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屋上と先生

作者: 梓川深屑

"いつか誰かに言われると思うから、今、言うけどね。

お前、才能ないよ"


そう言ったあの人。


―そんなの、わかってるよ。


心の中で毒づきながら、私は笑った。


自分の右手が憎らしい。



午後6時を過ぎた校舎内を、重い足取りで歩く。


いや、

右手が憎いというのはちょっと違う。

単に私に絵の才能がないだけであって、脳の指示通りに動く右手のせいにするのはある意味、一種の逃避なのだろうと思う。


―――才能が、ない。


ついさっき顧問から言われた言葉を反芻して、また気分が沈む。

言われなくても、と思った。――最初は。

この世には自分よりも凄い人なんて星の数ほどいて、私はそんなにできる人間ではないと、知っているつもりだった。

けれど、他人に言われてこうなのだから、つまり、


「自分に期待してた……のか」


誰もいないことを理由に、呟いた。もう夏なのに。

ああ、なんて情けない。

私って、恥ずかしい上に哀しいやつだな。

苦笑しながら、沈んでしまった気分を振り切るよう、教室へ急ぐ。

明日提出の英語のテキストをうっかり机に入れっぱなしにしてしまったのだ。

期限に提出しないと、あの先生はうるさい。



「…よかった、あった」


一冊だけ取り残されていたお目当てのものを、今度はちゃんと丁寧に自分の鞄にしまった。

あとは自転車で帰るだけだ。

「……………」

なんか、帰りたくないな。ちょっと、いつもはやらないことに挑戦したくなったというか……とにかく、どうにかして気分を盛り上げたかったのかもしれない。教室を出て、長く伸びる廊下を一瞥する。

人っ子一人いない。

そうして私は、立入禁止の貼紙がはってあるのを無視して屋上への階段を上り始めた。ここの高校では、屋上は開放しておらず、3階から屋上への階段は基本、立入禁止になっている。

屋上に出るための扉に鍵をかけている安心感からか、その貼紙の意味はほとんど皆無に等しい。扉の前までなら誰でも行ける。

先生たちは気づいていないようだが、よく、たまり場になっている。

私は前に一度、誰も来ないのを確かめて来たことがあるが、わずかな期待虚しく、鍵は開いていなかった。今日だって、別に鍵が開いてるだなんて思ってない。"開いてたらラッキー"とか、そんな程度だ。なんでもいいから、ほんの少しでもいいから。

……なんて。自分は何を求めているのだろう。

多分それは、曖昧なふりをして実は明確だ。

そうやって知らんぷりを決め込むと、ずっと動こうとしない頑固さが、私は嫌いなんだけど。


「………あ、」


薄暗い視界に、突如、紺色の夜空が現れた。

冷ややかな風が、髪を揺らす。

――信じられない。


屋上の扉は開け放たれていた。


* * *


"教師らしくないわよ。向いてないんじゃない?"


そう、軽い調子で言ってのけた、センパイ。その人ばかりではない。

高校教師になって約半年。年齢の若さのせいか、生れつきの茶髪のせいか、それとも楽観的な性分のせいか、周りの先生方の視線は幾分冷ややかだ。

言葉の節々から、「これだから若造が」と聞こえてくるから気分が悪い。


「あ―……、うっざ」


落ち込みはしない。

自分が自分の意志で選んだ道だ。何を今更疑う必要がある。

薄暗くなった校舎内を歩くたび、右人差し指に引っ掛けた鍵束が、ぶつかり合ってガチャガチャと音を立てる。

午後6時。

校舎内の戸締まりをする時間だった。

去年、休校中に盗難があったらしいから、この学校がやたらと戸締まりに厳しいのはそのせいだろう。

数年前とはだいぶ変わったものだ。


「お、」

廊下の窓から、向かいの美術室が見える。顔まではさすがに見えないが、女子生徒が一人、キャンバスと向き合っている。

6時を過ぎたのに、御苦労なことだ。

1番奥のコンピュータ室の鍵を確認し、全ての施錠は終了したが、俺は更に上の階へ足を進めていった。


「ちょっと屋上お借りしまーす」

誰もいない階段で、おどけて言った。


* * *

歓喜だか恐怖だか、よくわからない感情のまま、

入学してこのかた、一度も訪れたことのない屋上の地面へ、足を踏み入れる。

どこかいけないとわかっていながらもやろうとする、子供の遊びみたいだ。

それにしても、何故、

今日に限って。



曖昧な疑問がはっきりと形になる前に、それはふっとんでしまった。



空を仰ぎ見た自分の目が、見開かれる。

すっ、と視界が澄み、いくつもの星屑が飛び込んできた。

「きれい」と、

ひょっとしたら呟いたかもしれない。

空がとても近い。


「……………ッふ、」

まずい。

そう思った時にはもう遅かった。

鼻がつん、とした矢先、熱い塊が胸まで込み上げてきて、私の呼吸を乱す。

みるみる視界が滲んでく。

"――いつか誰かに言われると思うけどね"


