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大豊作だったのに飢饉が発生しました。王国の倉庫は満杯なのですが?

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/14

# 豊作なのに飢饉ですか? 王国の倉庫には食料が山ほどあるそうですが


「王都で餓死者が出ました」


 その報告を聞いたとき、私は書類に押しかけていた印章を止めた。


「……もう一度お願いします」


「昨日、王都の南区で老人が一人。衰弱による死亡と報告されています。食事を十分に取れていなかったようです」


 私は印章を置いた。


 ここは王国食糧管理局。


 私はその監査官として、各地の穀物備蓄と流通状況を調べる仕事をしている。


 そして今年、王国は建国以来と言われる大豊作を迎えていた。


「備蓄量は?」


「王国全体で、平年の一・五倍です」


「王都の倉庫は?」


「ほぼ満杯です」


「市場価格は?」


「昨年の三倍近くまで上がっています」


「……は?」


 私は思わず間の抜けた声を出した。


 倉庫は満杯。


 食料は十分にある。


 なのに、市場ではパンが買えず、餓死者まで出ている。


「一体、何が起きているんですか?」


 報告に来た若い職員は、困り果てた顔をした。


「それを調べていただきたく、監査官に報告が回ってきたのです」


 なるほど。


 つまり、私の仕事というわけだ。


◇


 最初に向かったのは、王都最大の穀物市場だった。


「小麦一袋、銀貨十二枚!」


 商人の声が響く。


 私は思わず足を止めた。


「十二枚?」


「そうだよ、お嬢さん。買うなら早くしてくれ。明日にはもっと上がるかもしれない」


「去年は四枚だったはずですが」


「去年はね」


 商人は肩をすくめた。


「去年は麦が余っていた。どこの農家も売り先を探していたんだ。ところが今年は入荷が少ない。俺だって仕入れに苦労してるんだよ」


「王国は大豊作だったと聞いていますが」


「去年の話だろ?」


「……え?」


「去年は大豊作。今年の収穫はまだ先だ。去年の麦が市場に残っていないんだよ」


 私はようやく、最初の勘違いに気づいた。


 大豊作だったのは昨年。


 現在は、その翌年の収穫前だった。


「去年、農家はどうしたんですか?」


「安すぎて売れなかったんだよ。運賃を払ったら赤字になるような値段だったからな」


「それで?」


「今年は麦を作る農家が減った。豆や飼料作物に切り替えたところも多い。そっちのほうが儲かるから」


 当然の判断だった。


 農家だって生活がある。


 赤字になる作物を作り続ける義務などない。


「では、去年の余った麦は?」


「王国が買い上げたさ。備蓄用にな」


 商人は王都の北側を指差した。


「あそこの大倉庫に山ほど眠ってるよ。俺たちには一粒も売ってくれないがね」


 私はその方向を見た。


 巨大な穀物倉庫が、王都の城壁沿いに並んでいる。


 市場では人々が高い小麦を奪い合っているというのに。


 すぐ近くには、食料が山ほどある。


◇


「放出できません」


 倉庫管理官の答えは、予想どおりだった。


「理由を聞いても?」


「王国備蓄令です。備蓄穀物は戦争、天災、その他国王が認定する非常事態に限り放出できます」


「現在、王都では餓死者が出ています」


「承知しております」


「それでも非常事態ではないと?」


「私が決めることではありません」


 管理官は疲れた顔で答えた。


「監査官殿。私も市場の状況は知っています。妻が毎日、パンの値段を嘆いておりますから」


「では、国王陛下に放出を申請すれば」


「すでに申請しています」


 管理官は書類の束を取り出した。


 そこには、何度も提出された備蓄放出の申請書があった。


 いずれも却下されている。


「なぜ?」


「王国全体では、まだ食料不足と認定されていないからです」


「……なるほど」


 王都の市場価格は高騰している。


 しかし地方には、まだ穀物が残っている。


 王国全体の収穫量と備蓄量を見れば、食料不足とは判断されない。


 だから非常事態の宣言が出ない。


 非常事態でなければ、備蓄は放出できない。


