やさしい私で在る為に
世界中の人間が、全員私みたいだったら。
絶対に戦争なんて起きないだろう。
『凪ちゃんはやさしい子ね』
そう言われて育ってきたし、実際そうだと思う。
だって、幼稚園の頃から、私はお友達と一度も喧嘩をしたことがないのだ。自分のことは後回しにして、いつも相手を優先してあげる、そんなやさしい子だった。
たとえば工作に使う色紙。好きな色があと一枚しか残っていなかった時には、我慢してお友達に譲ってあげた。
家に帰ってから、私も本当は水色が良かったのに……と泣いていると、ママが私の気持ちを幼稚園に伝えて、水色の色紙を貰ってきてくれた。
『凪ちゃんはやさしいから、自己中なお友達に何でも譲ってあげてしまうんです。気をつけて見てあげてくださいね』って。
かくれんぼの時もそう。みんな鬼をやりたくなさそうだから、私がずっと鬼でもいいよ、じゃんけんなんかしなくていいよって言ってあげた。
家に帰ってから、私も本当は隠れたかったのに……と泣いていると、ママがお友達とそのお母さんを叱ってくれた。
『凪ちゃんがやさしいからって、嫌なことを押しつけるのはどうかしら。お宅のお子さんも凪ちゃんを見習って、思いやりのあるやさしい人に育ててくださいね』って。
小学生になると、私はもっとやさしくなった。
たとえば、誰かがお友達の陰口を言っていたら、すぐに教えてあげた。
『鈴木さんがね、ゆうちゃんと一緒に遊びたくないって言ってたよ。ゆうちゃんが汗っかきで気持ち悪いんだって』
可哀想に、ゆうちゃんは傷ついて泣いてしまった。
陰口を言う子なんて最低だよね。
中学、高校と年齢が上がるにつれ、私はもっともっとやさしくなっていった。
親切なアドバイスを、お友達に沢山してあげたの。
『容姿は神様からの贈り物だけど、悲観しないで自分を大切にしてあげて。せめてダイエットして、汚いニキビ肌をちゃんとお手入れすれば、あずだって今よりほんの少しくらいはマシになれるんだよ』
あずは感動して泣いてしまった。
余程嬉しかったのね。
こんなにやさしいのに。
お友達はいつしか私から離れ、別の子と仲良くなってしまう。
どのお友達もみんなやさしくない所があるから、やさしすぎる凪ちゃんとは釣り合わないんじゃないかしら、とママは言った。
そんなやさしいママは、私が大学に入学してすぐ、病に倒れてしまった。
私と同じで、周りに気を遣ってばかりだったせいか。繊細な心身は、あっという間に蝕まれてしまった。
母は私に色々な物を遺してくれた。
可愛い顔、綺麗な身体、そして何よりやさしい心。
それともう一つ、特別な物を。
『凪ちゃん。もしもこの先、やさしい凪ちゃんのままでいられなくなりそうだったら、これに向かって自分の気持ちを吐き出しなさい。ママも、亡くなったおばあちゃまも、これのお蔭でやさしい人でいられたの』
“ これ ”
ママの実家に代々受け継がれてきたというその壺は、白に青で鱗みたいな模様が描かれた、一見地味な品だった。
かつて中国の何とか時代の王妃様が愛用していたそうで、一億は下らないとか。
人間関係でもやもやした時は、これに向かって思いきり吐き出せば、誰かにぶつけることなくやさしい自分でいられるらしい。
但し────
『二つの注意事項を必ず守ってね。
まず一つ目。雨の日には絶対に使わないこと。陰の気が増して、壺が上手くもやもやを吸収してくれなくなるの。二つ目は……』
社会人になった私は、誰もが知る大企業の秘書課に就職した。
社長令嬢で、元華族の血を引く私に相応しい、華やかな職場だと思って……いたけれど。
想像していたよりも、ずっと “ 庶民的 ” な職場だった。
都内の一等地にあるオフィス街。
