きく、全体的なバランスは良い。だが、長大な主砲から発せられる衝撃に、走りまわりながら耐えられるどうかには不安がある。そもそも、命中精度にも難がある。      

 フロストが言うと、不満そうな声が返ってきた。

『えー? じゃあ、どうするの?』

「丁度良いところに、非常に俺好みなヤツが手元にある。いいか、戦車の武器は大砲だけじゃねえんだよ」

 元来から、フロストは一撃必殺なるものが自分に合わないと思っていた。確かに命中すれば威力は高い。でも、もし外したらその瞬間に隙が出来てしまう。

 そんな危ない橋を、無理して渡る必要は無い。

「さて……どれだけやれるかな」

 熱く火照る右腕を軽く振り、手元の引き金に指をかける。主砲の上部に設置された重機関銃。上下左右の可動式で、背面以外ならかなり広範囲を縦横無尽に乱射することが出来る。

 初めて撃つことになるが、不思議なことにちょっとわくわくしてきた。

「幻滅しましたわ。フロスト、貴方はもっと聡明な方だと思っておりましたのに……そこの馬鹿な小娘に、あっさり感化されてしまったなんて」

 雪面をびっしりと覆い隠す虚無の群れを従え、キュリが言う。表情は無く、まるで研ぎ澄まされた刃のように美貌は冷たい。

「そうかもな。でもテメェら虚無と違って、ヒトは馬鹿になった時にしか出来ないこともあるんだぜ?」

「ふん、どこまでも愚かな子達……良いわ。逃げなかったことを、存分に後悔なさい!」

 行きなさい! キュリの声を引き金に、星の数ほどの虚無が戦車を目掛けて叫びを上げた。

「行け、ミカ!!」

『おっけー! エンジン全開!!』

 行くよ!! いつになく気合いの入った声と共に、戦車が猛進を始めた。雪の上をもりもりと進む無限軌道は、意外にも普通車並みの時速で走ることが出来る。しかも、足場の悪さは問わない。

 わかってはいたが、改めて体感すると度肝を抜かれるほどで。気を抜いたら、振り落とされてしまいそうだ。

「うわっ、くそ……意外と強烈だな」

『フロスト、大丈夫?』

「問題ねぇよ。お前は運転だけに集中してろ、絶対に取り囲まれるなよ!」

 取り囲まれてひっくり返されたら終わりだからな。ミカに再度念を押し、自らも纏わり付く雑魚を打ち払うべく引き金を絞る。慣れない、いつもより大きく重い引き金は、しかしそれに見合った以上の威力を見せ付けてくれた。

 同時に、耳をつんざく断末魔の調べが幾重にも重なる。

「ギ、ギャアアァ!?」

 連続する爆音は一瞬の隙も生まず、絶えず吐きだされる弾幕は圧倒的だった。痛む腕では引き金を絞るだけで精一杯だったが、特に狙いを定める必要は無かった。それくらい、虚無は隙間なく犇めいているのだ。

 数が多すぎるというのも、欠点になる。拡散力、貫通力共に優れている弾丸は一発で数体の虚無をなぎ倒す。無駄に巨大な虚無は屍となって倒れた時に自らの身体で仲間を押し潰した。

 逆に、小さな獣は装甲にへばりつき、僅かな隙間をこじ開け内部へ侵入しようとする。

「ミカ、こいつに風のスピネルとかはついてねぇのか?」

『雪とか吹き飛ばすやつなら、あるよ!』

「それを可能な限り一帯に展開しろ。近付きすぎた虚無を弾き飛ばせ!」

『わかった、しっかり掴まっててよね!』

 フロストは引き金を離し、身を屈めて近くにある手すりを握り締めた。銀河号には前後左右にスピネルが装着されており、その全てが同時に空気を吸い込み、強力な風として一気に放出した。

 吹き飛ばされた虚無は雪面に落ち、生々しい音を立てて眼下の無限軌道に轢かれた。

「よし、良いぞ」

『でも、まだ虚無はいっぱいいるよ!? フロスト、大丈夫?』

「俺は……大丈夫だ」

 不思議だった。両手の感覚は痺れてもう無いのに等しいのに、引き金を引く指は痛みに屈しようとしない。何度も諦めようという気持ちが湧き上がるのに、ヘッドフォンから声が聴こえる度に歯を食いしばることが出来た。