 私は頭を抱えたくなった。


「それなら、備蓄令を改正するしかありませんね」


「何年かかると思っているのです?」


 管理官は苦笑した。


「その間に、次の収穫が来てしまいます」


 それでは遅い。


 私は倉庫の奥へ案内してもらった。


 巨大な建物の中には、袋詰めされた小麦が整然と積まれていた。


 乾燥状態は良好。


 害虫対策も行き届いている。


 管理官たちは、きちんと仕事をしていた。


「立派な管理ですね」


「ありがとうございます。古い麦から順に検査し、傷んだものは飼料用に回しています」


「古い麦から?」


「はい。穀物にも保存期限がありますから」


 私は立ち止まった。


「……では、古い麦は定期的に入れ替えているんですか?」


「もちろんです」


「どうやって?」


「廃棄、あるいは飼料用として払い下げます。その後、新しい麦を購入して補充します」


「食用として売らないんですか?」


「原則として、売れません」


「なぜ?」


「備蓄穀物の食用放出は、非常事態に限られているからです」


 私は積まれた小麦袋を見上げた。


 なるほど。


 少しずつ、問題の形が見えてきた。


◇


 翌日、私は食糧管理局の会議室にいた。


 集まっているのは、倉庫管理官、財務官、農業担当官、そして流通組合の代表だ。


「備蓄を売却したい?」


 財務官が眉をひそめた。


「監査官殿。備蓄令を読んでいないわけではないでしょうね?」


「もちろん読んでいます」


「ならば不可能だとわかるはずです」


「非常事態として放出するなら、そのとおりです」


 私は書類を机に並べた。


「ですが、今回は非常放出ではありません。通常の備蓄更新として扱います」


「通常の?」


「はい。古い穀物を新しい穀物に入れ替えるのです」


 倉庫管理官が首を傾げた。


「それなら、すでに行っていますが」


「現在は、食用に適さなくなったものを飼料として払い下げていますね」


「ええ」


「では、食用に適している段階で売却したら?」


 会議室が静かになった。


「待ってください」


 農業担当官が口を開いた。


「備蓄更新の際に食用穀物を売却することは、以前にも検討されています」


「でしょうね」


「しかし、備蓄量が一時的に減少します。新しい麦が届くまでに戦争や災害が発生したら、どうするのです?」


「その懸念はもっともです」


 私はうなずいた。


 この制度は、理由もなく作られたものではない。


 王国の備蓄は、最後の安全装置だ。


 平時の市場価格を下げるために、簡単に使ってよいものではない。


「ですから、先に新しい麦を購入します」


「……はい?」


「倉庫の空き容量を使い、まず新しい麦を確保する。その後、同量の古い麦を市場へ売却するのです」


 財務官が即座に反論した。


「購入資金はどうするのです? 売却前に買うなら、二重の支出になります」


「そこで、今年の備蓄購入予算を使います」


「今年の購入予算は、すでに計上されていますが」


「その予算は、収穫後に新しい麦を購入するためのものですね?」


「そうです」


「では、購入時期を前倒しします」


 農業担当官が難しい顔をした。


「今年の麦はまだ収穫されていませんよ」


「今年の麦ではありません」


 私は市場調査の報告書を広げた。


「地方に残っている昨年産の麦です」


 商人たちが王都へ運んでこないだけで、地方にはまだ穀物がある。


 ただし、運賃が高く、王都の商人も十分な量を確保できていない。


「王国の備蓄購入は、大口契約です。各地の倉庫を使い、まとめて買い付ければ輸送費を抑えられます」


「しかし、それでは地方の麦を買い占めることになりませんか?」


 流通組合の代表が尋ねた。


「その懸念もあります。ですから、地方ごとに最低流通量を残し、余剰分だけを購入します」


「それでも王都へ運ぶなら、商人が買う麦が減ります」


「王都へ運ぶ必要はありません」


 私は王国の地図を広げた。


「地方で購入した麦は、そのまま地方の備蓄倉庫へ入れます。王都では、すでに保管している麦を市場へ売却します」


 倉庫管理官が地図をのぞき込んだ。


「……つまり、備蓄の総量を変えずに、保管場所と中身を入れ替える?」


