大豊作だったのに飢饉が発生しました。王国の倉庫は満杯なのですが?
# 豊作なのに飢饉ですか? 王国の倉庫には食料が山ほどあるそうですが
「王都で餓死者が出ました」
その報告を聞いたとき、私は書類に押しかけていた印章を止めた。
「……もう一度お願いします」
「昨日、王都の南区で老人が一人。衰弱による死亡と報告されています。食事を十分に取れていなかったようです」
私は印章を置いた。
ここは王国食糧管理局。
私はその監査官として、各地の穀物備蓄と流通状況を調べる仕事をしている。
そして今年、王国は建国以来と言われる大豊作を迎えていた。
「備蓄量は?」
「王国全体で、平年の一・五倍です」
「王都の倉庫は?」
「ほぼ満杯です」
「市場価格は?」
「昨年の三倍近くまで上がっています」
「……は?」
私は思わず間の抜けた声を出した。
倉庫は満杯。
食料は十分にある。
なのに、市場ではパンが買えず、餓死者まで出ている。
「一体、何が起きているんですか?」
報告に来た若い職員は、困り果てた顔をした。
「それを調べていただきたく、監査官に報告が回ってきたのです」
なるほど。
つまり、私の仕事というわけだ。
◇
最初に向かったのは、王都最大の穀物市場だった。
「小麦一袋、銀貨十二枚!」
商人の声が響く。
私は思わず足を止めた。
「十二枚?」
「そうだよ、お嬢さん。買うなら早くしてくれ。明日にはもっと上がるかもしれない」
「去年は四枚だったはずですが」
「去年はね」
商人は肩をすくめた。
「去年は麦が余っていた。どこの農家も売り先を探していたんだ。ところが今年は入荷が少ない。俺だって仕入れに苦労してるんだよ」
「王国は大豊作だったと聞いていますが」
「去年の話だろ?」
「……え?」
「去年は大豊作。今年の収穫はまだ先だ。去年の麦が市場に残っていないんだよ」
私はようやく、最初の勘違いに気づいた。
大豊作だったのは昨年。
現在は、その翌年の収穫前だった。
「去年、農家はどうしたんですか?」
「安すぎて売れなかったんだよ。運賃を払ったら赤字になるような値段だったからな」
「それで?」
「今年は麦を作る農家が減った。豆や飼料作物に切り替えたところも多い。そっちのほうが儲かるから」
当然の判断だった。
農家だって生活がある。
赤字になる作物を作り続ける義務などない。
「では、去年の余った麦は?」
「王国が買い上げたさ。備蓄用にな」
商人は王都の北側を指差した。
「あそこの大倉庫に山ほど眠ってるよ。俺たちには一粒も売ってくれないがね」
私はその方向を見た。
巨大な穀物倉庫が、王都の城壁沿いに並んでいる。
市場では人々が高い小麦を奪い合っているというのに。
すぐ近くには、食料が山ほどある。
◇
「放出できません」
倉庫管理官の答えは、予想どおりだった。
「理由を聞いても?」
「王国備蓄令です。備蓄穀物は戦争、天災、その他国王が認定する非常事態に限り放出できます」
「現在、王都では餓死者が出ています」
「承知しております」
「それでも非常事態ではないと?」
「私が決めることではありません」
管理官は疲れた顔で答えた。
「監査官殿。私も市場の状況は知っています。妻が毎日、パンの値段を嘆いておりますから」
「では、国王陛下に放出を申請すれば」
「すでに申請しています」
管理官は書類の束を取り出した。
そこには、何度も提出された備蓄放出の申請書があった。
いずれも却下されている。
「なぜ?」
「王国全体では、まだ食料不足と認定されていないからです」
「……なるほど」
王都の市場価格は高騰している。
しかし地方には、まだ穀物が残っている。
王国全体の収穫量と備蓄量を見れば、食料不足とは判断されない。
だから非常事態の宣言が出ない。
非常事態でなければ、備蓄は放出できない。
私は頭を抱えたくなった。
「それなら、備蓄令を改正するしかありませんね」
「何年かかると思っているのです?」
管理官は苦笑した。
「その間に、次の収穫が来てしまいます」