 ――負けるわけには、いかないから。

『あ、すごいすごい! ちょっとずつだけど、虚無減ってきたよ?』

 やがて、ミカが嬉しそうに言った。確かに、徐々にだが雪面に広がる虚無の海は減少しているように見えた。動きを止めた者は、既に塵に還り始めている屍。銀河号の猛攻により、恐れをなして逃げ出した者も少なくは無い。

 元々、キュリに生み出された者以外は彼女に忠誠を抱く必要なんかないのだ。自分の保身を考える方が賢い。

「……そういえば、キュリはどこに行った?」

 雑魚に気を取られていて、キュリの姿を見失ってしまった。霞む目を擦り、辺りを見渡す。だが、どこにもいない。

 嫌な予感がする。そして、それは的中していた。

『きゃああああぁあ!!』

「ミカ!?」

 ヘッドフォンから聴こえる悲鳴。銀河号は脚を止め、エンジンさえも沈黙した。冷たい緊張が全身に走る。

「ミカ、おい……何があった? 聴こえてるんなら、返事をしろ!!」

 砂嵐のような雑音は聴こえないから、マイクはまだ生きている筈。身を乗り出して見ようとも、生き残っていた虚無がフロストの邪魔をした。

 機関銃の上にしがみ付き、巨大なコウモリがノコギリ上の牙を剥き出しに吠える。

「この、邪魔すんじゃねぇ!」

 痛む肩を叱咤し、ネラを引き抜き両手で構える。額と腹を撃ち抜かれたコウモリは、ガラスを引っ掻いたかのような悲鳴を上げて眼下へと落ちて行った。

『……と、フロスト聴こえる?』

「ミカ!? どうした、無事か」

『あたしは大丈夫……でも、視界が真っ暗になっちゃって、びっくりした』

 あはは、と力無く笑うミカ。視界が真っ暗になったということは、潜望鏡――ぺリスコープともいう。鏡による反射を利用した望遠鏡のようなもので、戦車の操縦士はこれを覗きながら運転をする――が破壊されたのか。だが、幼稚な虚無はそんなものの存在を知っているわけがない。

「――ッ、しまった」

『フロスト? どうしたの――』

 フロスト! と、心配そうに呼びかけるミカ。しかしフロストは答えなかったし、聴こえてもいなかった。喉頭マイクとヘッドフォンを外すと、ネラを片手に砲塔から飛び降りた。

「キュリ!」

 潜望鏡を破壊したのはキュリしか居ない。銃でなら、苦も無く離れた場所から狙撃することが出来る。だが、フロストの方が浅はかだった。

 飛びかかる虚無に邪魔をされ、キュリを探すのに手間取った。そして、見つけた時には既にキュリは大人しく立ちすくむ銀河号に登り、操縦席の出入り口のハッチに手をかけていたのだ。操縦席だけは他の席と違い、起き上るどころか少しの身動きさえも難しい筈。

 開けられてしまえば、ミカに逃げ場は無い。

「……罠にかかりましたわね、フロスト?」

 しかし、その全てがフロストの為に張り巡らせた策略だった。

 金色の銃口は、既にフロストを射程圏内に捕らえている。最初から、キュリの狙いはミカではなかった。ミカに危険が迫れば、自分の身がどうなろうとフロストは彼女を助けに行く。だから、わざわざ潜望鏡を狙撃して、ミカを狙っていると見せかけたのだ。

 フロストがキュリを見つけた時には、彼女は既に引き金に人差し指を引っ掛けていた。ネラはまだ、彼女を捕らえてはいない。

 間に合わない。フロストは完全に、キュリの策に落ちたのだ。美貌に氷の嘲笑を飾り、紅い唇が別れを紡ぐ。

「さようなら、フロスト」

 ――轟いた銃声は、一つだけだった。

「――――ッ!!」

 死に瀕した時、時間は物凄くゆっくりと流れることがあると聞いたことがある。確かに、とフロストは思った。キュリが引き金を絞ったのが、視界の中でちゃんと見えた。

 しかし、金色の銃口は無言を貫いた。

「……え!?」

 嘲笑から、動揺へ。キュリが突然のことに表情を歪めた時、フロストのネラが彼女を捕らえた。だが、疲労と苦痛に侵された両手では、足場の不安定さも相俟ってなかなか引き金を引くことが出来なかった。

