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KRAMPUS  作者: 風嵐むげん
3/6

 トナカイは運命を感じることが出来る。


『カナ、俺はお前のトナカイだから』

『ユートくん……』

『約束する。俺がお前を護るから、だからカナ――』


「はあ……ユート、カッコイい……」

 うっとりしたように溜め息を吐くミカ。頬は赤らみ、熱っぽい目はテレビで向かい合う二人へ存分に注がれる。

 ユートは男のトナカイ。赤に近い茶髪に、ギラギラと雄々しく輝く黒の瞳。話題沸騰中のアイドルグループのリーダーで、演技も上手く歌と踊りも出来るという正に非の打ち所のないイケメンだ。

 カナは女のサンタクロース。緩く巻いた栗色の髪に、そばかすが目立つ童顔な少女は抜群の演技力で新人オーディションを勝ち抜いたという期待の若手女優。今のような大人しい村娘役からサイコな役まで幅広くこなす実力派だ。

 そんな二人が主演の『雪のカナタ』は、今をときめくティーンエイジャーに大人気の純愛系連続ドラマだ。再放送でも高視聴率を叩き出すこの作品は、来年にはスピンオフの映画も放映が決まっている。

「顔もカッコイいけどさぁ、何より……って、聞いてるの!?」

 フロスト! と、名前を呼ぶが返事は無く。ミカが振り返ると、そこには確かにその青年が居るのだが。

 ソファに細長い身体を投げ出して、目を閉じている。ていうか、寝てる。

「こっ、この……なんで『雪カナ』の前で寝られるかな……」

 ほっぺたをつねってやろうかと思ったが、止めた。ドラマは既にエンディングが流れている。ミカはテレビの音量を適当に下げて、改めて眠る幼なじみの顔を見やる。何気に久し振りに見た彼の寝顔は、いつもより随分幼く見える。

 そして不覚にも、胸がキュンとした。

――トナカイは運命を感じることが出来る。ドラマでユートが幼なじみのカナに言う決め台詞だが、それにはミカも激しく同意する。

 サンタクロースとトナカイ。二つの種族は生まれた時から違うのではない。母親から生まれた時はトナカイであっても枝角は無く、見た目は同じだ。実際にトナカイの角が生えてくるのは年齢が二桁に届く頃。それまでは親や医者、そして本人にも自分がどちらなのかがわからないのだ。

 学者を悩ませる永遠の謎。環境に影響されるという説もあれば、遺伝子によると唱える者も居る。けれど、ミカは思う。両者は、運命によって生まれた時に決められている。

 何故なら、ミカは物心がついた時には知っていたから。フロストはサンタクロースで、自分はトナカイになることを。

 ちなみに根拠は無い。

「なんでサンタクロースにはわかんないのかなぁ……このぉ、にぶちん!」

 寝ていることを良いことに、そんな悪態を投げてみる。微かに眉毛がぴくりと動いた。思えば、彼とは幼い頃からずっと一緒に居た。

 食べ物の好みや音楽の趣味、読む本の傾向など当たり前のように知っている。だから小難しい理由うんぬんの前に、ミカはこれからも彼と一緒に居たいのだ。

 でも、フロストは違う。同じくらいだった身長がどんどん高くなり、ミカに相談することなく一人暮らしを始めた。それから急にわからないことが増えてしまった。

 いつか、フロストはミカの前から居なくなってしまう。ヒョウのように、ある日忽然と姿を消してしまう。そんなことになったら、自分は一体どうすれば良いのだろうか。

「同じ幼なじみなのに……何でこんなに違うんだろ」

 もし、もしミカがサンタクロースでフロストがトナカイなら。ユートと同じように、フロストも強引に迫ってくれるのだろうか。

「……そんなフロストは、気持ちわるいなぁ」

 うん、気持ち悪い。ていうか怖い。ありえない。

 理想と現実は違う。それくらいミカにだってわかる。フロストがユートのように、運命を語ってくるわけがない。だからこれからもずっと、自分がフロストにくっ付いていかなければならない。

 見失わないように、一人でどこかに行ってしまわないように。

「あたしも戦えたらなぁ……やっぱり、アンナさんに銃を教えて貰おうかなぁ」

 サンタクロースとトナカイは二人で一人前。彼等の最大の生きがいはクリスマスであり、人間の子供にプレゼントを配ることだ。

 サンタクロースだけでは、広大な人間界で迷子になってしまう。トナカイだけでは、プレゼントを配ることが出来ない。だから両者は一緒でなければならない。

 だが、フロストは戦士として生きる道を選んだ。人間界に行かないのなら、トナカイは必要ない。だから、ミカと一緒に居る必要は無い。

「……もっと、頼ってくれてもいいのに」

 えいっ、と人差し指でフロストの頬をつつく。小さく唸ったが、起きる気配はない。それ程までに疲れているのだろう。

 やはりこのままではいけない。ちらりと、テーブルの上に置かれた拳銃を見やる。綺麗な銀色と、いかにも拳銃という感じの真っ黒な銃。どちらもホルスターに入ったまま、だらしなく放置してある。

 構えてみるだけなら、いいよね? ミカは一度フロストを見て、規則正しく胸が上下していることを確認する。そして恐る恐る、ブランシュと名前のついた白銀の拳銃に手を伸ばす。扱い方はよくわからないが、引き金に指をかけさえしなければ弾は飛び出して来ない、筈。

 使い込まれた皮のホルスターを指先が撫でる。その時だった。

 鳴り響く警報音。ミカにはそう聞こえたが、実際はただのドアチャイムである。来客を告げる無機質な音に、小さな身体が飛び上がった。

「うきゃああぁあ!!」

「なっ、何だ?」

 どうした、と寝ぼけ眼のフロスト。ソファから上体を起こし、すっかり腰を抜かしたミカを瑠璃の瞳が見下ろす。少々乱れた銀髪は、彼の無意識に撫でつける指に大人しく従うよう。

 寝癖一つに毎朝ドライヤーで戦わないといけないミカにとっては、羨ましすぎる髪の毛だ。

「……何だ、誰か来たのか?」

「えっ、あ……うん。そうみたい」

「めんどくせ……電気点いてるんだから、勝手に入ってくるだろ」

 ふわふわと欠伸をしながら、長い腕を伸ばして伸びをするフロスト。その隙に、ブランシュへと伸びていた手を戻して溜め息を吐く。

 怒られずに済んだのは助かったが、なかなかに無粋な客である。そんな闖入者は読み通り、「フロスト? 居るんだよな、入るぞー。入ってるぞー」と大声を張りながら入ってきた。

 この声は、トニさんだ。絨毯が敷かれているとはいえ、床に座り込んだままでは行儀が良いとはいえない。しかし立ち上がろうにも、脚に力が入らず動けそうにない。

「……つか、そんなところで何やってんだお前」

「なっ、なんでもないよ!」

「なんだ、居るんじゃないか。お、やっぱりさっきの奇声はミカか」

 こっちがびっくりしたよ。そう言って、トニは何でもないことのようにフロストの向かい、先程までミカが座っていたソファに腰をおろした。トニはミカの六つ上の二十四歳。昔からフロストとミカの良い兄貴分である。

「それで、俺に何の用だ? 暇潰しか?」

「違うって。実はついさっき発見されたんだけど、光のスピネルが粉々に壊されていたんだ」

 トニは言って、テーブルの上に何かを置いた。それは紛れもなく、村を護ってくれていた筈のスピネルの欠片だった。乳白色のそれは、手の平に収まってしまう程の大きさで。

 手に取って、フロストが溜め息を吐く。

「……寿命で砕けたわけじゃ、なさそうだな」

「フロスト……気を悪くしないでくれよ? スピネルを載せていた台座、わかるだろ? あれに、物凄い数の銃創があったんだ」

 さっきアンナを呼んで、確認させた。トニの言葉に、フロストよりも先にミカが口を開いた。

 カチンときた。跳ねるように立ち上がり、きっとトニを睨み付ける。急に動かしたものだから、脚の付け根から指の先までびりびりと電流が駆け抜けたが気にはならない。

「ちょっと、トニさん! なに、その言い方。さっきのことの八つ当たりにフロストがやったって言いたいの!?」

「い、いやそういうことじゃなくて――」

「フロストはそんなひどいことしないんだからっ! ね?」

 フロスト! いきり立って、ミカが傍らの幼なじみを振り返る。だが、当の本人は全く動じていないようで。いつの間にか、常にそうしているようにロリポップキャンディの包み紙を剥がしていた。

 ともすれば、その見た目と荒い口調で冷たい印象を与えかねないフロストであるが、実はお菓子好きのミカでさえ引く程に極度の甘党である。

 特に、四六時中持ち歩いているロリポップキャンディの消費量はもはや中毒のそれ。根底にある理由はミカも知っているものの、流石にこの状況で食べ始めるのはいかがなものか。

「……フロスト、聞いてるの?」

「聞いてる」

「だったら――」

「トニ、その銃創は俺の銃のものじゃない。アンナがそう言ってたんだろ?」

「あ、ああ。そう、そうなんだよ」

 正確には、テーブルの上にあるブランシュとネラのものではない。アンナははっきりそう言ってみせたらしい。そういえば、昼頃に彼女の店に行った時に見た、あの異常な執着心。銃の創くらい、彼女なら簡単に見分けられるのかもしれない。

 ミカにはオートマチックとリヴォルヴァーを見分けるのが精一杯なのだが。とりあえず、フロストの容疑が晴れたようなので、大人しく彼の横に座ることにした。傍らから、飴玉の甘い匂いがする。

「ま、コイツら以外の銃を使ったっていう可能性もあるんだろうけどな」

「いや、それもアンナは否定してた。フロストなら、こんな下手くそな練習みたいな撃ち方はしないって」

 オレには全然わからないんだけどな。トニが困ったように笑う。もちろんミカにもわからない。

 それよりも、早急に取り組まなければならない問題がある。

「で、でもどうするの!? もう日が暮れちゃってるよ!」

「そう、そこが一番の問題なんだよ。見ての通り、結界は全く使い物にならない。日が落ちた以上、下手に動くことも出来ないんだ」

「村長は何て言ってたんだ? ……なんて、訊くだけ無駄か」

 不意に、フロストが何かを手渡してきた。見ると、それは小さな破片と化したスピネルの欠片だ。真珠のように輝いていて綺麗だが、先の方が少々尖っていて危ない。

「アンナはどうするって?」

「へ? ああ……えっと、一旦出直して『彼氏達』連れてくるとかなんとか」

「わかった。トニ、あんたは今すぐ家に帰れ。それから、今外出しているヤツも全員家に帰るよう言ってくれ」

 虚無は光を嫌う。それは同時に、夜を好むということだ。夜を好む獣達が、この機を逃さないわけがない。

 セーターの下で肌が粟立つ。これは、本当に危機的状況なのではないか?