それでは遅い。
私は倉庫の奥へ案内してもらった。
巨大な建物の中には、袋詰めされた小麦が整然と積まれていた。
乾燥状態は良好。
害虫対策も行き届いている。
管理官たちは、きちんと仕事をしていた。
「立派な管理ですね」
「ありがとうございます。古い麦から順に検査し、傷んだものは飼料用に回しています」
「古い麦から?」
「はい。穀物にも保存期限がありますから」
私は立ち止まった。
「……では、古い麦は定期的に入れ替えているんですか?」
「もちろんです」
「どうやって?」
「廃棄、あるいは飼料用として払い下げます。その後、新しい麦を購入して補充します」
「食用として売らないんですか?」
「原則として、売れません」
「なぜ?」
「備蓄穀物の食用放出は、非常事態に限られているからです」
私は積まれた小麦袋を見上げた。
なるほど。
少しずつ、問題の形が見えてきた。
◇
翌日、私は食糧管理局の会議室にいた。
集まっているのは、倉庫管理官、財務官、農業担当官、そして流通組合の代表だ。
「備蓄を売却したい?」
財務官が眉をひそめた。
「監査官殿。備蓄令を読んでいないわけではないでしょうね?」
「もちろん読んでいます」
「ならば不可能だとわかるはずです」
「非常事態として放出するなら、そのとおりです」
私は書類を机に並べた。
「ですが、今回は非常放出ではありません。通常の備蓄更新として扱います」
「通常の?」
「はい。古い穀物を新しい穀物に入れ替えるのです」
倉庫管理官が首を傾げた。
「それなら、すでに行っていますが」
「現在は、食用に適さなくなったものを飼料として払い下げていますね」
「ええ」
「では、食用に適している段階で売却したら?」
会議室が静かになった。
「待ってください」
農業担当官が口を開いた。
「備蓄更新の際に食用穀物を売却することは、以前にも検討されています」
「でしょうね」
「しかし、備蓄量が一時的に減少します。新しい麦が届くまでに戦争や災害が発生したら、どうするのです?」
「その懸念はもっともです」
私はうなずいた。
この制度は、理由もなく作られたものではない。
王国の備蓄は、最後の安全装置だ。
平時の市場価格を下げるために、簡単に使ってよいものではない。
「ですから、先に新しい麦を購入します」
「……はい?」
「倉庫の空き容量を使い、まず新しい麦を確保する。その後、同量の古い麦を市場へ売却するのです」
財務官が即座に反論した。
「購入資金はどうするのです? 売却前に買うなら、二重の支出になります」
「そこで、今年の備蓄購入予算を使います」
「今年の購入予算は、すでに計上されていますが」
「その予算は、収穫後に新しい麦を購入するためのものですね?」
「そうです」
「では、購入時期を前倒しします」
農業担当官が難しい顔をした。
「今年の麦はまだ収穫されていませんよ」
「今年の麦ではありません」
私は市場調査の報告書を広げた。
「地方に残っている昨年産の麦です」
商人たちが王都へ運んでこないだけで、地方にはまだ穀物がある。
ただし、運賃が高く、王都の商人も十分な量を確保できていない。
「王国の備蓄購入は、大口契約です。各地の倉庫を使い、まとめて買い付ければ輸送費を抑えられます」
「しかし、それでは地方の麦を買い占めることになりませんか?」
流通組合の代表が尋ねた。
「その懸念もあります。ですから、地方ごとに最低流通量を残し、余剰分だけを購入します」
「それでも王都へ運ぶなら、商人が買う麦が減ります」
「王都へ運ぶ必要はありません」
私は王国の地図を広げた。
「地方で購入した麦は、そのまま地方の備蓄倉庫へ入れます。王都では、すでに保管している麦を市場へ売却します」
倉庫管理官が地図をのぞき込んだ。
「……つまり、備蓄の総量を変えずに、保管場所と中身を入れ替える?」
「そうです」
王都の古い麦を売る。
地方で新しい麦を買う。
王国全体の備蓄量は維持する。
しかも、王都の市場には大量の麦が供給される。