「そうです」


 王都の古い麦を売る。


 地方で新しい麦を買う。


 王国全体の備蓄量は維持する。


 しかも、王都の市場には大量の麦が供給される。


 農業担当官が腕を組んだ。


「しかし、王都の備蓄が減ります。王都で災害が発生したら?」


「そこが最後の問題です」


 私はもう一枚の書類を取り出した。


「王都の備蓄は、現在、規定量を大幅に超えています」


 昨年の大豊作で、王国が大量の麦を買い上げたためだ。


「王都の規定備蓄量を維持したまま、超過分だけを売却します。これなら王都の安全も損ないません」


 財務官が書類を確認した。


 しばらくして、顔を上げる。


「……数字の上では可能ですな」


「はい」


「ですが、一つ問題があります」


「何でしょう?」


「そもそも備蓄令は、食用穀物の市場売却を禁じています」


 私はうなずいた。


「そこは、陛下の承認が必要です」


 会議室に沈黙が落ちた。


 やはり、最後はそこだった。


◇


「認められぬ」


 国王陛下の返答は短かった。


 私は玉座の前で頭を下げたまま、続きを待った。


「備蓄令は、先王の時代に定められたものだ。飢饉や戦争に備え、平時には決して手をつけぬ。それが王国の方針である」


「承知しております」


「ならば、なぜ変更を求める?」


「陛下。私は備蓄を減らしたいのではありません」


 私は顔を上げた。


「備蓄を守りたいのです」


 国王陛下の眉が動いた。


「どういう意味だ?」


「現在、王国の備蓄には大量の昨年産の麦があります。このまま保存を続ければ、いずれ品質が落ち、食用に適さなくなります」


「それは承知している」


「そのとき、王国は何をしますか?」


「飼料として払い下げ、新しい麦を買う」


「はい。しかし今なら、その麦は人間が食べられます」


 私は書類を差し出した。


「王都では、食料を買えない人々がいます。王国はその人々の目の前で、食べられる麦を倉庫に眠らせています。そして数年後、食べられなくなった麦を安値で売るのです」


「……」


「私は、それが備蓄を守ることだとは思いません」


 国王陛下は何も言わなかった。


「先王陛下が備蓄制度を作られたのは、民を飢えから守るためではありませんか?」


「無論だ」


「ならば、今こそ、その目的を果たすべきです」


 私は続けた。


「ただし、規定量を下回ることはありません。王国全体の備蓄も減らしません。王都の超過備蓄だけを、品質が落ちる前に売却するのです」


 国王陛下は長い間、書類を読んでいた。


 やがて、静かに尋ねた。


「市場価格は、どれほど下がる?」


「正確な数字は断言できません。しかし、現在の価格高騰は供給不足が主因です。相応の量を放出すれば、価格の低下が見込めます」


「農家への影響は?」


「地方の余剰麦を適正価格で買い上げます。農家の収入にもなります」


「国庫への影響は?」


「売却代金で購入費の一部を回収できます。保管中の品質低下による損失も減ります」


 国王陛下は玉座の肘掛けを指で叩いた。


 一度。


 二度。


 そして。


「……よかろう」


 私は息を止めた。


「王都の超過備蓄に限り、食用としての売却を認める。ただし、規定備蓄量は必ず維持せよ」


「ありがとうございます!」


「監査官」


「はい!」


「もし失敗すれば、責任はお前が負うことになる」


 私は深く頭を下げた。


「承知しております」


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、何もしなければ、明日も誰かが空腹のまま眠る。


 それだけは、もう見過ごせなかった。


◇


 三日後。


 王都の穀物市場に、王国の紋章を掲げた荷馬車が到着した。


「王国備蓄麦、販売開始!」


 市場に歓声が上がった。


 王国が放出したのは、保存状態の良い昨年産の小麦だった。


 価格は市場相場より安い。


 ただし、無制限に安売りするわけではない。


 私たちは流通組合と協議し、商人が通常の利益を確保できる卸売価格を設定した。


 市場そのものを壊してしまっては意味がない。


 商人たちは最初こそ警戒していたが、すぐに買い付けを始めた。


「こんな値段で売ってくれるなら助かる!」


