朔
九条龍匡 十六歳
鈴 十五歳
「ねえ?鈴」
彼は其の呼び声で
優しく私の鼓膜を揺らすのです
九条家の最北端に位置する座敷。
夏でも薄暗く、空気が冷たい。
其処があの方の唯一の居場所で御座います。
その方の名は九条 龍匡。
れっきとした九条家の三男坊であられます。
そんな彼が何故、座敷牢の様なこの部屋に追いやられているのか・・・
理由は一つ。
彼は結核を患っていらっしゃるからなのです。
結核は死に至る病として名高い。
伝染病であるため、患者は原則隔離。
そして・・・
“伝染病患者”が家に居ると知られる事で
旦那様は九条家の評判が落ちる事を大層危惧された。
龍匡様は人目に付かないこの部屋でしか
生きる事が出来なくなって仕舞ったので御座います。
龍匡様が此の部屋に入れられたのは十四の時。
幼い頃からお身体が弱く、病気がちであった龍匡様は学校に通われた事が無い。
でも彼は読書がお好きで、御自分お一人で勉学なさって居ます。
時折、この私に教えて下さる事も御座います。
龍匡様の御蔭で、平仮名、片仮名、そして簡単な漢字も読める様になりました。
今度は珠算を教えてあげる、とも言って下さいました。
それも、笑顔で。
私は龍匡様に感謝しても仕切れません。
この様な身分の卑しい女中に御親切にして下さるのですから。
彼の神の様に善良な心は、此の部屋で育ったとは思えませぬ……
私は家が酷い貧乏だった為に、学校に通う事も出来ませんでした。
毎日毎日仕事をしても、暮らしは困窮するばかり。
そして私は、この九条家に奉公に参りました。
しかし女中として、といえど私は下賤な上に当時は方言も強く、
家庭女中として働く事を拒まれました。
そこで、人目に付かない龍匡様の世話係を仰せつかったのです。
当初、私には龍匡様が結核だとは知らされておりませんでした。
もとい無知な私は、貴族のご子息の世話係を任された…という事に畏れておりました。
私が龍匡様に初めてお目に掛かった時、
彼は大きな瞳を細めて、やわらかく微笑んで下さいました。
病の為に肌は白く、差し出された手は華奢で―――――
私が彼の冷たい手を握り返すと、もう一度やわらかく微笑んで下さいました。
その時私は、ずっとこの方のお傍に居ようと、心に決めたのです。
「ねえ?鈴」
「何ですか?龍匡様」
「その手、如何したの」
「え、あ…これは、硝子で切ったんです」
「そう…最近、怪我多いね。其処も擦り剥いてるし」
「これ、は転んだんです。物が置いてあったの、気が付かなくて」
「若しかして、鈴……目悪いんじゃ」
「え……!」
「大変だ。眼鏡が必要だね」
「い、いいえ!そんな、良いんです、私が気を付ければ良いだけで…」
「鈴は危なっかしいから、必要でしょう」
「それは、えっと…」
「良いんだよ。それより、気を付けるんだよ」
「はい……済みません」
「あ、」
「何ですか?」
「鈴、こっちにおいで」
「えっ、は、はい」
「座って、目瞑って」
「…?」
「直ぐ終わるから、じっとして居てね」
「はい……え、あの…龍匡様?」
「何?」
「あの……何を為さって居るのでしょうか…?」
「前髪、切ってる、鈴の」
「な……!」
「こら、鈴、じっとしてって言ったでしょう」
「ええっ、何故…」
「だって、前髪が伸びて居たし。
折角女の子なんだから、顔を隠しちゃ勿体無いよ」
「そんな、いいんです私、唯の女中だし…美人でもないし」
「鈴の瞳、綺麗だと思うよ、僕は」
「えっ…いや、それなら龍匡様の方がお綺麗です!
二重だし、目も大きいし…私は、一重ですし」
「綺麗な瞳なんだから、髪で隠さない方がいい」
「………龍匡様」
「ねえ?鈴」