素敵なレストランが沢山あるにもかかわらず、休憩室で手作りのお弁当や、あろうことかカップ麺を啜っている人までいる。
やさしい私は、
『お昼、それだけで足りますか? お野菜食べています?』
と身体を気遣ったり、
『ここのフレンチ、絶品なんですよ』
と行きつけのレストランを紹介したり。
それなのに、みんな私のやさしさを無視して、変わらず休憩室で冴えないランチタイムを過ごしている。
午後の休憩でも、やさしい私はいつもみんなにお菓子を配る。有名パティシエの洋菓子店で買った焼き菓子。みんな笑顔で受け取ってくれるけれど……
返って来るのはほとんど、そこら辺のスーパーやドラッグストアに売っている、子供騙しの安いお菓子ばかりだ。
仕事を終え、タクシーに飛び乗ると、私は苛々とスマホを取り出す。
SNSのホーム画面を開き、今日のもやもやを知らない誰かに吐き出していく。
『どうしてなんだろう。
私はいつもこんなにやさしくしているのに。
どうしてみんなは、その半分も返してくれないのだろう。
もう人にやさしくするの、やめていいかな。
自分のことだけ考えて、生きていってもいいかな。』
可哀想な私の投稿に、すぐにメッセージが届く。
『いいと思いますよ! ご自分を最優先に!』
『誰より何より、ご自分を大切になさってくださいね。ご無理なさらず(;_;)』
……はあ、気持ちいい。
もっともっと、やさしい私を慰めてくれる言葉が欲しいと、画面をスクロールしていく。
ところが……
『見返りを求める時点でやさしくないのでは?』
『 “ 親切な自分 ” に酔ってるだけ。ありがた迷惑』
『価値観は人それぞれ。善意ぶった悪意を押しつけるな』
見返り?
酔ってる?
押しつけ?
……何それ。
やさしくない全てのコメントを通報し、画面をそっと閉じる。
最近増えてきたこの手のコメントに、繊細な私の心は傷つき、涙が溢れた。
お屋敷みたいな家に帰ると、パパと二人で、お抱えシェフの作った栄養バランス満点の夕食を食べる。
それでも気分は晴れなくて、新しい書き込みをしようとSNSを開いた時、ふとあるものの存在を思い出した。
クローゼットを開け、華奢な腕で何とか抱けるくらいのそれを、慎重に取り出す。
この壺を使うことはないと思っていた。ママが亡くなっても、私はずっとやさしいままでいられたから。
だけど……
立ち上がり、カーテンの隙間からチラリと外を覗く。
雨は降っていないわね……よし。
私は壺に向かうと、黒い底に向かって、もやもやをそっと吐き出した。
「どうしてみんなやさしくないの? どうしてみんな私を傷つけるの? 私は人を傷つけたことなんて一度もないのに」
壺の中にこもった声が響き、黒い底がゆらりと蠢く。
面白い……まるでもやもやを食べてくれているみたい。
ちょっぴり気分が軽くなった私は、さっきよりしっかりと壺へ向かう。
「やさしい言葉には、笑顔で “ ありがとう ” でしょう? やさしい贈り物には、同等の贈り物を返すべきでしょう? 幼稚園の頃にママから教わるような基本的なことが、どうして大人になっても出来ないの!?」
また、黒い底が蠢く。同調しているのか、パクパク食べては、やさしく笑ってくれた。
……まるで、ママとおばあちゃまが聴いてくれているみたい。
鼻をぐすんと啜り、やさしい壺を抱き締める。
この壺に相応しい、一千万円のアンティークの棚に飾ると、しばらくの間にこにこと眺めていた。
それから私は、やさしくない人ばかりがいるSNSを止め、やさしい壺にもやもやを吐き出した。
ううん。私に吐き出すなんて乱暴な言葉は似合わないわ。対話すると言った方がいいかしらね。