今はどうでもいいはずの言葉が、夜空いっぱいに響いてしまう。ああ、どうしよう。

みっともないな。



「そこにいるの、紺野サン……?」


聞き慣れた声に、ビクリと心臓が跳ねた。

すぐさまブレザーの袖で目を擦る。明かりもない、薄闇の中、その人は煙草をふかしながらフェンスにもたれていた。

なんで気がつかなかったんだろう。


「あれ、ちがった?」


苦笑混じりでゆっくり近づく。口元でチラチラと赤い火が見えていたのを、指で摘み、ケータイ用灰皿で揉み消す。


「違わないです。深瀬先生」


相手側の空気がわずかに笑った。

「煙草、黙っといてな。

じゃなきゃ俺がセンセイたちに怒られる」

今年で24歳になったという、私のクラスの副担任。周りの先生たちと比べても、だいぶ若く、顔も、女子生徒から騒がれる程度によかった。

茶髪や喋り方が何より先生らしくない。

「誰にも言いません。私も、勝手に屋上入ったの、知られたくないです」

はは、と、力を抜いた笑いが返ってきた。

「言わない言わない。てか、勝手に忍び込んだの俺だし。じゃ、今日のはお互い他言無用ってことで」

フェンスにもたれた体を離し、私のほうへ歩み寄る。ふわりと、煙草の匂いが漂う。

数歩、通り過ぎた所で不思議そうに私を振り返る。


「別に、話したくないならいいんだけどさー。

なんかあったんじゃないの?

なんもないなら俺行くよ?」

先生の茶色い髪が、温い風で揺れた。

聞き流してしまいそうなほど軽く、面倒くさそうに、その声は私に言った。


* * * *


「才能、ないんだそうです、私」

なんでもないみたいに響く自分の声が、なんだか笑えた。

他人なんかに期待して、馬鹿だろうか。

先生は一瞬首を傾げ、「才能?」と呟くと、何秒かの後に、

「あ、そっか。美術部だっけ」

「よく覚えてますね」

他の子たちみたいに、決して懐いてたと言えない私の名前や所属部活を覚えていることに、彼と似合わない真面目さを感じて、私は少なからず驚いていた。

私でさえ覚えているのだ。全員分のデータが頭に入っているのかもしれない。


「そりゃあお前、"センセイ"だし、当然だろ」


苦々しげにしかめっ面をする。生徒が先生の悪口を言う時みたいな、皮肉混じりの言い方だった。

「で、自信無くして落ち込んでるってわけ?」

歯に物を着せぬとはこのことか。直球の質問にうろたえた。

「自信無くしたっていうか……。

私、結構自分でわかってたつもりだったんで、ショック受けてる自分に呆れてるっていうか。

…正直、ここまで沈んでる自分にびっくりしてるんです」

何を言っても言い訳がましいと感じるのは、私の中にやましい気持ちがあるからだ。

本当は自信あったし、絵だってもっとたくさんの人に見てもらいたい。評価してほしい。我ながら目茶苦茶だ。

「いいじゃん。

自信持ってれば」

いつの間にか下を向いていた顔を上げる。ほの明るい月が、先生の顔を照らしていた。

呆れ顔を隠さず、浮き彫りにする。

先生自身も、多分隠す気はサラサラないのだろうけれど。


「花岡センセイが自慢してた。"紺野の絵が全国いった"って。

よくわかんないけど、それ、才能あるって裏付けにならないの?」

担任の名を口にする。

言葉遣いや言葉選びを気にする様子もない。

不思議な人だ。怖くないんだろうか。


「……すごくなくはない、と思います。けど、私みたいな人はいくらでもいるんですよ。

威張るほどのものじゃありません」

スルスルと要らぬことまで出てきそうになる。

友達や父や母や、花岡先生に話す時にもなったことのない気持ちで、胸が苦しい。多分、いつもだったらここで止めていたと思う。これ以上、自虐だか謙遜だかわからない言葉を吐いたら、相手を困らせるだけだ。わかってる。