「ま、待てよフロスト! 村長は、お前に戦わせるわけにはいかないって――」

「アンナだけに任せるわけにもいかねぇだろ。それに、村の中で見回るだけだ。戦闘になるとは限らねえだろ」

 備えておいて損は無い。村長はフロストに戦士失格と言ってしまった以上、それを撤回するまでは彼に戦わせるつもりは無いのだろう。しかし、今は緊急事態だ。フロストに頼らないわけにはいかない。

 でも、嫌な予感がする。氷のように冷たい手が首筋を撫でるかのような、そんなおぞましい感覚。

「ミカ、お前も今の内に帰れ。送ってやるから」

「……え?」

「俺は留守にするんだから、一人で居るわけにもいかねぇだろ? つか、七時までって言ってたよな?」

 ふと、壁の時計を見やると、針は丁度六時半を示していた。昼間というには遅すぎるが、夜というにはまだ早い。そんな微妙な時間帯。

 あれ、と思う。

「……もしかして、徹夜するの?」

「そうなるな」

「ええ!? そんなのダメだよ!」

 昼間も虚無を退治していたと言うのだから、フロストは相当疲れている筈。増してやこれから徹夜させるだなんて、もってのほかだ。

 しかも、まだ夕飯だって食べていないじゃないか!

「駄目って……あのな、俺が寝てる間にお前の頭上に虚無が居たらどうすんだよ。噛まれるだけじゃ済まねぇぞ」

「じゃ、じゃあせめてご飯食べなよ! そうだ、ウチで食べなよ。どうせお母さん、また食べきれないくらいいっぱい作ってるんだからさ?」

 ね? ね? と食い下がるミカ。たとえフロストが一人暮らしを始めても、ミカの家族はいつでも彼が帰ってきて良いように準備している。

 ミカやトニだけではない、彼を心配している者はこの村には沢山居る。

「……悪いけど、そんな暇ねぇから」

 フロストは既にホルスターから銃を引き抜き、弾倉を外したり色々な点検をしていた。いざ虚無が絡んでむと、自分のことなど全て蔑ろにしてしまう。

 そんな彼のことを、寧ろ一体誰が無関心で居られるというのか。

「でも、何か食べないと身体に悪いよ?」

「いらねぇ」

「そ、そんなぁ……」

 つくづく、なんて自分は無力なんだ。ずっと一緒に居た筈なのに、彼の為に何をしてあげれば良いかわからない。

 やっぱり、フロストにはあたしなんて必要ないのかなぁ。

「…………あー、でも」

「え?」

「明日。朝……なら、寄ってやってもいいけど」

 徹夜した後で、自分の家に帰って朝飯作るのもしんどいし。とか何とか言って、何故かバツが悪そうに髪をわしゃわしゃと掻くフロスト。無意味に上から目線で、小憎たらしい言葉遣い。

 それでも、ミカの表情を一変させるには充分だった。

「う、うん! じゃあ、お母さんに言っておくね?」

「いやー、二人ってほんっとうに仲良いよなぁ?」

 見れば、にやにやとイヤらしく笑うトニ。昼間に見た、大人達と同じ顔だ。

「あ? 馬鹿か、何言ってんだよ!?」

「いやいや、皆言ってたけどさぁ? やっぱりほら、お前達お似合いだからさ。結婚とか――」

「わかった。お前が虚無に食われても、俺は村長の言うとおりにする。何もしねぇ、つかじっくり見学する」

「ええ!? そ、そんなこと言うなよフロスト。な? お兄さんのジョークだって!」

 だからそんなこと言うなよ、フロストおぉ! 情けない声で縋るトニと、それを軽くあしらうフロスト。そんな二人がおかしくて、ミカは思わず笑い声を上げた。

 

 トニを送ってからしばらく。ミカをスノーモービルに乗せ、彼女の家まで送る。

 玄関の前に乗り付け、フロストはそのままミカが降りるのを待つ。家を出てからここまで、ほとんど口を開かなかった彼女に言葉をかける。

「何だよ、その顔。そんなに心配する必要はねぇって」

「でも……」

 今にも泣き出しそうな顔で、俯くその頭を軽く叩くように撫でてやる。

「俺が信用出来ないか?」

「そ、そんなことないよ!」

「なら、とっとと帰って寝とけ。お子様は早く寝ねぇと、背が伸びねぇぞ」

「ぬぁっ、なんですってぇ!?」

 子供扱いしないでよねっ、フロストのばか! 口の中に胡桃をたらふく溜め込んだリスのように、頬をパンパンにさせて家の中に飛び込む後ろ姿を見送る。蝶番が軋む、甲高い金属音。

 扉が閉まるのを確認して、スノーモービルのハンドルをきり向きを反転させる。

 ふと、視界に入る金。締め切られた家々から漏れる僅かな明かりでも、波打つ髪は艶やかに煌めく。

「おや、フロスト? 家に居ないと思ったら、彼女の家の前で堂々と不純異性交遊かい?」

「……そんな言葉、久し振りに聞いた」

 幌を張ったからトラックから降りるアンナを見て、胸中でそう呟いてみる。実際、彼女とは長い上に濃い付き合いだが、本当の年齢はわからない。

「聞いたかい? スピネルの話」

「ああ。粉々に砕け散ってたって?」

「そ。だから、私とあんたで今夜はオールよ」

 久し振りだから腕が鳴るわぁ! ガチャガチャと騒がしく、の助手席部分をアンナが探る。そこには、フロストの見た覚えのない銃器の数々が見え隠れしている。

 ショットガンにマシンガン。グレネードランチャーに狙撃用スコープのついたライフル。何に使うのか、固定式のプラスチック爆弾まで荷台の片隅で居心地悪そうに埋もれている。

「……一人で戦争でもする気か?」

「うふふ、最近手に入れた彼氏達よ? 丁度良い機会だから、まとめて試し撃ちしようかと思ってね」

 アンナが楽しそうに笑いながら自動小銃を背中に担ぎ、次いでライフルを手に取りスコープを覗き調節する。村長の屋敷であるこの丘からならば村が一望出来、暗視スコープの付いたライフルならばかなりの範囲の狙撃が出来るだろう。

 そう、解釈しておくことにした。

「あんたもどう? たまにはほら、機関銃とか。新たな快感に目覚めるかもよ?」

「いや……遠慮する」

「あらそう? やっぱり一途ねぇ、お姉さん妬けちゃうわ。あれ、でもそうすると……あんたって常に二股かけてることになるのよね?」

 やだ、とんだアバズレだわ。彼氏、もとい銃器で思う存分遊べるという高揚感からか、いつも以上に饒舌で鬱陶しい。

 いくら威力があるとわかっていても、使い慣れない武器を試す気にはなれない。ここは広大な雪原ではなく、家や店が並ぶ村の中なのだ。いつも通り、太腿と背中に吊った二丁で充分だろう。

「まあ、好きにすれば良いけど。夢中になりすぎて、火事とか起こすなよ」

「この私がそんな間抜けなこと、するわけないでしょ? ところで、作戦どうする?」

「作戦?」

「二人一緒に張り込むか、バラけるかってことよ」

 二人で待機するなら、お互いに相手をフォローすることが出来る。しかし効率が良いのは圧倒的に二手に分かれる方だ。

「バラけた方が良いだろ。敵がどこから仕掛けてくるかわからねぇし、スノーモービルとジープがあるんなら移動にそんな時間かかんねぇだろ」

「決まりだね。ま、あんたならそう言うと思ってたよ」

 苦い笑みで口元を飾ると、アンナが再び助手席に詰め込んだ銃器の山を漁る。そして、フロストに背を向けたまま何かを此方に投げてよこした。

 緩やかな弧を描き、難なくフロストの手に納まる。手の平ですっぽり覆えてしまう程小さなそれは、くすんだ銀色の小型リヴォルヴァーだ。銃身は短く、どちらかというと護身用だろう。

「何だ、これ」

「花火さ」

「花火?」

「信号弾ってやつ。どっちかがヤバくなった時、相手に知らせるような合図が必要だろ?」

 なる程、ちゃんと役立ちそうなものも用意していたらしい。フロストのコートならば袖にも仕込めそうだが、面倒なので腰のベルトに引っ掛けておくことにした。

 多分、自分は使わないだろうけど。

「そういえば、聞いたわよ? フロスト、あんた村長に戦士失格って言われたんだって?」

「げ、何でテメェが知ってるんだよ」

「さっき、丁度会ったからさ。……ふふっ、あんたさぁ。なんで失格、なんて言われたかわかってるの?」

 長い髪を一つに纏め、高く結い上げながらアンナが問う。今更になって思い出した。

「はあ? んなこと知るかよ」

 どうせ、まだ未成年のガキだからとか、世間知らずだからとかくだらない理由だろう。知ったことではない。

 そう、大人達の言い分なんか、どうでも良いし関係ない。

「あらあら。反抗期かい?」

「違ぇよ。子供扱いすんな」

「ねぇフロスト。あんた……何で戦士になったの?」

 突拍子も無いその問い掛けに、思わず戸惑ってしまう。何を、今になって。

「決まってんだろ。虚無を殺すため、あいつらを滅ぼすためだ」

 親父の、ヒョウの敵討ちとかそういう大儀な理由ではない。ただ、この胸の奥から噴き上がる灼熱の憎悪を一瞬でも癒やしてくれるのは、虚無が塵に還る時だけ。

 この両手が虚無を殺した、その証だけなのだ。

「復讐、ってやつかい?」

「そんなんじゃねぇよ」

「私がとやかく説教する筋合いは無いんだけど……あのさぁ、フロスト」

 赤茶色の瞳が真っ直ぐフロストを見据える。珍しく、真面目な様子のアンナに思わず狼狽えてしまう。

「な、なんだよ?」

「あんたは確かに強いよ。もう私が教えられることなんか何もないし、軍人だろうが同世代であんた程戦えるヤツなんか居ないと思う。でも、それだけじゃダメなんだ」

 いいかい? アンナが続ける。

「腕が一流でも、銃が名品でもダメなんだ。それだけじゃ、今のままじゃ長くは保たない」

「はあ? 一体、何が言いてぇんだよ」

「大事なのは、気がつくことさ。私はあんたを高く買っているよ、だから銃を教えてやった。……今言えるのは、これくらいだね」

 意味がわからなかった。気がつくこととは、一体何だろうか。銃があれば、力があれば虚無になんか負けやしない。

 それが絶対なのに、どうして大人達は自分を肯定しないのか。今では虚無や結界を破壊した何者かより、意味のわからないことばかり言って抑えつける村の大人の方が、フロストにとって煩わしい対象となっていた。