「残業を代わってあげようとしたのに、自分の仕事だからいいって断られたの。そこはやさしい私に感謝して、素直に任せるべきじゃない!?」
どろっ
黒い底が蠢く。
「お土産のお菓子が、私にだけ配られなかったの。華龍院さんのお口には合わないでしょうって。もちろん合わないからお返しするつもりだったけど。それでも一度は配るのが、社会人としてのマナーじゃない?」
ごぷり
一層激しく蠢く。
気持ち良くなり、私は吐き出……話し続ける。
「どうせみんな、私に嫉妬しているんでしょう。可愛くて綺麗でお金持ちで仕事が出来るからって」
ごぷっ、ごぽごぽ……
「寄ってたかってやさしい私を傷つけて……一体何が楽しいのよ! どいつもこいつも、自分の顔がどんなに意地悪で醜いか。鏡で見てみろっての!」
私らしくない乱暴な物言いにドキリとする。
ハッと耳をせませば、窓ガラスを雨が叩く音が聞こえた。
いけない……今夜は雨になるって、予報で言っていたのに。
いつの間にか黒い底はどろどろと盛り上がり、キュッと細くなった首の……つまりは穴のすぐ下まで溜まっていた。
『……二つ目めは、壺の穴から決してもやもやを溢れさせないこと。この壺はおばあちゃまと私が使ったから、もう半分以下の容量しかないはずよ。 その昔、もやもやを溢れさせたばかりに王妃様は……くれぐれも気をつけてね』
気をつけなきゃ。
もう終わりにしよう。
ズシリと重い壺を棚から下ろし、中身を溢さないように、慎重にクローゼットへしまった。
それから少し経った日のこと、私は送別会の幹事を任されることになった。なんと! 営業部のエースでイケメンで、女性社員みんなが憧れている髙橋さんと一緒に。
徳を積むと良いことがあるってほんとね。神様はやさしい私をちゃんと見てくれているんだわ。
送別会の主役は、妊娠と結婚を機に退職する、総務部の部長佐藤さん。彼女は私にだけ冷たくて、理不尽なことで散々叱られては傷ついたけど。根に持ったりせず、素敵なお店で追い出してあげようと思う。
第一候補は、パパとよく行く老舗の料亭。雰囲気もいいし、材料からこだわっているお店だから、妊婦さんの身体にもやさしいと思った。
きっと髙橋さんも賛成してくれるはずと、お店の情報をメールで送る。
それなのに……
「一人三万円のコースはちょっと高いんじゃないかな」
休憩室に呼び出され、うきうきしながら向かった私に投げられたのは、そんな思わぬ言葉だった。
「え? むしろ安い方ですよね? この程度のコース料理を高いと感じる人なんているのでしょうか。うちの会社、お給料もそれなりにいいですよね?」
髙橋さんは少し厳しい顔をする。
「払える払えないにかかわらず、金銭感覚は人それぞれだよ。俺は正直、三万円は高いと思う」
信じられない……
ボーナスも沢山貰ってるくせに、なんてケチなの。
これじゃあデートも期待出来ないわねとがっかりする。
呆れて何も言えない私に、彼は続ける。
「小さな子供がいる人や、病気の両親を抱えている人もいる。みんながみんな、自分の為だけに自由に給料を使える人ばかりじゃないんだよ。……家も事情があって、歳の離れた弟を俺が養っているんだ」
だから何?
そんな情けない人達のことなんて知らないし。
「お昼だってそうだよ。お弁当で節約したい人やアレルギーの人もいるし、単に外へ出るのが面倒な人だっている。軽食でさっと済ませて、残り時間を読書や仮眠に充てる人だって。お菓子だって、食べたくない人も配りたくない人もいる。そういうの、想像したことある? ……てか、みんなわざわざ事情を説明してあげていると思うけど。華龍院さんがいつも聞く耳を持たないだけで」
は?
何でここで昼やお菓子の話が出てくるの?
