憑依
「小雪、お前変態やなあ」
澄んだ低い声で、彼は囁きました。
それは何時も、私の鼓膜を震わせます。
官能的な彼の吐息は、モルヒネの様に私に作用するのです。
耳元で囁かれるだけで、身体が痺れて動けなくなります。
―――――来る。
近い、と思いました。
「いくで、」
ああ、もう死んでもいい、
この儘彼の中に融けて仕舞いたい……
上り詰めた時、いつも私はそう思います。
詰まらない恋愛小説の受け売りの様ですが
彼は私の全てなんだと、身体で感じるのです。
彼以外に何も要らない……
私の中では神ですら彼を凌駕し得ないのです。
「ねえ、夾さん」
「何や?」
「夾さんの声、好きよ」
「そりゃどうも」
「夾さんとの閨も」
「小雪、あんさんはほんま変わった女やな。
恥ずかしげも無くそないな事言うなんてなあ」
「あら、どうして?好きなものを好きと言っているだけよ」
「男は恥ずかしがったり慣れてない様な、素人っぽい女が好きなもんやで」
「夾さんもそうなの?」
「俺はそこらの男とは違うさかいに、そんな女は詰まらん」
「私もそこらの女とは違ってよ」
「ハッハァ。お前みたな女、初めてやわ。
清楚げな見た目の癖に中身はド変態やさかい、流石の俺でも驚いたわ。
精々、病気には気ィ付けるこッちゃ」
「もう、帰るの?」
「あァ。じゃあな」
夾さんは帰る時、決して「またな」と言いません。
何時もと同じあの冷たい眼で一瞥、「じゃあな」と遺してゆくだけ。
でも私にはそれが、ああ、堪らないのです。
心の臓が熱く波打ち、恍惚としたヴェールに包まれるのです。
…彼は嗜虐的な男です。
そしてそのサディスティックな性質は、床でも同じ様に現れるのでした。
彼は何時も私を、乱暴に抱きます。
彼とのそれは、痛みと快楽が混濁した――――――本来のそれよりも高尚なものでした。
私は何時も痛みに悶え、叫び、そして快楽に喘ぐのです。
………ああ、堪らないのです。死にたくなる程に。
夾さんが帰った後、店の裏庭に向かいました。
特飲街はどこも店がひしめき合っていて、庭を作る余裕も無いのですが、
【スカーレット】には反対側への抜け道が通っていて、
其処に一本の花水木が生えた、小さな庭が有るのでした。
今日は珍しく、先客がありました。
癖毛でふわふわとした髪が印象的な、彼女でした。
「今晩は」
「あんた、誰だったっけ?」
「小雪です。そう云えば、直接お話しするのは初めてです」
「ああ、夾ちゃんのお気に入りの子ね。
凄いね、あの夾ちゃんを」
康江さん、
皆からは「やっちゃん」と呼ばれている、この店の売れっ妓です。
とろんとした垂れ目が、私を見て微笑みました。
以前より少し痩せた様で、膨らんだスリーブから覗く腕が細くか弱げでした。
「ねえ、あんた此れ欲しい?」
「これって、」
「あんた知らないの?ヒロポンだよ」
『ヒロポン 徐倦覺醒剤 500錠入』
そう言うと康江さんは、苔みたな色をした瓶を私に見せました。
此れがあの、“元気の薬”……
「ほら、この仕事って辛いでしょ?
私はいつも店に出る前に飲むの。
そうするとね、男に抱かれるのが苦じゃなくなって、寧ろ楽しい位になるのよ。
徹夜だって出来るし、お喋りも上手くなる。
私が売れっ妓なのはヒロポンのお蔭なの」
「でも、体に悪いのでしょう?今だって、お顔が蒼白だわ」
「そんなの、構わやしないわ。
一度捨てられた身だもの。
でも……ウフフ、
生きるために辛ァい仕事をしてきたけど、それももういいの。
ヒロポンももう必要ない。
今日は飲んでないのに、すごく気分がいいのよ。
フフ、何故か分かる?
もう終わったからよ。私も、あの人も!」
今日はヒロポンを飲んでいないとは言っても、中毒の為か、
彼女の眼は焦点が合わず、何処かを漂っていました。
しかしその眼には、焔の様な、濁流の様なものが渦巻き――――――――
口元には不可思議な笑みが浮き上がっていました。
それが細い二の腕と共に暗い美しさと為って、彼女に憑りついていました。
そんな彼女に気圧され、ふいに庭へ目を向けると、
花水木の根本に十字架が刺さっていました。
……然し、それは私の見間違いで、
正しくは錆び付いたスコップでした。
そして私は次の日の朝―――――
新聞で再び、その光景と彼女の名とを、目にするのでした。