でも、


「私、美術やめたほうがいいかもしれません」

言ってしまってから、どうしようもなく恐ろしくて、体が震えた。自分は今、なんてことを言ってしまったのだ、と。

しかし、形容しがたい、いやにすっきりとした気持ちがないわけではなかった。傍らの先生が、長い溜め息を着いたのがわかった。

茶色の髪を、面倒くさそうに掻きむしる。

「なに、お前、そんなやめたくなるほど絵描くの嫌いだったわけ?」

猫みたいなまっすぐな瞳。それが、私を捕らえて離さない。

「すっぱり諦めるのも一つの手だと思うよ。

何も無理してそっち選ぶ必要ないでしょ。

まぁ、確かにもう夏だし、今更進路変えるってのは賢明ではないけどさ。

花岡センセイも困るだろうしね。

でも、お前まだガキだし、んなこと考えなくていいよ。好きにしな」


唖然とした。この人……


「なんだか、先生としてその言い方はどうかと…」

口の端を上げて、自嘲だか苦笑だかわからない。

乾いた笑い声が屋上に響く。

「やめろよ、それ。今だって散々言われてんだからな。"教師向いてない"って。そもそも、"教師らしく"ってなんだよ、ってハナシ」

唾を吐くような言い方。

先生は、強い人だ。

見てたらわかる。

力もあるし、強さもある。

「でも、実際教師になってるじゃないですか。

噂で聞きました。先生、学生時代とても優秀だったんでしょう?

もっと上だって狙えたのに、県内の単科大学にいったんだって」

そう。

何か目標を成す人というのは、どこか共通の"感じ"があるのだ。

「うっわー。怖いねぇ、生徒の情報網は」

苦笑しながらも、否定はしない。

近づいたように見えた月が、また遠ざかった気がする。


「――私、先生が羨ましいです」


他人の能力や性質を羨ましがるほど、虚しいものはない。私にとって、それは苦痛にしかならないのだから。

口に出して、

しかも本人を目の前にしつ、言ってしまうなんて思いもしなかった。

先生は、相変わらず表情を隠そうともせず、あからさまに嫌な顔をした。

「お前何言って……」

言い返そうとした先生の目が、ぎょっと見開かれ、困惑の色に変わる。

浅い溜め息を着く。


「……先生みたいになりたかった。なにかが欠けてても、それを覆せるくらいのなにかが、才能が、欲しかった。

でも私、全然普通で。

平凡で、何にもないんです。特別頭がいいわけでも、ましてや美術で秀でたものがあるわけでもない」

制服の袖口を目に押し当てる。涙の気配を消すように、強く、強く押し当てた。胸がチリチリと音を立てて焼ける。

先生は何も言わなかった。落ち着くまで、たいして時間はかからなかっただろうか。

月は依然として、私を照らし続けていた。

「言っとくけど、俺なんか全然羨ましくねぇよ」

面倒くさそうに言う声が、静かに響く。

「頭よくたって、教育学部出てたって、あっちこっちから批難の声だ。見た目こんなで、しかも生徒相手にこの物言いだしな。大学の時なんか、腐るほど嫌味聞かせられた」


片方の口端を上げて、自嘲気味に笑う。

ポケットから携帯電話を取り出す。

薄い闇の中、青白い光が点滅を繰り返していた。

二つ折の携帯電話を開くと、小さく舌打ちをして耳に当てる。


「あー、教頭センセイ?はい、3階まで鍵確認終わりました。

ははは、すいませーん。今すぐ戻ります」


短い会話を交わして、携帯をパタンと閉じる。はぁー、と大袈裟に溜め息を着き、

「鍵確認すんのに何分かかってんだ、だってさ。

俺、今日当番なんだよね。あの教頭、結構気短いよな」

いたずらっぽく笑うと、くるりと背を向け、出口へ歩き出す。

「じゃー、鍵閉めるから。紺野サンももう帰りなさい。あ、チャリだっけ?」

軽く振り返り、目で早く来いと促される。

「あ、はい。そうです」

私が出たのを確認し、屋上のドアを閉める。錆び付いた音が大きく響く。


「もう一度言っとくけど、フツーならここ、立入禁止だからな。

誰にも言うなよ。

特にセンセイ方には。面倒だから」

形のいい眉がしかめられる。微かに笑みが込み上げた。

「わかってます。私だって面倒なことは苦手なんです」

ふ、と鼻で笑う。

「よし。じゃ、気をつけて帰れよ。下校時刻、とっくに過ぎてる」

そう言って、ふっ、と真顔になった。

逸らせないほど、真っ直ぐな、教師の顔が目の前にはあった。


「芸術とかはよくわかんないけどさ、俺はお前の絵好きだよ。

廊下とかに飾ってあるやつとか、素直にすげぇって思うし。感動する。

ま、他人がどうこう言ったって、お前、実は結構頑固みたいだから、納得しないだろうよ。

俺が言えた口じゃないけどさ。

じゃあな」


大きな手をひらひら振って、背を向けて歩いていく。

細長い背中が遠ざかる。


「先生、」


かすれていた。

熱い思いが胸を焦がして、なんだか痛い。


「私、教師になりたい。

美術の、先生になりたい」


細長いシルエットが立ち止まる。表情はわからない。


「――いいんじゃん?」


闇の中で、

静かに笑う気配がした。



[END]


諦めないで前に進もう。

夢を馬鹿にされたって、負けないで。

夢の先、叶った未来にいる自分。

よくがんばった、って言えるように。

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