「……意味わかんねぇし。とにかく、この辺りは任せたから」

 声を荒げて拒絶する程、フロストは幼稚ではないが。自分の憤りを押し隠して話を続けられる程、大人でもない。アンナの返事を待たずに、フロストはスノーモービルに乗って、そのまま村の中心部へと下って行った。

 ふと、思う。もし今、自分の傍にヒョウが居たら? この苛立ちを理解して、フロストに必要な答えをくれるだろうか。もしくは、村の大人達と一緒で意味不明な説教しかしないだろうか。

「戦士……か」

 緩やかにスノーモービルを走らせながら、やがて自然に零れた呟き。大人達は、よくヒョウの賛辞を口にしていた。あいつは良い戦士だった。フロストの前では意識していたのだろうが、密かに交わされる言葉を知らない筈がない。

 そんなに強い男だっただろうか。ヒョウが居なくなったのは、フロストが五歳の頃。今の彼と同じように真紅のコートを翻し、純白のマフラーを風に靡かせていた。違うのは二丁拳銃ではなく、一丁のリヴォルヴァーで戦っていたことだけ。

 大人達の中には、フロストは既にヒョウを超えたと言う者も居る。だが、戦士としてフロストを讃えた者は居ない。一体、何が違うのだろうか。

「……意味、わかんねぇ」

 とりあえず、今は目先の仕事をこなすだけ。この仕事を無事に終えれば、大人達だって何も文句は無いだろう。村の出入り口に差し掛かった辺りでスノーモービルを停め、センタースタンドで固定する。

 今夜は光を絶やさないように、と知らせがあったのだろう。どの家の窓からも煌々と明かりが漏れていて、夜にしては辺りは随分明るい。人工的な電気の光が、虚無に対してどれだけ有効かはわからないが。

 屋根から崩れる雪の鈍い音が、やけに大きく聴こえる。村を覆う不気味な静寂。空は曇っているが、何も降ってはいない。それでも、冷え込んだ夜気は鋭く身を裂くよう。

 吐く息は白く、じっとしていると分厚いブーツの底から冷気が伝わり全身が冷え切ってしまう。指がかじかんで、銃が撃てないなんてことがないよう、握ったり開いたりしながらその場を歩く。濃厚な静寂は、フロストの中にあった疑問や苛立ちを押し潰してしまう。

 不意に、自分のもの以外の足音が鼓膜に触れた。

「……あ?」

 誰だろうか。少々高く積もった雪の中を、ざくざくと歩く気配が一つ。野生の獣でも、虚無のものでもない。

 こんな時間に、誰だろうか。その人物は村の外からやってきたので、村の明かりだけでは特定するのは難しい。

「おい、あんた――」

 誰だ? と、暢気に訊いてしまったことをフロストは悔いた。反射的にその場から跳び、太腿のブランシュを引き抜く。

 同時に、闇の中からまるで鞭のようにしなやかな腕が飛び出してきた。咄嗟に空いている左腕で顔面を庇うも、強烈な衝撃でフロストの身体がなぎ払われてしまった。

「なっ、ぐあぁ!?」

 なんとか無様に転げる醜態だけは避けられたが。身を捻り、地面に片膝をつき闇の中の敵を睨む。幸いにも、ブランシュは未だフロストの手にある。ネラは背中に吊ったまま、先程アンナに渡されたリヴォルヴァーもベルトに引っ掛かったままだ。

「キュリ様、このサンタクロースがフロスト・ヒューティア。我々の同朋を蹂躙した、憎き戦士です」

「あら、どんなに屈強な殿方なのかと思えば。ふふふっ、まだこんなに可愛い坊やでしたのね?」

 地面を這うような、低い声。それと、ねっとりと甘ったるい猫なで声。痛みに揺らぐ視界が、ようやくその二人を捕らえる。

 否、フロストに見えるのは一人だけだ。腰をうつ髪はビロードのように滑らかで、ふとすれば吸い込まれそうなまでの漆黒。肌は真珠のようで、唇には鮮やかで蠱惑的な紅。

 氷点下を軽く下回っている気温の中、身に纏うのは深いスリットの入ったドレスにもこもことした毛皮のストール。そして、およそ雪道を歩くには不向きな踵の高いヒールだけ。パーティー会場でも無いというのに、度が過ぎた派手な格好。

「テメェ……まさか、虚無か?」

 油断した。立ち上がり、背中に吊ったネラを引き抜き相手を睨みつける。だが、無理もない。フロストの目の前に居る女は、今までに見たことのない姿であったから。否、ヒトの形をしたものならばさほど珍しくは無い。

 しかし、この虚無は別格である。髪は黒く、瞳は血の紅。それでも他の虚無とは違い、肌は白く衣服や靴を身に付けてる。女優のような美貌は、醜悪な闇の獣とはかけ離れている。項に冷たい舌を這わされているような気味の悪い感覚は狂気の塊だというのに。

 こんな虚無は、見たことがない。

「うふふ、そうよ。初めまして、わたくしはキュリ」

「キュリ……」

 名前を持つ虚無など、聞いたことが無い。だが、わかることが一つだけある。

 一瞬でも気を抜けば、殺される。

「フロスト……いいわ。あなた、とても可愛いお顔立ちをしているのね? わたくしの眷属に加えて、毎日愛でて差し上げたいわ」

「くそ、胸糞悪いこと言いやがる」

「ねえ、スイもそうは思わない?」

 首を傾げ、キュリが夜闇に問う。すると、今まで何も無かったはずのそこから、ずるりと太い触手のようなものが姿を現した。先ほどフロストをなぎ払った鞭は、どうやらこれだったらしい。

 触手は一点に集まり、真黒な球体となる。そして二つの翼となり、やがて漆黒のフクロウとなりキュリの腕に優雅に止まった。

 紅蓮の双眼が、静かに此方を見据える。

「成る程、キュリ様の仰る通りです。戦士の肉体を手に入れられれば、此方にとって非常に有利な状況となります」

「違うわよ、ペットとして飼い慣らしますの」

 自分を睨む二丁の拳銃に全く怯む様子もなく、キュリはまるで新しいドレスを品定めすりかのように見つめる。

「ねえフロスト、どうかしら? あなたはわたくしの従順な犬になるの。その真っ赤なコート、とてもよく似合っているから、同じ色の首輪をはめて差し上げるわ――」

 一発の銃声が村に轟く。キュリの頬伝うのは、真っ赤な滴などではなく。墨のような黒い液体が傷口から零れ、塵となり夜風に攫われた。その頃には既に、傷口は跡形も無く消えていた。

 傍らのフクロウが慌てたように羽をばたつかせるが、フロストに襲い掛かってくる様子は無い。

「……そういう変態思考は大っ嫌いだ。虫唾が走る」

「あら、生意気。躾のしがいがありますわね?」

 恐らく、今の銃声で村中に、少なくともアンナにはキュリ達の存在を知らせることが出来ただろう。彼女は夜中でも関係なく狙撃出来る装備を準備をしていた。援護は期待できなくても、暗視スコープで此方の状況を把握してくれれば良い。

 信号弾は絶対に使わないという意思を解してくれればいい。こいつは、自分の獲物だ。

「キュリ様、大丈夫ですか?」

「ええ。なんてことないわ」

 今の一発はあえて外した。やろうと思えば、この距離だ。額に弾丸を放つことも出来た。だが、フロストの思考には引っかかるものがあった。

「テメェは、何でそんなに『ヒト』に近い格好をしていやがるんだ?」

「綺麗でしょう? 人間界で今話題の人気ピアニストを真似してみましたの」

 口元に手をあて、くすくすとキュリが笑う。違う、フロストの知りたいことは、もっと根本的なことだ。

「違う……俺が訊きたいのは――」

「サンタクロースをお一人と、トナカイを何人か頂きましたが」

 それが何か? 目を細め、優美な微笑み。まるで心を読まれたかのように、キュリは明快に答えてみせた。刹那、呼吸が出来なくなる。

 頂きました、ということは――

「喰ったのか……サンタクロースを?」

「ご存じでいらっしゃらないの? サンタクロースとトナカイには、虚無には無い不思議な力がありますの。わたくし達はそれに焦がれ、取り込むことで貴方達と同じになりますのよ」

 最も、とキュリ。

「人間の負の感情から生まれたわたくし達には、人間の記憶や情報の欠片が少しだけ混ざっている場合があります。わたくしの中にも、この姿の元となった女の情報がありました。この女、姿は美麗でも性格がねじ曲がっていたようでしてよ?」

 どうしてキュリが人間の女の姿をしているのかはわかった。虚無がサンタクロースやトナカイを狙う理由と、その結果をこの目で確認することが出来た。でも、それらもフロストの本当に訊きたいことではない。

 だが、もう訊く気も失せた。苦々しい嫌悪で吐き気さえ感じる。

「……もう、いい」

「あら、わたくしはまだ貴方とお喋りしていたくてよ?」

「テメェが虚無なら、俺がやることは一つ。お気に入りらしいその身体、ブチ抜いて跡形もなく消し飛ばしてやるよ」

 言い終わるや否や、ブランシュとネラが同時に火を噴いた。しかしキュリはそれを軽々と右に避け、何でも無いことのように黒髪を払う。

 瞬時にフロストがネラをキュリに向けるが、今度は発砲出来なかった。再び襲い掛かる闇色の鞭に、身を屈めて避ける。今度はくらってやるつもりは無いし、動きも読めた。

「はっ、のろいんだよ!!」

 ぎゃっ、と短い悲鳴。ブランシュから放たれた弾丸が、鞭となっていたスイの身体を両断した。再びフクロウの姿となった様子を見ると、致命傷を与えることは出来なかったようではあるが。

