罅
次女 九条細雪 十六歳
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三度目の床花に雪薔薇を
貴女の美しい肌と同じ
それはそれは真白な花弁の灰殻な花です
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20世紀日本
大正××年春
「左様なら」
空は碧く澄み渡り可憐な桜の花弁が舞っている。
歩く少女の長い髪と結ばれたリボンが風に揺れる。
コツコツコツ… 今時の革靴特有の軽快な足音を響かせ、彼女は歩いていたが
軈て其れが活劇場の前で止まった。
如何やら今日はメリー・ピクフォードの活劇をやるらしい。
そして少女は劇場に入ろうか入るまいか迷っているようだった。
頻りに中を覗いている。
そんな小さな背中に男が近づき―――
「 御嬢さん、此をご覧になるんですか?」
「えっ、」
「…や、これはこれは。貴女は九条の…細雪お嬢様では?」
「ええ、そうですけれど……」
見たところ二十代前半だろうか。男は仕立ての良い洋服を纏ったモボである。
彼はいかにも柔和そうな微笑を一層深くした。
「是は失礼。…イヤイヤ。九条家は美人揃いと聞いたが、成程、実に美しい方だ。
僕は佐々木と云います。良かったらご一緒に………」
「 細雪さん 」
ペラペラ話すモボが話終わらぬ内に
聞き覚えの無い、やわらかな響きの声がそれを遮る。
その声の主は何ともうつくしい青年であった。
スラリと背が高く線の細い彼は、黒檀の髪を風に靡かせ―――――
貌の良い唇には微笑を湛えていた。
その姿は只ならぬ存在感を持って活劇場の前に在った。
「 な、何だね君は……この方の知り合いかね?」
「 そうですよ。細雪さんの兄の友人です。
令嬢に気安く声を掛けるとは…不躾ではありませんか?」
「 す、少し、挨拶をしただけだ…!」
突然現れた青年の恐ろしい程の美しさに気圧されたのか、
モボは捨て台詞を残してさっさと雑踏の中に姿を消してしまった。
「嫌ですね、最近の銀座はああいうのが多くて」
少女はモボが消えた雑踏を見つめていたが、
青年の声に向き直り、リボンで二つに結わえた頭を下げた。
「…ご親切に有難う御座いました。あの…兄のご友人だとか…?」
「はい、学校が一緒でしてね。虎太郎から貴女のお話は聞いています。
それと、失礼…初対面なのに御名前を呼んでしまって。
虎太郎の大切な妹君が軟派されているのを見つけて、咄嗟に口から出て仕舞いました」
「そんなのは全然お気になさらないで下さい。
…それより、私が一人で劇場に来たこと、兄には内緒にして下さいね」
「はは、勿論。 ……おっと、挨拶が遅れましたが、
僕は松方葉一と申します。
…………以後宜しくどうぞ、御令嬢」
そう云って彼は優しく微笑んだ。
なんと心地の良い声だろう…………
鼓膜が甘く痺れる様な――――――
「私、は………」
「人の妹に手ェ出すな」
葉一とはまた違う、凛としていて、そして
幾らか敵意を含んだ声がそれを遮った。
何時の間にか其処には、書生の恰好をした美青年が立っていた。
折角の整った顔を歪め、さも不機嫌といった様子である。
「 ……虎太郎兄様?」
「細雪、あれ程一人で活劇を見に行くなと云っただろう。
案の定おかしな男に絡まれる始末だ。…然も二人も」
「おや、僕もですか」
「当たり前だ。お前も似た様なもんだ」
「失礼な、僕は女性を差別し無いだけです」
「それが来るもの拒まずの女垂らしってことじゃないのか」
「逆に僕は女性のお誘いを無下にする虎太郎が理解出来ませんね。
冷た過ぎなんですよ、妹さん以外には。然う云えば昨日も……」
「昨日?何だそれは」
「ほら、カフェの女給の。名前は…」
「!知るか。大体カフェだってお前に無理矢理連れて行かれたんだ」
「虎太郎、君は顔は良いんですから口悪いの直せばもてますよ」
「お前はその腹黒直せ。…細雪、帰るぞ」
「あ…」
そう云うと虎太郎はさっさと歩き出してしまった為、細雪も追いかけようとしたが
不意に、彼と視線が重なった。
「……左様なら、細雪さん。また。」
「……左様なら、葉一さん」
そして細雪は背を向けて歩き出したが
“彼”は彼女の心から消え得なかった
仄かな熱い痺れを持つ火傷痕の様に―――――――