眼窩の焔
薄闇の中で、白い肢体が眩しい。
しなやかに伸びた手足は、その年齢の割にひどく蠱惑的である。
まだ幼さを強く残す顔には表情こそ無いが
薄く開かれた唇は熟れた果実の様に赤い。
その唇を、男が塞ぐ。
男の指が、白亜の肌を滑る。
一見優しく見えたそれは、決して穏やかな愛情の下で行われたものでは無かった。
男は懸命に、その内に荒れ狂う欲望を抑え付けていたのである。
そうだ―――――――
これは最早愛情では無い………動物的な欲望なのだ………
男は真っ当な家庭に生まれ、医者という真っ当な職に就き、真っ当な女と婚約した。
そして死ぬまで真っ当な人生を歩んでいくつもりだった。
………それが有栖川清一の運命である筈だった。
しかし、その運命の歯車は目の前の少女によって狂い始めている。
細雪、
男の薄い唇が少女の名を紡ぐ。
何時からこの子をそう呼ぶ様になったのであったか―――
ああ、忘れていた…
注意しなければいけない人物の事を……
あの非の打ちどころの無い紳士にそのような趣向が有るとは思えないが、
彼は美しく賢いだけの男では無い―――――気がするのだ。
極偶にだが…その眼窩の奥底に烈しい情念の焔を垣間見る時がある。
それは冷艶的であり、時に猟奇的な程であった。
そして同時に、彼の魅力を一層引き立ててもいた。
細雪を保護してまだ間もない頃であった。
「大方回復してきましたから、あと二、三週間で退院出来るでしょう」
「それは良かった。余り長引くと学業に支障が出るものでね」
目の前の紳士はどこか素っ気なくそう零した。
現在、彼の次男坊は肺炎でこの病院に入院しており、
彼は見舞いにやって来たのであった。
しかし、見舞いというよりは様子を見に来た、という方が正しいかもしれない。
第一、九条家の当主が態々病院まで足を運ぶのも珍しい。
更に、息子には少し顔を合わせただけで後は病院内を歩き回っている。
一言で言えば、不可解――――
そして、予期せぬ事態が起こった。
細雪と彼が対面して仕舞ったのである。
その当時の私は、細雪を保護したはいいものの
彼女の素性どころか名前すらも分かっていなかった。
彼女はまだ十かそこらの、標準より小さい、唯の女の子であった。
自分の方も、患者が多いこともあり、多忙であった為に
すぐに彼女に対して適切な処置が出来ず、取り敢えず入院患者と同じように扱っていた。
しかし、父が受け持つ内科に入院させるには少々面倒があったのと、
精神病の疑いも少なからずあったので、自分の精神病棟に預かる事にした次第である。
他人に危害を与える危険のある患者は閉鎖病棟の方であったし、
看護婦なども巡回していることから、彼女は昼間は中庭で遊ばせていた。
……そこで、九条氏と対面したのであった。
細雪は中庭にある長椅子に腰掛け、その乳白色の両足をぶらぶら揺らしていた。
背の高い九条氏はそのすらりとした体躯を折り曲げ、
彼女の顔を覗き込み、何か話し掛けている様であった。
……私は奇妙な感情に襲われた。
それというのも、九条氏の態度が常時とは違っていたからである。
普段の彼は、感情をその整った貌に浮かべる事が皆無なのだが
細雪を前にした彼の表情には確かに、何か感情が渦巻いていた。
驚きか?動揺か?喜びか?悲しみか?
混沌としたそれは読み取れなかったが――――――
「おや、こんな所にいらっしゃいましたか。
ここは精神病の患者に解放している中庭でして。
あまり見舞客の方々の散歩はご遠慮いただいているのですが」
「ああ、申し訳ない。少し興味が湧いてしまってね。
………ところで、この子は?」
(その時彼の眼窩の奥底に烈しい焔が見えた)
「ああ、その子ですか。
××川の近くで彷徨っている所を僕が保護したんですが、
余程辛い事があったのか、
まともに話せないので素性どころか名前も分からない子でして。
精神病の疑いもあるので、精神科病棟で面倒を見ているんです」
「ではこの子は孤児、ということですね?」
「その可能性は高いですが、確認のしようが無いもので」
「ほう。名前も分からないのでは、大層お困りでしょう」
「そうなのですよ。せめて名前だけでも教えて呉れると良いのですが…」
「では、私が決めても構いませんかね?」
「……はあ、」
「……………ゆき、
細雪、細雪で如何でしょう?」