農業担当官が腕を組んだ。
「しかし、王都の備蓄が減ります。王都で災害が発生したら?」
「そこが最後の問題です」
私はもう一枚の書類を取り出した。
「王都の備蓄は、現在、規定量を大幅に超えています」
昨年の大豊作で、王国が大量の麦を買い上げたためだ。
「王都の規定備蓄量を維持したまま、超過分だけを売却します。これなら王都の安全も損ないません」
財務官が書類を確認した。
しばらくして、顔を上げる。
「……数字の上では可能ですな」
「はい」
「ですが、一つ問題があります」
「何でしょう?」
「そもそも備蓄令は、食用穀物の市場売却を禁じています」
私はうなずいた。
「そこは、陛下の承認が必要です」
会議室に沈黙が落ちた。
やはり、最後はそこだった。
◇
「認められぬ」
国王陛下の返答は短かった。
私は玉座の前で頭を下げたまま、続きを待った。
「備蓄令は、先王の時代に定められたものだ。飢饉や戦争に備え、平時には決して手をつけぬ。それが王国の方針である」
「承知しております」
「ならば、なぜ変更を求める?」
「陛下。私は備蓄を減らしたいのではありません」
私は顔を上げた。
「備蓄を守りたいのです」
国王陛下の眉が動いた。
「どういう意味だ?」
「現在、王国の備蓄には大量の昨年産の麦があります。このまま保存を続ければ、いずれ品質が落ち、食用に適さなくなります」
「それは承知している」
「そのとき、王国は何をしますか?」
「飼料として払い下げ、新しい麦を買う」
「はい。しかし今なら、その麦は人間が食べられます」
私は書類を差し出した。
「王都では、食料を買えない人々がいます。王国はその人々の目の前で、食べられる麦を倉庫に眠らせています。そして数年後、食べられなくなった麦を安値で売るのです」
「……」
「私は、それが備蓄を守ることだとは思いません」
国王陛下は何も言わなかった。
「先王陛下が備蓄制度を作られたのは、民を飢えから守るためではありませんか?」
「無論だ」
「ならば、今こそ、その目的を果たすべきです」
私は続けた。
「ただし、規定量を下回ることはありません。王国全体の備蓄も減らしません。王都の超過備蓄だけを、品質が落ちる前に売却するのです」
国王陛下は長い間、書類を読んでいた。
やがて、静かに尋ねた。
「市場価格は、どれほど下がる?」
「正確な数字は断言できません。しかし、現在の価格高騰は供給不足が主因です。相応の量を放出すれば、価格の低下が見込めます」
「農家への影響は?」
「地方の余剰麦を適正価格で買い上げます。農家の収入にもなります」
「国庫への影響は?」
「売却代金で購入費の一部を回収できます。保管中の品質低下による損失も減ります」
国王陛下は玉座の肘掛けを指で叩いた。
一度。
二度。
そして。
「……よかろう」
私は息を止めた。
「王都の超過備蓄に限り、食用としての売却を認める。ただし、規定備蓄量は必ず維持せよ」
「ありがとうございます!」
「監査官」
「はい!」
「もし失敗すれば、責任はお前が負うことになる」
私は深く頭を下げた。
「承知しております」
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、何もしなければ、明日も誰かが空腹のまま眠る。
それだけは、もう見過ごせなかった。
◇
三日後。
王都の穀物市場に、王国の紋章を掲げた荷馬車が到着した。
「王国備蓄麦、販売開始!」
市場に歓声が上がった。
王国が放出したのは、保存状態の良い昨年産の小麦だった。
価格は市場相場より安い。
ただし、無制限に安売りするわけではない。
私たちは流通組合と協議し、商人が通常の利益を確保できる卸売価格を設定した。
市場そのものを壊してしまっては意味がない。
商人たちは最初こそ警戒していたが、すぐに買い付けを始めた。
「こんな値段で売ってくれるなら助かる!」
「これならパン屋にも卸せるぞ!」
「王国が直接売るんじゃないのか?」
「流通組合を通すそうだ。俺たちの仕事も残る!」
