01 日常の終わり
暗黒大陸─
血のように赤黒く染まった荒野に、知性を持たない狂暴な魔獣が跋扈する。
地獄に最も近い場所とも呼ばれるその世界は、果てしなく広がっていた。
魔人種の住処だ。
もっとも、このような土地を好んで住処にする種族などいない。
これは百年前の『祭』によってもたらされた、結果によるものだ。
魔人種にとって不幸中の幸いだったのは、
この荒廃した世界に微かな希望を見出し、
開拓を諦めなかった者たちがいたことだろう。
彼らは魔獣の行動や習性を分析し、知恵を持ち寄った。
安全な土地を見つけ、広げ、
表向きには平和と呼べる世界を築き上げることに成功した。
しかし、それはあくまで表面上の話に過ぎない。
暗黒大陸には、なおも手つかずの闇の世界が存在するのだ。
死の領域。
魔獣が湧き水のように現れ続ける、世界の果てと呼ばれる場所。
そこで魔獣を狩り、命を繋ぐ獣人種の母子がいた。
※※※
十五歳の少年は、物思いに沈んでいた。
今の生活は、生き物として正しい在り方なのだろうか。
「フェイ、どうした?大丈夫か?」
母の声が耳に届くまで、少年は気づかなかった。
この生活を一言で言えば、『命がけ』だ。
魔獣を狩り、解体し、食らう。ただそれを繰り返す日々。
初めて一人で狩りを任されたのは、十歳の時だった。
母から狩りの作法を丁寧に教え込まれていたとはいえ、
最後の一手を誤れば、深い傷を負っていたかもしれない。
あるいは、命を落としていた可能性すらある。
未知の魔獣を前に、母は言葉を発さない。
ただ少年を安全な場所に置き、
素早く狩りを終え、獲物を持ち帰ってくる。
屍肉に顔を寄せ、においを確かめ、
最後に、ほんの少量の肉を口にする。
それが、生きるための判断だった。
正直なところ、
母子揃って五体満足で生きていられること自体が奇跡だ。
「フェイ、しんどかったか?少し休むか?」
はっとして現実に引き戻される。
母の問いかけにも気づかないほど、考え込んでいたらしい。
「……いや。昨日の狩りで、少し気になることがあって」
咄嗟についた嘘は、我ながら出来が悪かった。
「本当?なんでも聞いて、お母さんが教えるよ」
無邪気な笑顔に、安堵と、わずかな呆れが同時に込み上げる。
母、ナタリア=フィローゼは、どこか抜けている。
狩りや戦いの知識に関しては疑いようもなく頼れるのに、
こと自分のことになると、驚くほど疑うことを知らない。
それでも最近、
母の表情に不安や焦りのようなものが滲む瞬間が増えた気がしていた。
この生活に疑問を抱いているのは、
本当に自分だけなのだろうか。
言葉にしてしまえば、
この二人の日々が終わってしまいそうな気がして、
少年はその思いを胸の奥へ押し込めた。
※※※
数日後─
二人は久しぶりに大物の狩りを終えていた。
十分な量を食らい、余った分は住処としている洞穴へと保存しておく。
だが、ここ最近の日々には、常に拭えない違和感がつきまとっていた。
今回の狩りもそうだ。
まるで何かに備えているかのような、不吉な予感。
母の表情、声色、行動のすべてから、それを感じ取ってしまう。
「あらら、まったく。こんな辺境に逃げ込んじゃってさ」
その予感は、的中した。
血色の大地には不釣り合いな、純白の服を纏った男が、唐突に現れた。
まるで昔からの隣人であるかのような落ち着いた口調で、こちらに語りかけながら。
「……!」
反射的に、母が動いた。
これまで一度も見たことのない形相で、男へと襲いかかる。
硬い甲殻を持つ魔獣すら一撃で仕留める、その手刀を。
「まぁまぁ、そんな顔しなさんな。綺麗な顔が台無しだぜ?」
耳元で、落ち着いた声が囁いた。