 半分ほどに欠けた左翼。ふらふらと羽ばたくスイは、格段に動きが鈍った。知能から見て長くは生きているようだが、所詮は雑魚。フロストの敵ではない。

「ぐっ、この……サンタクロース風情が」

「まずは、テメェからだな」

 死ね。スイの丸い腹を食い荒らさんと、ブランシュが睨みつける。スイ! とキュリが叫ぶのを視界の端で捕らえた。

 ――寒々しい夜闇に、爆音が轟く。

「――――ッ!!」

 投げ出されたブランシュは、雪の中に深く埋もれてしまう。舌を噛まなかったのは幸いか。右腕を駆け抜ける激痛に、フロストは思わず呻いた。

 灼熱の痛みと共に、溢れ出す血潮。コートを破き、皮膚と肉を少々削いだそれは、フロストの知らない音と共に放たれた。もしや、アンナが狙撃に失敗したのか。否、彼女がそんなヘマをする筈がない。

 それに、視線が捕らえたのは闇の中でも鮮やかに輝く金色。幼い頃の記憶に今も煌めいている、あのリヴォルヴァー。

 ――ごめんな。大丈夫、すぐに帰ってるよ――

「な……何で、テメェがそれを?」

「やはり、動いている的に当てるのは難しいのね。たくさん練習をしたつもりなのに、その忌々しい腕を吹き飛ばすことは出来なかった」

 頼りない羽ばたきで、しかしなんとかスイがキュリの元まで飛ぶ。右手で銃を向けたまま、左腕を軽くあげフクロウを止まらせてやる。

「キュリ様……申し訳ありません」

「手強いとは聞いていたけど、貴方がかなわないとは……でも構わなくてよ」

 キュリはその銃をフロストに向けたまま、スイににこりと微笑む。

「この坊やはわたくしが引き受けるわ。じわじわといたぶって、跪かせて靴を舐めさせてさしあげる。貴方はあそこに居る、小賢しい女のトナカイを仕留めてきなさい。幼い虚無なら、いくらでも使ってよくてよ」

「亡骸は如何しましょう?」

「貴方の好きになさい。わたくし、女には興味無いもの」

「畏まりました」

 はっ、と気が付いた時にはもう遅かった。古い記憶に囚われていた思考を無理矢理引き戻す。しかしスイは既に、闇の中へと飛び去っていた。フロストが慌てて探すも痛みに邪魔をされ、またフクロウの特性である無音の羽ばたきがスイを助けた。

「なっ、待て!」

 叫びは虚しく、再び轟いた爆音に掻き消され。地面を蹴り、後ろに跳んで銃弾を避ける。次の瞬間、今までフロストが居た場所に紅蓮の火柱が上がる。

 一瞬にして積雪を抉る炎。火のスピネルの弾丸だろう。思わず面食らうフロストを、くすりとキュリが笑う。

「ふふっ、わたくしも貴方と同じような玩具を持っていますのよ? 流石に、予想なんか出来ていなかったようですね」

「……その銃、どこで手に入れたんだ?」

 脈動する痛み。だが、そんなことに構ってはいられない。あの銃は、フロストの中で様々な思いが駆け巡る。

 間違いない。あれは、ヒョウの銃だ。

「……その銃は、十年以上前にとあるサンタクロースが持っていたものだ。どうしてテメェなんかが持っていやがるんだ?」

「さあ、よく覚えていませんわ。イイ女は、昔のことなんか振り返らないものですのよ。昔の男より、今の生意気な坊や。当たり前でしょう?」

 蓮根型の弾倉を回して、キュリが銃を向ける。金色のリヴォルヴァーが、フロストを睨む。

 ――父さん、この村で一番強いからな。クリスマスの邪魔をする悪者なんか、ギッタギタに懲らしめてやるさ――

「ッ……!!」

 思い出される記憶。思い出さないようにしていたのに、鍵をかけて閉じ込めていた筈なのに。フロストは完全に動揺していた。

 指先から、すっかり冷めた紅い雫がぽたりと落ちる。

「あら、先ほどまでの威勢はどうなさったの? ああ……まさか、怖じ気づいてしまったのかしら。無理もないですわ、サンタクロースとトナカイを糧とした虚無に会ったのは初めてなのでしょう?」

 可愛らしいわ。キュリが続ける。

「初めてがわたくしだなんて、貴方は幸運ですわ。わたくし、殿方の苦痛や屈辱に歪む表情が大好きですの。フロスト、貴方はもはや蜘蛛の巣に捕らわれた哀れな蝶。その美しい羽根を一枚一枚千切って、じわじわと虐めてさしあげますわ」

 凄絶な美貌に、氷の微笑み。フロストは、ブランシュが落ちた辺りの雪を見やる。大型のオートマチックは、白銀という色彩であることもあいまって、夜闇の中を目で探すことは難しい。

 それに、負傷した右腕。傷は深くはないが、まるで指先まで弱い電流が流れているような感覚。ブランシュを取り戻せたとしても、まともに撃つことなんか出来ないだろう。

 それが、どうした?

「……言いてぇことは、それだけか?」

「え?」

 キュリの表情が歪む。いや、歪んだのかさえ見えなかった。ネラから放たれる数多の弾丸。ブランシュ程の威力を持ってはいないが、ネラには一度引き金を引けばそのまま、弾倉のスピネルが尽きるまで撃ち続けることが出来る。

「なっ!?」

 やはり、リヴォルヴァーしか使って来なかったキュリは知らないのだろう。否、知っているのかもしれないが、銃に関してならフロストの方がずっと上手らしい。

 左手を変形させ、漆黒の盾を作り出し自身を護る。傍目にはフロストの攻撃は全て弾かれていて、キュリには全く効いていないように見える。だが、無意味ではない。

「俺は蝶でテメェは蜘蛛、か。蝶ってのは気に入らねぇが……蜘蛛ってのは当たってるな」

 引き金から指を離して、フロストが嗤う。弾幕が止んだ途端、すぐに腕の変形を解くと、再び女のほっそりとした腕を作ってみせた。あれだけの銃弾を浴びておいて、瑞々しい肌には爪で引っ掻いたような僅かな傷しか残っていない。それもまた、何事も無かったかのように消えてしまう。

 フロストは確信した。虚無という獣は、自身の能力が高まれば高まる程、何らかの物事に固執する傾向を持つ。例えば、このキュリという女。

 会ったその瞬間から、フロストに直接的な攻撃は一切仕掛けてこない。

「……いけない坊や。女の身体は命であると同時に武器でもありますのよ?」

「今まさに敵に喰われそうなのに、無抵抗な獲物はどこにも居ねぇよ。……でも、今の姿はなかなか良かったぜ? 蜘蛛っぽくて、醜いブッサイクな姿だ」

 ぴくりと、キュリの頬が引きつる。彼女の執着心はどこにあるのか、これで証明された。

「……何ですって」

「蜘蛛はどれだけ蝶を喰ったって、蝶にはなれないんだよ。テメェはサンタクロースを何人喰おうが、真っ黒でカビ臭い虚無のまま、汚いツラで俺に殺される。不細工に相応しいシナリオだろ?」

 爆音が数発。弾道はフロストを大きく外れる。避ける必要も無い程だ。

 ふるふると震える眩い銃口。見れば、氷の美貌は憤怒によって歪んでいる。紅い双眼は見開かれ、真っ赤な唇は喰い千切らんとばかりに噛み締められている。

 そう、キュリが執着することは彼女自身の美しさなのだ。攻撃をスイに任せたり、銃に頼ったのもそれが原因。虚無は個体によって多彩な攻撃を見せるが、共通する点はいくつもある。自身の身体を変形させることは、その中の一つ。

 わざわざ綺麗に着飾った姿を崩すなんて、彼女の美意識が堪えられないのだろう。フロストの放った暴言に、キュリは完全に正気を失っていた。

「許さない……こんな屈辱、どうしてわたくしが……絶対に、許さない!!」

 がむしゃらに撃ち込まれる弾丸を、フロストは全て見極める。怒り狂った単純な弾道など簡単に避けられる。

 正気を無くした獣ほど単純なものはない。キュリとは逆に、暴言と共に苛立ちを吐き出したことで冷静さを取り戻したフロストは、攻撃を避けながら的確に狙いを定めて撃ち込む。やはり弾かれたり、すぐに修復されてしまう。

 それでも確実に、キュリの体力は消耗させている筈。

「貴方には痛い目を見ていただくわ、フロスト。そして、わたくしの足元に跪いて許しを請うの」

「残念だが俺は蝶でも犬でもねぇ。テメェ達虚無に絶望を贈り、蹂躙する――」

 サンタクロースだ。口元に嘲笑を飾り、引き金を引く。右手は依然力が入らないが、構いやしない。

 フロストの願いは、ただ一つ。

「とっととその銃を返して貰うぜ。テメェを、殺してな」


 夕食を食べ終えてからしばらく。ミカは自分の部屋に戻ることをせず、家族皆が居るリビングに留まっていた。柔らかいソファに腰を下ろし、部屋から持ってきた雑誌を何やら熱心に読んでいる。

 ミカは村で一番大きいこの屋敷で、三人の家族と共に住んでいる。村長であるおじいちゃんのサンは、暖炉の前のロッキングチェアがお気に入り。目を瞑っているが、うたた寝しているわけでは無いらしい。

 お母さんのカティは夕食の後始末中。台所から聴こえてくる水の音に、手伝ってあげれば良かったとちょっと後悔。

 そしてお父さんのライノ。先程から何やら落ち着かない様子。ミカの隣で新聞を広げたかと思えば、テレビのチャンネルを変えたり自室に行って読みかけの文庫本を取りに行ったり。今は文庫本をテーブルに置いて、何をすることもなく室内をうろうろしている。

 落ち着きなよ。心の中だけで呟いてみる。実は最近、この父親と話しをする時間がめっきり減った。理由は無い。なんとなく、嫌なだけ。

 近頃また膨らんできたお腹。たるむ二重顎に、髪の薄くなってきた頭。はっきり言って、カッコ悪い。お母さんはミカと一緒にファッション雑誌を読んだり、毎日化粧をしたり体重計に乗ったりと日々気を使っている。歳相応に見えない綺麗なお母さんがミカは好きだ。

 それなのに、とまたチラ見。男という生き物は、歳をとったら誰しもがこうなるのだろうか。村の大人達を思い浮かべた中に、ふと現れるあの幼なじみ。まさか、彼も?