市場に活気が戻っていく。
そして、一週間後。
王都の小麦価格は、銀貨十二枚から八枚まで下がった。
二週間後には六枚。
一か月後には、五枚まで落ち着いた。
昨年の四枚には届かない。
けれど、パン屋が再び普通に営業できる価格だった。
「監査官殿!」
市場を視察していた私に、一人のパン屋の女性が駆け寄ってきた。
「これ、持っていってください!」
差し出されたのは、焼きたてのパンだった。
「え? でも、お代を……」
「いりません!」
女性は笑った。
「うちの店、先月までは閉めようかと思っていたんです。でも、またお客さんが戻ってきました」
私はパンを受け取った。
まだ温かい。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、こっちですよ」
女性はそう言って、店へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、パンを一口かじった。
……おいしい。
特別な材料を使っているわけではない。
普通の小麦で焼いた、普通のパン。
けれど、今の私には、これ以上ないごちそうだった。
◇
「監査官殿、朗報です」
翌月、食糧管理局の会議室で、財務官が笑顔を見せた。
「今回の備蓄更新、国庫の負担が当初予算より少なく済みました」
「本当ですか?」
「ええ。古い麦を食用として売却できたため、飼料として払い下げる場合より高く売れました。新しい麦の購入費を差し引いても、例年より有利な更新になっています」
倉庫管理官もうなずいた。
「倉庫の管理も楽になりました。品質が落ちる前に入れ替えられますから」
農業担当官が続ける。
「地方の農家からも感謝されています。昨年の売れ残りを適正価格で買い上げてもらえた、と」
「それは何よりです」
私は心からそう答えた。
もちろん、すべてが完璧になったわけではない。
今年の収穫が不作なら、また別の問題が起きるだろう。
市場価格も、毎年変動する。
けれど、今回の経験を踏まえ、王国では備蓄制度の見直しが始まっていた。
非常事態に限らず、規定量を維持したまま備蓄を更新できる仕組み。
品質が落ちる前に市場へ流し、新しい穀物を補充する仕組み。
そして、地方と王都の備蓄量を定期的に調整する仕組み。
どれも特別な魔法ではない。
ただ、今まで別々に管理されていた制度を、少しだけつなぎ直しただけだ。
「そういえば監査官殿」
財務官が不思議そうに尋ねた。
「最初にこの問題を見つけたとき、どう思われました?」
「最初ですか?」
「ええ。王都で飢饉が起きているのに、倉庫には麦が山ほどあると聞いたときです」
私は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「王国の人たちは、何をしているんだろうと思いました」
会議室に笑いが起きた。
「ひどい言い方ですな!」
「すみません。でも、本当にそう思ったんです」
私は笑った。
「ただ、調べてみれば、皆さんそれぞれに正しい仕事をしていたんですよね」
倉庫管理官は備蓄を守っていた。
財務官は国庫を守っていた。
農業担当官は農家を守っていた。
商人たちは、自分たちの商売を守っていた。
誰も、間違ったことをしようとしていたわけではない。
「でも、その全部を合わせた結果、王都では人が飢えていた」
私は窓の外を見た。
今日も市場には、人々の声が響いている。
パン屋の煙突からは、白い煙が上がっていた。
「だから、少しだけ、仕組みを変えたかったんです」
財務官がうなずいた。
「なるほど。これが監査官の仕事というわけですな」
「ええ」
私は机の上に置かれた、新しい備蓄更新計画書を手に取った。
「数字が合っているだけでは、駄目なんですよ」
窓の向こうでは、子供たちが焼きたてのパンを手に笑っていた。
私はその光景を眺めながら、静かに微笑んだ。
「その数字で、ちゃんと人が幸せになっているか。そこまで確かめるのが、私の仕事ですから」