「く、そ……」

 周りから音が消える。撃たれたのだろうか。いや、どうやら違うらしい。

 一瞬だけだが、痛みも消えた。鉛のようだった両腕は軽く、というより誰かに支えられているよう。ミカ? いや、そんな筈はない。

 感じるのは懐かしくて、大好きだった大きくて温かい手の感覚。

 ――よく頑張ったなフー、ありがとう――

「きゃああぁああ!!」

 ネラから放たれた弾丸は、寸分の狂いもなくキュリの腕を削いだ。金色の銃が投げ出され、雪の上へと静かに落ちる。

 フロストが雪上に降り立った時、全ての感覚が元に戻っていた。痛みに音、肌を叩く冷たさ。くらくらと揺れる視界に歯を食いしばり、バランスを崩したキュリに追い討ちをかける。

 連射される弾丸は、全て彼女の身体を穿った。避けることも防御することもしない、それ程までにキュリは恐慌状態に陥ってしまったようだ。

「い、いや……痛い。苦しい……醜い。こんな、こんな汚らしい身体はいや……」

 膝を折るように倒れ込み、撃たれた腕と腹をさすりながら震えるキュリ。そんな彼女が数歩先にある銃を見つけ、四つん這いでそれに手を伸ばすのを見逃すフロストではない。

 触れようとした手を撃ち、届かない場所まで蹴り飛ばす。勝敗は今、明らかとなった。

「……これで、終わりだな」

「いや……お願い、もう撃たないで。痛い……本当に痛いの」

 両手をつき、頭を下げ懇願する。

「銃は貴方にお返しします。そ、それに村にも手を出しません。誰も襲ったりしません」

「……それで?」

「貴方の前に、二度と姿を現さないと誓います。わたくしは、誰よりも美しくありたかっただけ。それだけが、わたくしの唯一の夢だった」

 美しい姿で、綺麗なものに囲まれて生きてみたいだけ。宝石やドレスや靴で、着飾ってみたかった。ぽろぽろと零れる女の儚く虚ろな夢を、フロストは黙って聞く。

「約束しますから、お願い……見逃して。許してください」

「……少し前の俺なら、虚無のことなんか絶対に許さなかった」

 ヒョウを奪った虚無を恨み、復讐の為だけに戦っていた自分なら、キュリの言葉をすくい上げることもせず引き金を引いていた。

「特にお前は親父を殺し、村の皆を傷付けた」

 復讐者であった自分なら、刺し違えてでもキュリを殺していた。でも、今は違う。

 ここに居るフロストは復讐者ではない。誰もが認める、戦士となったのだ。

「今の俺でも、やっぱりお前のことは許せない。虚無を見逃すことは出来ない」

「そ、そんな!?」

「私怨の為じゃない。戦士として、大切な誰かを護る為に。だから、お前の夢はここで終わらせる」

「お、お願い! 死ぬのはいや、助けて。お願いだから――」

 顔を上げたキュリの額に、銃口を突き付ける。恐怖に歪む表情。唇は引きつり、懇願は声にもならず風に攫われるだけ。

「お別れだ、キュリ」

「わたくし、わたくしは――」

 爆音。最後の言葉は、ネラの銃声にかき消された。ぐらりとキュリの上体が揺れ、冷たい雪の中へと崩れ落ちる。もう、許しを請う哀れな声は聞こえない。

 女の夢は、その身体と共に塵となり夜闇へと消える。いつの間にか、辺りに虚無の気配は無い。キュリが息絶えたことで、全ての虚無が散り散りに逃げ出したのだろう。

 ネラを背中のホルスターに収め、辺りを見回す。ふと、視界の端に雪に埋もれる金色を見つけた。

「ったく、飴玉なんかで散々待たせやがって。遅すぎるっつーの」

 歩み寄り、手を伸ばす。派手過ぎず、華奢な作りでありながら力強さを感じる金色のリヴォルヴァー。本当に綺麗な銃だ。キュリが固執したのもわかる。

 それが今、フロストの手の中にある。額に押し付けてみると、懐かしい暖かさを感じた。やっと、戻ってきてくれた。

「……お帰り、父さん」

 姿は見えないし、声も聞こえないけれど。確かに誰かが、自分の傍で笑った気がした。


「ふんっ、ぬぬぬ……こんのぉおおお!」

 何なのよ! 突然潜望鏡は見えなくなるし、フロストの声は聞こえなくなっちゃうし。流石に視界が利かない中で銀河号を運転したり、大砲を撃ったりなんか出来ない。状況を訊こうにも、ヘッドフォンからは応答が無い。