気づいた時には、男の姿は母の正面にはなく、背後にあった。
「──!」
母は踵を返し、叫びにもならない声を上げてこちらへ向かう。
その敵意が自分に向けられたものではないと、そう信じたかった。
だが、どんな魔獣を前にした時よりも強い警告が、
生存本能の奥底から鳴り続けていた。
その感覚を、優しく遮るように。
「……落ち着こうか。深呼吸、できるよね?」
男の声が、静かに響く。
次に意識を取り戻した時、
周囲の景色は、先ほどまでいた場所とはまるで違っていた。
「あ、あの……」
「フェイ君、だったかな?」
「……はい」
「おじさんはね、簡単に言うと君を迎えに来たんだ」
状況はまるで理解できていなかった。
それでも、ここ最近感じていた違和感を結びつけるには、十分だった。
「……話を、聞かせてください」
男は一瞬きょとんとした顔を見せ、
それから、おどけたように笑った。
「自己紹介からいこうか。
おじさんの名前はケイン。神様の使いさ」
「……神、様?」
「そうそう。グレイドっていう、ちょっと我儘な神様でね」
母が昔、教えてくれたことがある。
世界のどこかには、自分たちの及び知らない力を持つ存在がいるのだと。
話の大きさに追いつけずにいる僕を気にする様子もなく、
ケインは淡々と続きを口にする。
「神様はね、百年に一度、お祭りを開くことにしたんだ。
世界中の、いろんな種族を集めてさ」
そこで、男の口調がわずかに鈍る。
どこか気まずそうに、肩をすくめながら続けた。
「……なんだけどさ。
その我儘な神様が、ふと思っちゃったわけ。
どの種族が一番強いんだろう、って」
嫌な予感が、胸の奥で形を持つ。
「で、君には神様からご指名が入った。
だから、迎えに来たってわけ」
「……それで、ケインさんが」
「そうそう。あ、おじさんのことはケインでいいよ」
さっきまでの曇った表情が嘘のように、明るく笑う。
「そろそろ君のお母さんも落ち着いた頃だろうし、
戻って、三人で話そうか」
肩に手を置かれた瞬間、視界が反転する。
次に見えたのは、見慣れた洞穴の天井だった。
「──フェイ!!」
母が飛びついてきて、強く抱きしめる。
「大丈夫!? 変なことされてない!?」
泣きながらの問いかけに戸惑っていると、
ケインが間に入った。
「ナタリア殿。彼には、簡単な説明は済ませてある」
「……分かってる」
だが、まだ疑問は残っていた。
なぜ母は、最初から気づいていたのか。
なぜ、あれほど必死に抵抗したのか。
「……お母さん。
お祭りって、怖いところなの?」
空気が、固まる。
「……それは」
「いや、あんたから説明してやりなよ」
「え、えぇ……」
短い沈黙の後、母が一歩前に出た。
「……私から話す」
「『神位血種祭』。それが、その祭の名前よ。
種族間の序列を決める儀式……って聞いてる?」
「……なんとなく」
「実態はね、最高神の暇潰しよ。
命と誇りを賭けさせられる、戦場なの」
言葉が、頭に入ってこない。
力が抜け、指先が小さく震えた。
「祭が終わった後も、
参加した闘士は、ずっとその視線から逃げられない」
「いやいや、そこまで言うのは過激じゃないか?
当事者だった君の意見は尊重すべきだが……」
「彼が来てくれないと!
おれが、ものすごく困るの!!」
ケインの声が裏返る。
それよりも、引っかかった言葉があった。
「……当事者?」
「あ……」
母のため息。ケインの露骨な焦り。
嫌な予感が、確信へと変わる。
「百年前─お母さんも、闘士に選ばれたの」
─『第十回神位血種祭』開催まで、あと三夜─
作者コメント
作品完結目指してほどほどに頑張ります!