「それは……やだなぁ」

 ぽつりと呟く。いやいや待てよ。記憶の片隅に残る、彼の父親。よくミカやフロストにキャンディをくれたヒョウは、背も高くスラリとしていてカッコ良かった。

 どうしようもない親バカではあったらしいが。

「な、何だ。どうした、ミカ?」

「な、なんでもないよ!」

 不意に、ライノと目が合ってしまう。ミカは慌てて視線を雑誌に落とす。思えば久しぶりの会話だった気がするが、続ける気はない。

 改めて、ぱらぱらとページを捲る。彼女が今読んでいる雑誌は、ティーンの女子に根強い人気を誇る『月刊ソレイユ』だ。最新のファッションから、ユーモア溢れる小ネタまで幅広い情報を取り扱っていて、田舎村に住むミカには非常に刺激的な娯楽である。

 人気モデルのお気に入りアイテムや、洋服の着回し術。数あるお洒落情報の中に、最近ミカが一番気になっているものがある。トナカイは頭にある立派な角により、髪型や帽子などがかなり限定されてしまう。

 けれども、トナカイ女子には彼女達特有のお洒落がある。

「……いいなぁ、これ」

 うっとりと見つめるミカ。彼女の視線を奪うものは、眩いばかりのアクセサリーの数々。特に、トナカイの角につける『アンクルカフ』はミカが今一番欲しいものだ。

 都会の女の子にはポピュラーなアクセサリーで、様々な種類がある。テレビで売れっ子のアイドルは、カラフルなラインストーンで自己流にデコレーションしてある。セレブで有名な女優は根元から先っぽまでピアス――ぎゃあ、痛い! 別に角が痛覚を感じるわけではないのだが見ているだけで痛いのだ――で年中ぎらついている。

 そんな派手に自己主張する気は無いのだが、ミカとて十六歳の女の子なのだ。アクセサリーの一つくらいそろそろ欲しい。クリスマスだということで雑誌の特集で取り上げられているいくつものブランド。

 その中でも一番人気である『エンジェルウィング』のシルバーアクセサリーは、特集の一番ページを割いているだけあって、本当に綺麗で可愛いものばかりだ。

「いいなぁ、これ。あ、これもカワイイ」

 それぞれの誕生石ごとにデザインされたもの、チェーンとドクロでパンクロックをアピールしたもの。ふと、ミカの視線を奪う一つのカフ。

「わあ、これ……ステキだなぁ」

 ハート型にカットされたピンク色の天然石。それを中央で抱くように、天使の銀翼が美しく広げられている。正に、エンジェルウィングの名に相応しい。

「…………でも」

 きらきらと輝く写真の、すぐ下で主張する数字の列。おいおい、ゼロが一個多くない? どうやらティーンが手を出すには、少々お高い代物らしい。だったら何故、この雑誌に載せるんだエンジェルウィングよ。

 なんだか急にうんざりとした気分になって、雑誌を隣に放った。先程アンナがやって来て、ミカ達は普通にしていてくれて良いと言ってくれた。だが万が一ということもあるので、一応コートはソファの背もたれに引っ掛けてある。

「フロスト……大丈夫かなぁ」

 胸がざわざわする。フロストやアンナが寝ずに頑張っているというのに、自分達だけ暖かな家の中で悠々と眠るのも気が引ける。

「あたしも、起きてようかなぁ」

 どうせなら、フロストが好きな甘い物でも作ろうか。とは言っても、ミカは料理やお菓子作りの類があまり得意ではない。でも、クッキーくらいなら作れる、多分。

「……よし!」

 そうしよう。意気揚々に立ち上がって、台所に向かおうとした。

 ――その時だった。

「う、うわっ!?」

「うきゃっ、な……何?」

 突如、視界に暗闇が落ちる。辛うじて、向こうでライノが転んだ様子が見えた。見上げてみると、照明が全て消えてしまっている。

 暖炉の炎は無事なので、落ち着けば物や誰かにぶつかることは無さそうだ。

「落ち着きなさい。大丈夫、明かりさえ戻れば――」

 言葉を遮るように、床が揺れる。再度轟く音の数々の中、ミカの耳には確かに聴こえた。

 映画やドラマでよくある、身の毛もよだつ断末魔。甲高い女性の、しかし確かに聞き覚えがある声。

「ッ、アンナさんだ!!」

 もう、居ても立っても居られない。ソファの背もたれにかけてあったコートを掴むと、そのまま踵を返す。

「こ、こらミカ!」

「アンナさん、ケガしたのかもしれないじゃん!?」

 じっとなんか、してられないよ! 制止の声を振り切り、部屋着の上からコートを乱暴に着込む。ブーツを履き替える時間も惜しくて、スリッパのまま玄関の扉を押し開け、懐中電灯をあちこちに向ける。

 すると、何やら空で火花が散っている。手元の懐中電灯ではそこまで光を届かせることは出来ないが、鼻につく焦げ臭さで想像は出来た。

 電線が切れて、ショートしたのだろう。そういう映像を、テレビか何かで見たことがある。これでは、すぐには電気を復旧させることが出来ないだろう。

「…………う、くぅ」

 ふと、鼓膜に触れる呻き声。意識を其方に向け、光を向ける。全身を照らすことは無理でも、鮮やかな金髪と銀のアンクルカフは見えた。

「アンナさん!」

「……だ、れ」

 アンナの方からは、ミカのことが見えていないのだろう。それでも、屋敷の軒下にうずくまる彼女に駆け寄ると、ハスキーボイスが漸くミカの名前を呼んだ。

「ミカ……な、にしてるんだい。はやく、にげなって」

「なに言ってるの!? アンナさんばっかり大変な目に合わせておいて、逃げるなんてできないよ!」

 苦痛に顔を歪ませるアンナを、このままにしておくなんて出来ない。彼女の身体に光をあてると、ミカは目を疑った。

 アンナの太腿から、おびただしい量の血が流れているではないか。身に付けているレザーのパンツは濡れそぼり、傷口は肉が削げ落ちるという凄惨な状況であった。

「カッコ悪いところを見せたね。ちぇっ、変に意地張らないで、さっさとフロストを呼べば良かった」

「アンナさん……」

「あはは、ざまぁ……無いねぇ」

 力無く笑うアンナ。表情には細かいいくつかの擦り傷と、疲労の色が伺える。とにかく、彼女の脚を手当てしなければ。

 本やテレビの知識しか無いが、止血くらいなら出来るかもしれない。ミカはコートのポケットの中に手を突っ込み、ハンカチを探す。

 その時、指先に鋭い痛みが走った。

「いたっ!」

 反射的に手をポケットから出し、指をさする。何か尖ったものが、指の腹に刺さった感覚がしたのだが血は出ていない。

 トゲにでも触ってしまったのか。でも、皮膚には何も残っていない。もう一度、今度はゆっくりとポケットに手を差し込んでみる。

「あれ? ……これ」

 闇の中でも淡い輝きを放つ乳白色の結晶。どうしてこんなものが? 思い返してみると、最初はトニが持っていた筈。

 それをフロストが手に取って、それからは……ミカに投げ渡された後、急かされて家まで帰ってきたものだから、そのままポケットに入れて持ってきてしまったのだ。別に誰のものでも無いのだが、妙な罪悪感がある。

「……これ、どうしよう」

「――ミカ!!」

 切羽詰まった声。振り向く間もなく、アンナに押し倒される。刹那、頭上の空気が切り裂き、漆黒の鞭が屋敷の壁を貫いた。

 肺を侵す、濃厚な血の臭い。

「くそ……闇討ちとは卑怯なやつだねぇ?」

「闇は元より我々の領域。我等は闇より生まれ、貴様等弱者を喰らう者」

 まるで歌っているかのような、しかし地を這うように低く抑揚の無い声。夜闇に浮かぶ、血色の双眼。

 アンナが起き上がり、きっと闇を睨み付ける。ミカの手から懐中電灯を奪うと、虚無の姿を映し出す。

 ずるりと、フクロウの形をした虚無が現れて、ゆっくりとその場にホバリングする。普通の生き物では不可能な動きに、背筋がぞくりと粟立つ。

「あんた……名前があるんだろ? 言ってみなよ」

「我が名はスイ。崇高なる主が授けてくれた、大切な名前」

 人語を操り、名を名乗る虚無スイ。傍らで、アンナの肩が僅かに戦慄いたのがわかる。

「主……なら、あんたの他にまだ強力な虚無が居るのかい?」

「貴様も見ていた筈だ。フロスト・ヒューティアと対峙する、麗しき我が主を」

「くそっ、やっぱりあの女か!」

「あの時、狙撃していればまだ可能性はあったのかもしれんが……フロスト・ヒューティアに当たってしまうなどと、そんな甘さを捨ててしまえない貴様に元から望みなどなかったが」

 冷たい嘲笑。フクロウの片翼が細長い鞭に代わり、アンナの腕に絡み付く。

 鈍く軋む嫌な音。アンナが苦痛に悲鳴を上げ、懐中電灯を落とした。

「くっ、あぁああ!?」

「アンナさん!」

 やだ、アンナさんから離れてよ! ミカは絡み付く漆黒の鞭を掴み、なんとか解こうと力一杯に引っ張る。しかし、まるで鋼鉄の枷のように絡まる鞭は、ミカの力ではびくともしない。

