移リ香
(仄暗い愛情に変わらぬ内に)
いつか好きだと言えたなら、笑って答えてくれますか
「おい、」
背後から、敵意に満ちた声を投げ掛けられた。
ああ、これは相当怒っているな。
「虎太郎か、何だい?」
「何だ、じゃない、お前さっき細雪に何した」
「ああ。抱擁の事かい?
“唯の”兄妹なんだし、咎められる理由は無いだろう?」
「は、つくづくお前は嫌な奴だな。
まあ良い、僕の方が細雪の事を知っているんだから」
「………どう云う意味だ?」
その時の弟は、どこか常時と違っていた。
僕に対する台詞が刺刺しいのはいつもの事であるが、
彼は何か幽艶な、ある種の色気を纏っていて、
背筋が冷たくなるような冷酷な魅力を感じさせた。
そして余裕があり、勝ち誇ったような態度であった。
彼の意味深な言葉に、その場は神妙な空気に包まれた。
僅かに、伽羅の香りが漂う。
(その香りは彼を安心させた)
「その儘の意味さ。
ははっ、今日は気分が良い。
この辺にしといてやるよ」
「……?っ、虎太郎、」
「ああ、そうそう。
あの“モモの花”は未だ咲いていたよ。
まあ…お前は一生見る事は無いだろうがな」
繁華街から少し離れた、静かな町。
その一角にある文化住宅のアトリエ。
甘い芳香がねっとりと、部屋を包んでいる。
「アリス」
甘く気怠い声が彼女を呼んだ。
彼は暫く向き合っていた絵から離れて、愛猫を愛撫し始めた。
長い指が灰色の毛皮の上を滑る。
“露西亜の青”だ。
「なあに、」
「こっちおいで」
「何?まだ着替えの途中よ」
「良いじゃないか、シュミーズだって、裸だって。
そう云う仲だろう?」
「そういう仲って何よ!
まだそういう仲になった覚えは無いわ」
「あれ、そうだったかな」
「貴方にはそう云う仲の女が沢山居るんでしょうけど、
私を其れと一緒にしないで」
「……じゃあ、これから為ろうか?」
「ちょっ、待って、」
彼は先程まで横たわっていたソファから立ち上がり、
西洋風な衝立の向こうの彼女を背後から抱き締める。
繊細なレースのシュミーズから覗く肌は
寒さの所為か更に白く、青い静脈が透けて見える。
編み下げを解いた、柔らかいウェーブの髪から仄かに白檀の香りが漂う。
この家の主である有栖川優作が好んで、よく焚いている香である。
腕の中の美貌の少女、九条凜子は
この家に足繁く通っている為に、香が映ったのか。
「僕は構わないよ、アリス?」
「……っ駄目、未だ、」
「未だ?じゃあ後どの位待てば良い?」
「…貴方が真面目になってからよ」
「やれやれ、それじゃあ僕達はいつ迄もこの儘かな?」
「そうよ、ずっとこの儘よ。ずっと、ずっとだわ」
彼女の言葉は興奮や悲しみを感じさせるような
決して強いものではなく、あくまで静かなものであった。
背後から彼女を抱く彼からはその表情は見えない。
五感で感じ取れるものは、柔らかな体温と、辺りに漂う甘い芳香だけだった。
立ち込める静寂の中、
洒落た硝子の燭台で、白檀が静かにはぜていた。
L.2 『東の僕とサーカス』様