 こうなったら、と思ってこの状況。操縦席は狭くて、小柄なミカでも思う通りには動けない。出入り口のハッチを、脚でなんとかこじ開けようと試みたわけだがかなり難しい。でも内側から閉められたのだから、開けられない筈が無い。

「この……うぉりゃああぁあ!!」

 気合いを入れて、力を込めた両脚でひたすら押す。すると、少しずつだが分厚く重たいハッチが開き始めた。吹き込む夜色の空気は、なんだかやけに静かな気がする。

 半分程に開いたそこから、恐る恐る様子を伺う。銃声や悲鳴は聴こえない。虚無はどこに行ったのだろう。

 フロストは、無事だろうか。

「…………よーし」

 出来上がった隙間に身体をねじ込ませ、外に出る。白色の車体で足を滑らせないよう、慎重に降りる。

 外は思いの外穏やかで、やはり静かだった。あれほどまでに荒々しい戦いが繰り広げられていたとは思えない。嫌みな風に髪をくしゃくしゃにされながら、ミカは辺りを注意深く見渡す。

 そして、ようやく見慣れた真紅を見つけた。

「フロスト!」

 良かった、無事だった。大きくて長い車体の上を走り、雪面にジャンプで飛び降りる。

 滑らないように気をつけた筈なのに、何かを踏んづけてバランスを崩す。

 結果、前方に思いっきり転んだ。

「うきゃあぁ!?」

「……ミカ?」

「あう……冷たいよぉ」

 顔面が冷たい。打ち付けた鼻の頭をさすりながら、ミカは足元を見やる。一体、何を踏んでしまったのだろう。

「あ……」

 真っ白な雪に隠れて、最初はよくわからなかった。でも、見ればすぐにわかった。

「これ……」

「ああ、そんなところにあったのか」

 掘り返して、雪を払う。いつの間にか、随分疲れた様子のフロストが傍らに立っていた。純白の、ミカの両手の中でずしりと重さを主張する拳銃。

 踏んづけてしまったことは、黙っておこう。

「よかった。この戦車の下敷きになって、潰れてたかと思った」

 そう苦笑して、ミカから取り上げると右手でくるりと一回転させて太腿のホルスターに収めた。流れるような動作に思わず目を奪われていると、視界に眩しい光が煌めいた。

 金色のリヴォルヴァー。フロストの左手にあるそれが、今の穏やかな状況の全ての答えであった。

「……すごい。もしかして、あのオバサンに勝ったの!?」

「ん? ……ああ、そう」

「すごいすごーい! やったね、フロスト。お父さんの銃、取り返せたね。本当にすごいよ!」

 すごいすごいとはしゃぐミカ。だが、フロストの表情は妙に暗い。一体どうしたのだろう。

 ふと、鉄錆の臭いが鼻腔を撫でる。見れば、左肩から指先にかけて元の真紅とは全く違う紅があることに気が付いた。いつから負っていたのだろう、相当血も流れたし何より痛い筈。

「だ、だいじょうぶフロスト?」

「……何が?」

「その……肩の傷」

「……ああ、これか」

 まあ、なんとか。イマイチはっきりとしない返事。ミカの脳裏に、三日前の光景が思い出される。

 血だまりの中に倒れたフロストは、どれだけ呼んでも何も答えてくれなかった。もし、またそんなことになったら。得体の知れない恐怖が、ミカの肌をぞわりと撫でる。

 でも、違った。

「……ごめん」

「へ?」

 差し出された右手と、落ちてきた言葉。微妙に噛み合っていない二つに、ミカは思わず首を傾げる。

 そもそも、フロストが自ら謝ること自体が珍しいというのに。

「ど、どうしたの? あ、もしかしてさっきのこと?」

 ミカがフロストを見つけた時に、腹の中で轟々と燃えあがっていた怒り。ついさっきまで自らを省みない彼に苛立っていたのだが、こんなにぼろぼろになった幼馴染に今更説教を垂れるつもりは無い。