 それどころか、もう一方の翼から作られた鞭に殴り倒されてしまう。冷たく柔らかな雪に突っ伏すと、頬の内側から生温い血が染み出してきた。

「きゃぁあ!!」

「トナカイの小娘、貴様は後でゆっくりと相手をしてやる」

 大人しくしていろ。頭を押さえつけられ、そう言い放たれて。

 傍でアンナが苦しんでいるというのに、黙って見ているだけだなんて出来ない。ミカは咄嗟にポケットを探り、それを掴むと闇雲に振り回した。

 ――光のスピネルの欠片が、スイの身体を掠めた。それだけでも、怯えたようにミカの拘束を解き、悲鳴じみた声を上げた。

「なっ、何故そんなものが――!?」

「しめたっ、ミカ!」

 アンナの声に、ミカは欠片を握り締めると無我夢中で腕を突き出した。鋭く尖ったスピネルはまるで杭のように、逃げ遅れたスイの身体を穿つ。

 断末魔。身の毛もよだつ恐怖に固まるミカを押しのけ、アンナが銃をスイに突き付ける。小型のオートマチックは、振り払おうとした鞭よりも速かった。

「これでトドメだ、くたばりな!」

 乾いた銃声が木霊する。鞭は力無くだらりとうなだれ、虚ろな双眼がミカとアンナを睨んだまま、弾丸の威力に巻き込まれそのまま雪の中へと落ちた。

 埋もれていた懐中電灯を掘り出し、ミカがスイを照らす。スイはぴくりとも動かない。それどころか、既に光を当てた箇所からざらざらとした砂になり始めていた。

「はあ……そいつ、結構強い方の虚無だったんだけど……手負いで助かったよ。つか、自分できっちり片付けろよ」

 バカ弟子。傷付いた脚を投げ出して、横に倒れ込むアンナ。ミカが慌てて駆け寄ると、弱々しいがいつもの彼女の笑みがそこにあった。

「アンナさん!」

「ミカ……正直、メチャクチャ助かったよ。あんたがスピネルの欠片を持っているなんてね」

 ミカの手より少し大きい欠片は、本来のものより力は激減していた。だが、全くの無力というわけではない。小さな欠片でも虚無を惑わし、動きを止めることくらいは出来るのだ。

 様々な偶然が重なり、スイを倒すことが出来た。

「ありがとうね、ミカ」

「そ……そんな大したことじゃないよ」

 信じられなかった。自分が虚無を倒した、その事実が。何せ、ミカは今日初めて虚無を目にしたのだから。

 だが、スピネルを突き刺した感触は生々しい現実を指先からミカに伝えてくれる。

「そっか……粉々になっても、スピネルはスピネルだもんね。電気の光より、よっぽど頼りになりそうだね。なんで気がつかなかったんだろう」

 雪と血で濡れた髪をがりがりと掻いて、アンナが言う。そうだ、いつまでもこうしているわけにはいかない。

「アンナさん、その脚……早く手当てしなきゃ」

「あー、そうだねぇ……じゃあ、ちょっと肩貸してくれるかい?」

 実は、肋骨も何本かイってるかも。目の前にある苦笑に呆れて、ミカもすぐに立ち上がることは出来なかった。

 それでも、アンナに手を貸そうと立ち上がる。しかし、背の高い彼女を支えるにはミカ一人では少々難しい。

「待ってて、お父さんとお母さん呼んでくるから。あたしの家の中で手当てしよ、すぐにユド先生も――」

 不意に、空気が変わったように思えた。とても静かだ。今夜は村人も皆、家の中に入っている。自ら出歩く者など居ない。居るとしても、フロストくらいだろう。

 ――なら、あそこに立っている女の人は?

「スイ……わたくしの、わたくしの可愛いスイをよくも……」

 闇の中に煌めく金色。同時に、様々な音と光がミカを襲う。

 人々の悲鳴に、獣達の咆哮。燃え上がる炎は天高く、色濃い絶望を煌々と照らす。

「――――ミカ!!」

 再び突き飛ばされた。それだけを何とか理解したと同時に、爆音と紅がミカを襲った。


 一体、どれだけの虚無を撃ち殺したのか。空になった弾倉を捨て、新しいものに取り替える。胃からせり上がる酸と鉄錆の味が気持ち悪い。

 赤黒い唾を吐き捨て、思わず舌打ちする。

「くそ……あの女、どこに行きやがった!?」

 突然視界が漆黒に支配されたかと思うと、夥しい量の虚無がフロストを襲った。村中の明かりが消えたことにより、虚無が興奮したのだろう。

 そのどれもが雑魚であったが、視界を奪われた状態では流石に苦戦した。身体中が痛い。どこを怪我しているのかもうわからないが、手足が動く程度には無事であるらしいことは幸いだった。だが、いつの間にかキュリを見失ってしまった。

 暗闇に慣れた目で辺りを見渡し、スノーモービルの元まで歩み寄り手探りでライトを点ける。足元には一面を覆う虚無の死骸。前方を照らす明かりの中、きらりと光る何かを雪と亡骸の中から見つけた。

「ああ……あった」

 近寄り、足で邪魔な塊を退けてブランシュを拾い上げる。威力と共に反動も大きいブランシュを撃てる程、右腕の感覚は戻っていない。それでも、フロストは愛銃をホルスターに収めた。

 肩から落ちるマフラーを払い、フロストは息を吐いた。少し疲れた。だが、このまま休むことなど出来ない。キュリを探さなければ。

 一体どこに行ったのだろうか。

「逃げたのか……ふざけやがって」

 絶対に許さない。キュリの持っていた金色のリヴォルヴァーは、間違いなくヒョウのものだ。虚無が持っていていいものではない。

 必ず取り戻す。感覚の鈍い右手を握り締め、誓う。その時、ふと視界の端で光が揺れた。

「……何だ?」

 スノーモービルのライトとは随分違う、ゆらゆらと不安定に踊る紅い光。それはまるで生き物のように大きく、高く昇っていく。僅かに鼻につくのは、何かが焦げたような辛い臭い。

「――ッ、やられた!!」

 スノーモービルに飛び乗り、フロストは急ぎ村へ戻る。どうして気が付かなかった。確かに虚無は仲間を殺されたという憎悪と、自分も殺されるかもしれないという危機感からフロストを集中的に襲う。しかし、どうして考えなかった。

 ――雑魚を囮にして、フロストの意識を村から遠ざけることが狙いだったのではないか。そして非力な村人を襲い、あの紅蓮の炎で全てを焼き尽くすことがヤツらの目的であったとしたら?

「くそ……何で気が付かなかった!?」

 屈辱と後悔。虚無に、ではなく自分自身に。気が付けた筈なのに、今更悔いても遅いというのに。自分へのいら立ちに、気が狂いそうだった。

 それでも、その悲鳴は聴こえた。慌ててハンドルを切り、声の主を探す。いや、悲鳴なんか既にそこら中から上がっていた。

 そして、至る所に漆黒の獣が犇めいていた。屋根の上によじ登り、煙突をがりがりと齧る熊。締め切られた扉に体当たりを繰り返す巨大な牛。ひび割れた窓を興味深そうに覗きこむ、双子の猫。まるで悪夢のような景色に、フロストの目が驚愕と絶望に見開かれる。

「なっ、なんだよこれ……なんで――」

「きゃあああぁあ!!」

 騒音を切り裂く女の悲鳴。見れば、フロストの身の丈ほどもあるタコの形をした虚無が、長い脚で少年の足を捕え、自分の方に引き摺りこもうとしていた。少年は村の子供の一人で、濃い茶髪が特徴的なヴィサだった。

 まだ若い母親のエーヴィ・ハハリが必死に我が子のヴィサを取り返そうと手を伸ばすが、それもタコの脚で軽くあしらわれていた。

「やだよお!! たすけて、たすけてよママぁ!」

「やめて!! その子だけは、お願いだからその子だけは返して!」

 エーヴィが懇願するも、虚無はけたけたと不気味に嗤うだけ。そして普通のタコではあり得ない、大きく丸い頭をばっくりと割り開き、唾液で濡れそぼった歯列を覗かせた。その大口なら、子供なんかひと思いに飲みこめるだろう。

 フロストは背中のネラに手を伸ばすが、引き抜くことが出来なかった。ヴィサと虚無の距離が近すぎる。自分の腕を信用していないわけではない。少々距離はあるが、この距離でタコの頭を吹き飛ばす自信はある。

 虚無は泣き叫ぶ獲物に夢中で、まだフロストの様子に気が付いていない。でも、もしも銃を抜いて構える段階で気がつかれたら?

 そして、ヴィサを盾にされたら。先に待つ最悪の未来が、フロストの心に絡みつく。今まで数多の虚無を始末してきたが、こんな状況に陥ったことなんか一度も無い。

「……やるしかねぇか」

 ネラではなく、ブランシュを引き抜くと同時にスノーモービルから飛び降りる。地面を蹴り、天に向けて引き金を絞る。響き渡る爆音に、虚無がフロストの存在に気が付いた。

 自分を捕えようとする腕を避け、ヴィサと虚無の間に身体を割り込ませる。

「フロスト!?」

 エーヴィが驚いた様子でフロストの名前を叫ぶ。止めなさい、と言われた気がするが聞いてやるつもりはない。

 ヴィサに絡まる脚を踏みつけ、動きを止める。痛みに、それとも拘束から逃れようとするだけなのかはわからないが、もがく漆黒の脚は想像以上に力が強い。フロストは振り払われないよう全体重を足にかけ、タコの脚に銃口を押し付けた。

「さっさと、離せ!!」

 判断は正しかった。太く柔軟な脚は、並みの弾丸では歯が立たなかっただろう。でも、ブランシュはオートマチックの中でも最大の威力を誇る。そして零距離ならば、必ず当たる。

 爆裂する脚。タコの悲鳴がフロストに殴りかかる。千切れた脚からヴィサを解放してやると、エーヴィの方へ突き飛ばしてやった。

「ママぁ、ママあぁ!」

「良かった……本当に、良かった」

 わんわんと泣きじゃくる親子。フロストも二人の様子に安堵し、息を吐いた。そこに、隙が出来てしまった。

 漆黒の脚が、今度はフロストの右腕に絡まる。

「ッ、しまった――!!」

 ぶんっ、と空気を切る音。為す術もなくフロストはタコの脚に持ち上げられ、そのまま地面に叩き付けられた。

「ぐっ、ああぁあ!!」

 口中に満ちる、鉄錆の味。背中から打ち付けられたことと、積雪によって多少は抑えられたが、フロストの体力を削ぎ落とすには充分な衝撃だった。

「フロスト、フロスト大丈夫!?」

 我が子を抱き上げながら、エーヴィが叫ぶ。答えてやる余裕は、残念ながら無い。脚はまだ、フロストを捕らえて離そうとしない。

 再び持ち上げられて、ぎょろりとした血色が睨む。恨みに満ちた獣の声。ばっくりと開く口は、まるで満開の花弁のよう。

 カビ臭い息に、呼吸が出来ず激しく咳き込み涙が滲む。それでも考えなくては。これからどうすればいい? どうすれば、自分は虚無を倒せる? ブランシュはこの手にあるが、ネラを抜く隙を見つけられるかはわからない。