「これならパン屋にも卸せるぞ!」


「王国が直接売るんじゃないのか?」


「流通組合を通すそうだ。俺たちの仕事も残る!」


 市場に活気が戻っていく。


 そして、一週間後。


 王都の小麦価格は、銀貨十二枚から八枚まで下がった。


 二週間後には六枚。


 一か月後には、五枚まで落ち着いた。


 昨年の四枚には届かない。


 けれど、パン屋が再び普通に営業できる価格だった。


「監査官殿!」


 市場を視察していた私に、一人のパン屋の女性が駆け寄ってきた。


「これ、持っていってください!」


 差し出されたのは、焼きたてのパンだった。


「え? でも、お代を……」


「いりません!」


 女性は笑った。


「うちの店、先月までは閉めようかと思っていたんです。でも、またお客さんが戻ってきました」


 私はパンを受け取った。


 まだ温かい。


「ありがとうございます」


「お礼を言うのは、こっちですよ」


 女性はそう言って、店へ戻っていった。


 私はその背中を見送りながら、パンを一口かじった。


 ……おいしい。


 特別な材料を使っているわけではない。


 普通の小麦で焼いた、普通のパン。


 けれど、今の私には、これ以上ないごちそうだった。


◇


「監査官殿、朗報です」


 翌月、食糧管理局の会議室で、財務官が笑顔を見せた。


「今回の備蓄更新、国庫の負担が当初予算より少なく済みました」


「本当ですか?」


「ええ。古い麦を食用として売却できたため、飼料として払い下げる場合より高く売れました。新しい麦の購入費を差し引いても、例年より有利な更新になっています」


 倉庫管理官もうなずいた。


「倉庫の管理も楽になりました。品質が落ちる前に入れ替えられますから」


 農業担当官が続ける。


「地方の農家からも感謝されています。昨年の売れ残りを適正価格で買い上げてもらえた、と」


「それは何よりです」


 私は心からそう答えた。


 もちろん、すべてが完璧になったわけではない。


 今年の収穫が不作なら、また別の問題が起きるだろう。


 市場価格も、毎年変動する。


 けれど、今回の経験を踏まえ、王国では備蓄制度の見直しが始まっていた。


 非常事態に限らず、規定量を維持したまま備蓄を更新できる仕組み。


 品質が落ちる前に市場へ流し、新しい穀物を補充する仕組み。


 そして、地方と王都の備蓄量を定期的に調整する仕組み。


 どれも特別な魔法ではない。


 ただ、今まで別々に管理されていた制度を、少しだけつなぎ直しただけだ。


「そういえば監査官殿」


 財務官が不思議そうに尋ねた。


「最初にこの問題を見つけたとき、どう思われました?」


「最初ですか?」


「ええ。王都で飢饉が起きているのに、倉庫には麦が山ほどあると聞いたときです」


 私は少し考えた。


 そして、正直に答えた。


「王国の人たちは、何をしているんだろうと思いました」


 会議室に笑いが起きた。


「ひどい言い方ですな!」


「すみません。でも、本当にそう思ったんです」


 私は笑った。


「ただ、調べてみれば、皆さんそれぞれに正しい仕事をしていたんですよね」


 倉庫管理官は備蓄を守っていた。


 財務官は国庫を守っていた。


 農業担当官は農家を守っていた。


 商人たちは、自分たちの商売を守っていた。


 誰も、間違ったことをしようとしていたわけではない。


「でも、その全部を合わせた結果、王都では人が飢えていた」


 私は窓の外を見た。


 今日も市場には、人々の声が響いている。


 パン屋の煙突からは、白い煙が上がっていた。


「だから、少しだけ、仕組みを変えたかったんです」


 財務官がうなずいた。


「なるほど。これが監査官の仕事というわけですな」


「ええ」


 私は机の上に置かれた、新しい備蓄更新計画書を手に取った。


「数字が合っているだけでは、駄目なんですよ」


 窓の向こうでは、子供たちが焼きたてのパンを手に笑っていた。


 私はその光景を眺めながら、静かに微笑んだ。


「その数字で、ちゃんと人が幸せになっているか。そこまで確かめるのが、私の仕事ですから」

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