「いいよ、もう。あのオバサン倒してくれたし、あたしもやりすぎたから。今回は許してあげる」

「……ごめん」

「いや、だから――」

「父さん、もう生きていないみたいだ」

 用意していた言葉が、一瞬にして泡のように弾けて消えた。思考が真っ白になって、何も考えられなくなる。代わりに、フロストの思いが痛いほど感じられた。

「そっか……」

「ごめん……せっかく、今まで信じてくれていたのに」

 信じてくれていたのに。そう言うフロストの声が、小さく震えている。確かに、ミカは今までヒョウの死を信じてなんかいなかった。絶対に、いつかフロストの元に帰って来てくれると思っていた。

 それは、フロストがあの頃からずっと同じロリポップキャンディに執着しているのを見ていたから。単に好きだから、ということもあるだろうが。彼は今まで守ってきたのだ。

 ヒョウとの約束を、誰にも言わず頑なに信じて待っていたのだ。

「……そっか」

 もちろん、見つかったのは銃だけ。ヒョウの死を確実なものに出来る証拠ではない。でも、彼に諦めるななんて言葉は言えない。

 これ以上待たせるのは、あまりにも残酷すぎるから。

「…………そっか」

 村の大人達は、ヒョウの生死をあやふやな根拠で勝手に決めていた。でも、ミカはそれを間違いだとして譲らなかった。それを決めて良いのは、本人以外では息子であるフロストだけなのだ。

 だからフロストが決めたなら、ミカはもう何も言わない。差し出された手を握り、立ち上がって空いている手でコートや髪についた雪片を払う。

 そして、彼の手を離さないまま笑う。目頭が熱くて、溢れ出してくるものを堪えるのに必死で、上手く笑えているかどうかわからないけれど。

「……帰ろ? みんな、フロストのこと待ってるよ!」

 大きな手を引いて、ミカが言う。自分だけじゃない、村中が彼を心配していた。

 あ、でも銀河号は潜望鏡を取り替えない限り視界が真っ暗のままだ。それに肩を怪我している彼に、スノーモービルを運転させるわけにもいかない。

 またフロストに、指示を出して貰うしかないか。そんなことを色々と思案していると、不意にフロストが足を止めた。

「…………」

「……あ、あれ。どうしたの?」

 フロスト? と、ミカが振り返る。だが、彼の表情を伺うことは出来なかった。

 ――力強く腕を引かれて、視界を真紅が覆う。

「……え?」

 最初は、強烈な鉄錆の臭いしかミカにはわからなかった。一瞬、視界の紅がそうなのかと思った。

 すぐに違うと気が付くと、脳天から指先まで巡る血液が一気に沸騰した。頬をくすぐる銀色の髪に、耳にかかる熱い息。

「ちょっ、ええ!? ふ、ふふフロスト、フロスト?」

 背中に回る腕に、心臓が跳ねる。うそっ、何この状況!?

「フロスト……?」

 フロストは何も言わなかった。細い肩に顔を埋め、腕の中にミカを閉じ込めるだけ。

 自分の鼓動が、ばくばくとうるさい。突然のことにミカの身体が固まる。どうして、彼は何も言わないのだろうか。奔流のように激しく流れる思考の中で、それに気が付いたのは一体どれだけの時間が流れた後だったのだろう。

 フロストの肩が、僅かに震えている。ああ、何だそういうことか。

「……鼻水、付けないでよね」

「……お互い様だろ」

 やっと返ってきた憎まれ口。やっぱり、さっきはちゃんと笑えてなかったようだ。

「だって……だってさ」

 おずおずと、ミカの腕がフロストの背中に回る。思っていたより、大きくて逞しい背中だ。胸の中でそう呟いた時、堰を切ったかのように目から涙が溢れた。

 だって、あんまりじゃないか。

「ずっと……ずっと、待ってたのに」

 ぼろぼろと流れる涙は、もう止まらなかった。何の為に、今まで戦っていたのか。どんな思いで、あの家に居たのか。フロストは、今までこんなに頑張っていたのに。

 こんな結果、あんまりだ。

「う、ぇ……うわああぁん!」

 真紅のコートにしがみ付いて、ミカは声を上げて泣いた。フロストも、泣いていた。声は漏らさなかったし、涙も見せなかったけれど。

 あの夜から十三年。初めて、誰かに縋って泣いたのだ。頑なに隠していた弱さを見せてしまう程に、真実は冷たいものだったのだ。それが、とにかく悔しくて。やりきれなくて。ミカとフロストは、お互いに縋って思いっきり泣いた。

 たなびく雲を払い除け、再び顔を出した気まぐれな月が、淡い銀色の光と共にいつまでも二人を見守っていた。


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