 思い付いた方法は、一つだけだった。

「はっ、このタコ野郎……そんなに欲しいなら、くれてやるよ!!」

 引っ張られるがままに、フロストは自らの右腕を虚無の口の中にねじ込んだ。背後から親子二人分の悲鳴が聞こえた。端から見れば、気が触れた行動にしか見えない。

 事実、半分はヤケクソだった。そして、残りの半分で賭けに出た。

「ッ――――!!」

 サメのように鋭い歯列が、フロストの腕に食い込んだ。コートが破け、皮膚が千切れ肉が穿たれる感触。噴き出す血に舌を這わし、啜る音に怖気立つ。想像以上の激痛に、意識が飛びそうになる。

 でも、簡単に気絶なんかしてやらない。悲鳴だって上げてやるものか。意地と、虚無に対しての憎悪がフロストの正気を保たせる。

 大量の血と共に、体温と気力が流れ出す。それでもまだ、指先を動かすことは出来た。

「っ……ど、だ? サンタクロースの血肉は、美味いのかよ。テメェらには、最高のプレゼントなんだろうな」

 でも、それは同時に破滅をもたらす贈り物でもある。右手は動く。そして、人差し指はブランシュの引き金に引っ掛かっていた。

 歯を食いしばり、口元に嘲笑を飾る。

「……くたばれ」

 くぐもった銃声。湿った爆音と共にタコの頭が弾け、辺りにどす黒い肉塊が飛び散る。

 フロストの腕を喰い千切ろうとしていた歯列から、力が抜ける。変なところでタコらしく、長い脚が不気味に蠢いていたが、やがてそれも無くなった。

「フロスト!」

 力無く膝を着いたフロストに、親子二人が駆け寄る。エーヴィの悲痛に満ちた声と銃声に気付いたのだろう、一人二人と村の住人が恐る恐る顔を出し、そして血相を変えて彼等の元に集まった。

「フロスト、大丈夫か!?」

「ひでえ……すぐにユド先生呼んでくる!」

「それより、早く引っ張りださねえと」

 ただの屍と化した虚無の口は、元の体重によってフロストの腕に噛み付いたままでいた。何とか抜け出そうと身を捩るものの、喰い込んだ歯は傷を広げるだけ。左手で上顎を持ちあげようとするも、彼一人の力ではそれも叶わない。

 加えて、フロストは今にも気を失ってしまいそうだった。話掛けられているのだろうが、その声は遠く不明瞭で、何と言っているのかわからない。

「よし、俺達が持ち上げるから、その間にフロストを頼む」

「わかった。大丈夫だぞ、フロスト」

 すぐに助けてやるからな。すぐ傍で言われた誰かの言葉。それだけがやけに鮮明にフロストの耳に届き、消えかける意識に溶ける。

 助ける? どうして、俺は助けられているんだ?

「くっ……この、重いな意外と」

「がんばれ、もう少し持ち上げてくれ」

「おし、いけるぞ。早く、みんな手を貸してくれ!」

 ずるりと、解放されたフロストの右腕は凄惨な状況であった。穿たれた傷からは今もどす黒い血が垂れ流れていて、剥がれた皮膚が痛々しくぶら下がっている。奇跡的に傷自体は大きいものではなく骨も無事らしいが、感覚は完全に無い。

 腕と共に引き摺り出されたブランシュが、雪の中に落ちる。粘着質な血や体液やらで此方も酷い有様だ。白銀に輝いていた筈の愛銃。アンナが見たら発狂しそうだな。

 顔を真っ青にして叫ぶアンナが容易に想像出来て、なんとなく、笑える。

「なっ……こいつはヒドい」

「ごめんなさい……わたしが、わたしが悪いんです」

 エーヴィが泣きじゃくり、何度も何度もそう繰り返す。それを誰かが宥めている。ぼやける視界で人事のように眺めていると、野次馬の中からユドが飛び出してきた。何やら叫んでいるが、何を言っているのかイマイチわからない。

「ええい、お前達は止血の仕方すら知らんのか!! フロスト、聴こえるかおい!」

 うるせえな、聴こえてるっつのクソジジイ。掠れる声で言ってやると、呆れたような溜め息が返ってきた。

「……変なところまであの馬鹿に似よって。痛くするぞ、スマンな」

 言うと、ユドが布でフロストの右上腕をきつく縛る。覚悟した程痛くはなかったが、ユドのしわだらけの顔面は蒼白していた。

「すぐに処置してやらんと……誰か、フロストを安全な場所に」

「で、でも一体どこに?」

「この村に今……安全な場所なんて」

 一様に口を紡ぐ村人達。何かが燃える音と、誰かがすすり泣く声が聴こえる。その時だった。

 炎ではない、圧倒的な光が夜空を覆ったのは。

「何だ、何だ何だ今度は!?」

「花火……か?」

 そう、それは正に花火だった。光の球体が天空を目掛けて駆けのぼり、爆発すると四方八方に散開しやがて流れ星のように儚く消える。場違いな美しい景色に、一瞬誰もが見惚れてしまった。

 対して虚無にとっては眩しい厄介者だったようで、多くは逃げるように闇の中へと姿を消した。

「……まさか」

 あれが、アンナの言っていた信号弾なのか。まるで、というより正に花火にしか見えない。

 綺麗だが、それだけで済ませられるものではない。アンナの性格から考えるに、彼女がフロストに助けを求めるなど余程のことだ。

 もしや、キュリが――

「ふ、フロスト?」

「離、せ……」

「こ、こら!! 無理に動くんじゃない!」

 傷の具合をよく見ようとしていたユドを押しのけ、フロストは立ち上がろうとした。しかし両脚には力が入らず、強烈な目眩に吐き気さえ催してしまう。左手を地面に突っぱねる、ただそれだけの動きでも呼吸が荒く息が出来なくなる。

 それでも、行かなくては。雪を引っ掻き、歯を食いしばる。それを、大人達がなんとかして押さえ込もうと肩を掴む。

「ダメだ、一体どうしたんだフロスト!」

「ど、け……あいつは、俺が殺す」

「落ち着けって、まずは手当てが先だろ?」

 優しく宥める声は、トニのものだ。彼に同調して、何人もの大人がフロストを止めようとした。

「そ、そうだよ。な? とりあえず、落ち着けって」

「下手したら、傷口から感染して大変なことになるぞ」

「大丈夫だって。おれ達が何とかするから。だからもう、無理しなくて良いんだ」

 休んで良いんだよ。あとは俺たちが頑張るから。今度は私たちたちがお前を護るから。押し付けられる優しい言葉の数々に、フロストの苛立ちはもう、限界だった。

 フロストの中で、何かが切れた。

「…………うぜぇ」

「フロスト?」

「うるせぇんだよ!! テメェら大人は揃いも揃って、そんなに俺が頼りねぇか! そんなにヒョウに戻って来て欲しいのか!?」

 それは、今まで必死に押し隠していたフロストの痛みであった。しん、と大人達が静まり返る。ああ、やっぱりこれは彼等にとって禁句だったんだなと改めて感じた。でも、もう止められない。

 堤防は決壊した。今まで我慢していた苛立ちを、もはやせき止めることが出来なかった。

「俺が……気がついてないとでも思ってたのかよ。はっ、つくづくおめでたいヤツらだな。いつまでも、泣き虫なガキだと思ってるんだろ?」

「ち、違うんだよフロスト。俺たちはただ――」

「さっき女の姿をしたキュリって虚無に会ったぞ。そいつは金色のリヴォルヴァーを持っていたんだ……あれは、絶対にヒョウの銃だ。ヒョウはもうどこにも居ないし、いくら待っても帰って来ない。キュリが親父をこの村から奪ったんだよ!」

 絶対に帰って来るって約束したのに、ヒョウは二度とフロストの元に帰って来ることはなかった。これからも、どれだけ待っていても帰って来ないのだ。

 だから、フロストは戦士になったのに。誰も自分を認めてくれなかった。失格とさえ言った。

 頼ってくれなかった。復讐に狂って何が悪い、それで虚無が始末出来て、平和な生活が送れるなら何も問題ないじゃないか。

「何で……何でだよ」

 どうして村がこんなにぼろぼろにならなければならないんだ。

 俺がガキで、頼りないから? ヒョウなら、こんなことにはならなかった? 

「虚無を殺すことの何が悪いんだよ……。俺とヒョウは何が違うんだ? 親父を殺したキュリを恨んで、形見の銃を取り戻したいってことが許されないことなのか? ……俺は何か間違ってるのか?」

 傍らにいるユドの肩を掴む。柔らかな茶色のダッフルコートを、どす黒い紅がじわりと侵す。

「何でも良いから言ってくれよ……教えてくれなきゃ、もうわかんねぇんだよ」

 わからない。自分の何が間違っているのかがわからない。戦士とは何か、誰も教えてくれない。教えてくれる人が居ない。

 限界だった。フロスト一人では、何をするにも限界なのだ。それは村の大人達もわかっているのだろう。でも、どうすればいいかわからない。彼を導くことが出来ない。それは、父親の役目だったから。

 同じ戦士で、父親であるヒョウにしか出来ないこと。誰かで代替することは、不可能なのだ。

「……うふふ。無様で愛おしいフロスト、今の貴方……わたくし好みでとても可愛らしくてよ?」

 突如、頭上から落ちる甘ったるい猫なで声。大人達は何事かとざわついたが、フロストは呼吸さえ出来なくなった。

 タイミングを図ったかのように、キュリが宙から舞い降りる。たおやかな腕には、両手首を背中で縛られたミカが荷物のように脇に抱えられていた。

「ちょっと、ちょっとぉお!! 離してってば、離しなさいよおお!」

「全く、餌を待つ小鳥のようにやかましい小娘だこと。ほら、貴方もご覧なさい……貴方の言っていた戦士の坊やの姿を。綺麗よフロスト……本当に、紅が良く似合うわ」

 見惚れてしまいますわ。うっとりと、キュリが笑う。フロストの名前が出た途端、ミカの動きがぴたりと大人しくなる。

 そして、おずおずと向けられる視線。いつも見上げられている筈の瞳から見下ろされて。今にも泣き出しそうな顔で名前を呼ばれて。

 屈辱だった。でもそれ以上に、情けなかった。

「ねぇ、フロスト。この娘……貴方の幼なじみなのでしょう? 生意気だから、貴方の目の前で殺してあげようと思ったのですが……そんな愛らしい姿を見たら、もっともっと虐めて差し上げたくなったわ」