意味不明なんだけど。
もやもやが喉で絡まって、上手く言葉にならない。
彼はふうとため息を吐くと、呆れたように言った。
「五千円前後で、別の店を探してみるよ。……佐藤さんから、君にチャンスをあげて欲しいって言われて、幹事に推薦したんだけど。やっぱり難しかったみたいだな」
────髙橋もやさしくなかった。
やさしくない言葉で、やさしい私を沢山傷つけて、冷たく突き放した。
今日はとことんツイていない。
人身事故の影響で、普段は電車通勤している貧乏人達が、タクシー乗り場に列をなしている。
ふん、それならとスマホを取り出すが、父の海外出張に合わせてお抱え運転手も休暇中だと気付く。
おまけに空が急に狂い出し、ブランドものの繊細な日傘では防げない横殴りの雨が、同じブランドのワンピースと靴を酷く濡らした。
仕方なくバスの列に並び、汗臭い庶民に押し潰されながら何とか家まで辿り着いた時には、もう22時を回っていた。
食事を摂る気にもなれず、ずぶ濡れのまま自分の部屋へ駆け込むと、クローゼットからあの壺を引きずり出す。
穴のすぐ下には、私のもやもやをどろどろと待ち構える黒いモノ。
早く、早く食べたいと、粘度を増しながら躍っている。
溢れたらどうなるのだろう。
ふふ……見てみたいわ。
すうと息を吸い込み、私は腹の中から全てを吐き出した。
「営業部の星? モデル顔負け? ……はっ! 顔がいいだけの貧乏人が! 三万すら出し渋る底辺が、金銭感覚や想像がどうのこうの……偉そうに説教してんじゃねえよ!」
ごぷっ、どぽり
「大体あんなババアの送別会なんて、誰が行きてえんだよ。いい歳してデキちゃった婚とか……はっ! 笑える。男に薬でも盛って、無理やり仕込んだんじゃねえの!?」
どぽっ、ごぷごぷ
「つうかみんなクソすぎんだろ。世が世なら、お貴族様と庶民。もしくはそれ以下。血の一滴からレベルが違うんだよ。貴い私がやさしくしてやってるんだから、泣いて感謝しろよ! 拝めよ! 敬えよ!!」
ごぷん……どぷ…………
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
『よ』の口に、溢れた何かがなだれ込む。
苦い、痛い、苦しい。
細胞をこじ開けては侵食し、心身を蝕んでいく。
そうか、これは毒の壺だったのね。
やさしい毒で獲物をかどわかす、猛毒の…………
溢れさせたせいで、斬首刑に処されたという王妃様。いっそ、そっちの方が楽かもね。
一年中空調で快適に保たれているはずの部屋は、喘ぐ私の息で、猛烈な湿気が立ち込めていた。
一ヶ月後。
ケチな髙橋が選んだ、ショボい隠れ家風レストランとやらに集うのは、庶民中の庶民達。もしくはそれ以下。
高貴な血を目映いブランドもので包んだ私とは、品も格も違う。
上座に座るのは、デブなのか妊娠しているのか判別不能なアラフォーババア。
やさしい私には目もくれず、やさしくないやつらにばかりにやさしくしている。
乾杯と同時に、私は真っ黒な毒を吐き出した。
言葉という媒体に乗せて、いくつもいくつも。
気持ちいい。
でも、苦くて、痛くて、苦しい。
吐き出すのが先か、
それとも喰い尽くされるのが先か────
◇
「ちょっ……ねえねえ!」
「んだよ」
「これ、とんでも鑑定団で一億に査定された壺に似てない? 中国の何たら王朝の」
「ははっ! んなん、こんなショボいリサイクルショップになんかに置かねえっての!」
「だよね。じゃあメルケリはどうかな……えっ、レプリカでも三万で売れてるけど」
「マジかよ」
手に取った感触は間違いなく陶器。
が、発泡スチロールのような軽さに、若いカップルは目を見合わせる。
レプリカどころかオモチャだな。送料引いたら利益なんて出ないだろう、むしろマイナスじゃないかと笑い合う。
それでも何故か棚に戻せなくて。
真っ白な底をじっと覗き込む二つの背中に、やさしい声が掛けられた。
「いらっしゃいませ。そちらのお品、今なら百円でお譲りしますよ?」
ありがとうございました。