薇
有栖川清一と優作の両親
有栖川正明とその妻
約十年前、吉原遊郭にて。
それにしても凄い人の数だ。
今夜は久し振りに、この吉原で花魁道中が行われるのだという。
確りと立っているのも骨が折れる程の群衆、
男が圧倒的多数だが、今夜は女の姿もちらほら見える。
普段花街になど来る筈も無い様な、
上品な着物の貴婦人やみすぼらしい貧乏人まで、様々な階級の人間が居る。
赤い不夜城は、異様な喧噪に包まれていた。
その正体は或る玄人女の姿を待ち望む、期待と興奮である。
吉原だけでなく娑婆に迄もその名を轟かせる遊女―――――――
彼女の名は――――― 苑花魁
やがて群衆の隙間から赤い番傘が見え、一行が近くなってきた。
こんなにも人が多いというのに、辺りはしんと静かで、鈴の音が響くのみ。
誰もが真赤な番傘の下に視線を集中させていた。
馥郁たる香りが、その場を、その時をも包んでゆく。
歩く度に鼈甲の簪が月夜に煌めき、
絢爛豪華な着物を身に着けた肩が動く。
提灯の明かりに照らされ、細い首筋や美しい額が白く浮かび上がっている。
血の様に紅い小さな唇、蠱惑的に輝く双眸。
彼女の全てが、群衆を魅了し、言葉を発する隙も与えなかった。
彼女の魔力に囚われたかの様に、彼らは微動だにせず、瞬きすら忘れ……
やがて群衆の隙間に赤い番傘が見えなくなった時、誰かが口を開いた。
それは魅惑の時空から現実へと引き戻す女の声であった。
…彼の、妻の高い声であった。
「……綺麗、だったわねえ」
「…ああ………」
相手の男、有栖川正明は短く答えた。
束の間の魅惑の時空を惜しむかの様に。
「さ、花魁道中も見れた事だし、帰りましょう。ね、正明さん」
「…ああ……」
男は小奇麗な三十路の妻には目もくれずまた同じ事を言った。
その二つの眼は何処か遠い時空を彷徨っている様だった。
「ああ、また馴染みが付くね。苑姐さん。相変わらず凄いなあ」
涼しげな声で、彼女は感心したように呟いた。
切れ長で、少し吊り上った瞳が魅力的である。
その名を紫、苑と同じ雪治屋の花魁である。
すぐそばできちんと正座した禿が答えた。
ただしその細面は、先程道中で見物客を魅了した花魁と瓜二つである。
「どうされんしたか」
「道中見た男がなあ、また姐さんに心酔してはったんよ。
隣に上品な奥様が居るってえのに、ぼーってして。
身なりもええし、上客やなあ」
「上客?」
「そう。銭離れのええ客の事や。
苑姐さんは道中のたんびに客が増えるっちう訳。
唯の見物客やった筈が、常連客になってくれはるのさ」
「紫姐さんにも、おる?」
「ふふ、いなけりゃお職の花魁になれやしいひんよ。
……紫呉、ほれ、近くにおいなあ」
「あい」
女は、少女の頬を手の平で包む。
少女はその体温に僅かに身震いした。
……冷たい手だった。
「ほんにまあ、きれいなお顔。
苑さんがそんまんまちぃちゃくならはったよう。鈴みたいな声も可愛い。
和歌も三味もまだまだやけど、姐さんに任しとき。
あんさんはうちが絶対、吉原一の花魁にしたる」
「おいらんになったら、誰もうちを苛めん?」
「あほ。苛められる訳ないやないの。皆紫呉に逆らえへんよ」
「紫苑姐さんは?」
「そやなあ、あんたが道中張ったら、見に来てくれはるかもしれへん」
「じゃあ、姐さん、約束」
「…約束。ふふ、針は飲みたないなあ」