 くすり。美しい氷の微笑み。キュリはミカを立たせ、肩を前から押さえ込むと、彼女のこめかみに金色の銃口を突き付けた。

 目の前の景色に戦慄する。一際大きな悲鳴が上がり、トニがミカとキュリを交互に見て、叫んだ。

「ミカ!! ……あ、あんた何者だ!? どうしてこんなことをする!」

「わたくしはキュリ。そこに居るフロストにたくさんの仲間を殺された、虚無ですわ」

「虚無……う、嘘だろ?」

 こんな虚無が居るのか。村人達が思い思いの言葉を発し、ついにはキュリの持つ拳銃に視線が集まる。彼等に見分けがつくかどうかはわからないが、金色のリヴォルヴァーなどそれだけで目立つ上に珍しい品だ。加えて、フロストが自らぶちまけた事実。

 あれはヒョウの銃であり、それが今にもミカの頭を撃ち抜こうとしているのだ。悪夢のようであるが、これは紛れもなく現実である。

 フロストは恐怖した。キュリに対する怒りよりも、ミカがヒョウの銃で殺されることが何よりも恐くなったのだ。ブランシュは撃てる状態ではない。ネラはまだ背中のホルスターに収めてあるが、それを抜く気力は残っていない。

「最初はまず、戦士から片付ける予定でしたの。戦士を無くし、恐怖に震える貴方達を一人ずつ殺して差し上げようと思っていたのですが……フロストがあまりに可愛らしいので。では、こうしましょうか」

 押し付けられる銃口に、ミカが小さく呻く。

「わたくしと、この方達の前で跪きなさい。そして虚無に謝罪し、わたくしに許しを請うの」

「なっ……そんな」

「ふふふ……あはははは! 貴方達の希望であり、わたくし達を散々いたぶってくれた戦士が虚無に屈する姿。如何です? 滑稽でしょう!?」

 キュリの哄笑が、フロストを更なる窮地へと追い込む。村の笑い者になるどころの話ではない。戦士とは、常に虚無にとって恐怖の対象でなければならない。一度でも屈した姿を見せれば、弱みにつけ込まれ虚無にとって格好の餌となる。

 もう二度と、戦士として戦うことは叶わない。ヒョウの銃を奪い返すなんてもってのほか。下手をすれば、このまま最悪の形で命を落とすことになるかもしれない。

 それでも、ミカの命と天秤にかけるまでもない。

「……わかった」

 大人達が驚いたようにフロストを見る。突き刺さる視線が痛い。こんな屈辱を受けるくらいなら、今すぐにネラを抜いて自分の頭をブチ抜いた方がずっとマシだ。でも、それは逃げでしかない。

 ならば、せめてミカだけでも助けたい。フロストが覚悟を決め、望み通り跪いてやろうかと地面に手をついた。でも、フロストに出来たのはそこまでだった。

 突如、キュリがぎゃっと短い悲鳴を上げる。

「くっ、この……小娘!!」

「きゃああ!」

 驚いて見てみれば、ミカが自分を押さえるキュリの腕に噛み付いていた。不意の痛撃に美貌を歪め、ミカを放る。腕を縛られているからか、まともな受け身もとれずに倒れ込んだにも関わらず、ミカはしてやったりの顔でにやりと笑う。

 力一杯に食い込んだ歯は、黒子一つ無かった真珠の肌に見事な歯形を残した。穿たれた肌に、キュリが更に悲鳴じみた声を上げる。

「いやあぁあ!! わっ、わたくしの肌が……よくも、よくもやってくれたわねぇ!?」

「ふーんだ! フロストとアンナさんにひどいケガさせて、村をメチャクチャにしてくれたお返しだもん。言っておくけど、フロストはあんたなんかに負けたりしないんだから!!」

 べぇっと舌を出して、挑発するミカ。大切な身体を傷付けられて激昂するキュリを前に、少しも臆する素振りは無い。

「フロストはこの村一番の戦士で、あんたなんかよりずっとずっと強いんだからね! ケガさえしてなければ、あんたなんかとっくにけちょんけちょんにされてるんだから!!」

「ふんっ、何も知らない小娘が何を偉そうに――」

「あんたこそ何も知らないくせに! ていうか、そもそもその姿何なの!? 化粧は濃いし、露出多すぎて逆に下品だから。セクシー路線狙ってるんだか何なんだか知らないけど、趣味悪い。はっきり言ってドン引きよ!」

「なっ!?」

「ていうか、あんたが持ってるその銃はヒョウさんの銃でしょう!? あんたなんかが持ってて良いものじゃないの、だからとっとと返しなさいよこの――」

 オバサン!! ぜぇぜぇと息を荒げながら、それでも満足げにミカが鼻を鳴らす。一方的な言葉の弾幕に、フロストは呆然とした。

 つくづく、女とは恐い生き物だ。重々しい沈黙が場を制す。不安そうに辺りを見回す村人達。やがて、キュリが静かに口を開いた。

「……うふふ。このわたくしが、オバサン? 悪趣味? 初めて言われましたわ、そんな言葉。トナカイの小娘ごときが、わたくしを侮辱するなんて。……上等じゃないの、このクソガキが!!」

 キュリがミカに銃を向け、蓮根型の弾倉をかちかちと回す。マズい。ミカは背中で両腕を拘束されていて、上手く立ち上がることが出来ない。

 一か八か。フロストは背中に手を伸ばし、ネラを引き抜き撃つ。だが、ブレる視界と力の入らない腕では、思うように撃つことなんて出来なかった。

 狙いを大きく外れ、キュリの足元を掠める弾丸を軽々と避け、浮遊したままフロストを睨み付ける。

「フロスト、わたくしから貴方に贈り物を差し上げるわ。そしてこの小娘の死という絶望に、打ちひしがれる貴方を見せてちょうだい!!」

「や、やめろ――」

 銃声が、フロストの声を掻き消した。大人達がミカを助けようと駆け寄るも、轟く爆音に怯え惑い、立ち止まってしまう。

 旋回する弾丸が地面に突き刺さり、衝撃により細かく分裂した弾丸が辺りに飛び散る。獲物の骨肉を切り刻む散弾が、縦横無尽に人々を襲う。

「いっ、いやあぁあ!」

 肩を強ばらせ、ぎゅっと目を瞑るミカ。逃げることも許されない彼女に、数発の弾丸が顔面を食い潰さんと飛びかかる。

「――ミカ!!」

 立ち尽くす大人達を押し退けて、フロストがミカを呼ぶ。残された気力で立ち上がり、声を頼りに手を伸ばす。

 必死だった。かろうじて感覚の残る左手で、細い腕を探し出して。そのまま掴み、自分の元に引き寄せる。

 一発の弾丸が、ミカの黒髪を数本攫うだけで、彼女にそれ以上の怪我を負わすことは無かった。

 バランスを崩して、倒れ込むミカをなんとか受け止め支える。

「フロスト!!」

 驚きと、どことなく嬉しそうな表情でミカがフロストを見上げる。

 しかし、そこまでだった。

「ッ――――」

 まるで糸が切れた操り人形のように、フロストはその場に崩れ落ちた。

 どうやら、ここまでらしい。

「あれ? フロスト……フロスト!?」

 ミカがどれだけ呼ぼうとも、フロストはもう指先すらも動かせなかった。右腕からは絶えず血が流れ続けていて、痛みすらも感じることが出来ない。

 フロストが勝負に出た、一か八かの賭け。結果は、勝ちとは言えないが決して負けたとも思えないものだった。

「くっ……一体、どこまでわたくしをコケにしたら気が済みますの? 貴方達は、本当に馬鹿な生き物ですね」

 キュリが脇腹を押さえながら、苦々しく言った。ドレスをしとどに濡らす、真っ黒な液体。フロストは一発も撃っていない。撃てる状況ではないからだ。

 普段のフロストなら、考えられない行動だった。でも、勝算があるとすればこれだけだったのだ。ネラを引き抜いた時、キュリに命中させられる可能性などゼロに近い。そんなことは百も承知で、それでもフロストはあえて撃った。信じていたから。

 自分の師であるあの女が、自慢の彼氏で此方を見ていることを。此方からは見えないが、スコープを通した真っ直ぐな視線は間違いではなかった。

 音の無い弾丸が、キュリの横腹を削ぎ落とした。闇に隠れた暗殺の一撃。結果としては痛手を負わせられたようだが、致命傷にはならなかった。ミカが言っていたように、アンナも何かしらの怪我を負ったのだろうか。

「くう……出来るなら、今すぐこの村を焼き払ってしまいたい。でも、全然それでは足りませんわ。それに、スイの仇を取るには……もっと、もっと惨たらしいシナリオが必要よ、そうでしょう?」

 ねえ、フロスト。キュリが言った。

「そのままくたばられては、何の面白みもありませんわ。それにこの銃、どうやら貴方にとって思い入れがあるようですね。フロスト、三日間だけ貴方に時間を差し上げます。その間は、この村に虚無を入れないようにしてあげましょう。そして今から三日後の夜、一人で南の雪原までいらっしゃい」

「よ、夜に一人でだなんて!?」

「外野は黙りなさい。……そこで、わたくしと勝負をしましょう? 貴方が勝てば、この銃を返して差し上げます。でも、もしわたくしが勝ったら……うふふ、今は言わないでおきますわね」

 真っ赤な唇を指先で撫でながら、キュリが嗤う。

「言っておきますけど、軍を呼ぼうなんて考えないことがよろしくてよ? そんなことをしたら、貴方達全員、わたくしの可愛い子達の餌にして差し上げますから。大丈夫よ、だってこの村の戦士は優秀なのでしょう? あははは! フロストの骸を見てもなお、そんな強がりが言えるのかしら、楽しみだわ」

 ふわりと宙に浮きあがり、闇に溶け込むようにしてキュリの姿が消え去った。辺りに広がる、不気味な沈黙。

 最悪。胸中だけで悪態を吐いて、フロストはそのまま意識を手放した。

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