表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/24

9

 そんなに何度も来たことはないけれど、やっぱり思う。薄気味の悪い池だ——って。木立に囲まれていて薄暗くて、時折ぱしゃりと、池に住みついている蛙か何かが水音を立てる。それもぼくにとっては気味が悪く感じる。

「しょーしろぉ、しばさぶろーさんを」

 セティカが差し出すリードを受け取る。セティカはそのままためらうことなく池の畔にまで進んで、屈むとその水面を指先で撫でるようにした。ただ静かに波紋だけが立つ。セティカは繰り返し水面を指先で撫でている。だんだんじれったくなってきた。だから「もう帰ろう」と声をかけてもいいはずなのに声が出なかった。屈みこんだセティカの背中が、どうしてだろう、すべてを拒んでいるように強張って見えたからだ。結局ぼくはセティカの気が済むまで、セティカのいいようにさせてあげようと諦めた。柴三郎さんはそこらに生えている雑草の塊に鼻先を突っ込んでは、また次の塊に鼻先を突っ込むことに余念がない。いつもはお散歩バッグにミニサイズのスケッチノートを入れているのに、今日に限って入っていない。スケッチノートがあったら、あのセティカの後ろ姿のスケッチでもしながら待つのに。そうすれば池に対する居心地の悪さも感じずに済んだだろうに。やがてセティカは水面を撫でるの止め、空を見上げた。木立の隙間から見えるのは薄曇りの空ばかりだ。たぶん、セティカが何かを呟いた。ぼくの知らない言葉だ。何を呟いだのか——ぱしゃん、と小さく水が跳ねる音がした。それからやっとセティカは立ち上がるとぼくの側まで戻ってきた。

「——何か解った、とか?」

 尋ねるとセティカは、頷くとも首を振るとも言えないような、奇妙な角度に首を動かした。ぼくの手からリードを奪うと、来た道を戻り始めた。

「しょーしろぉは——儂のお師匠のことは存じておろう?」

 神社をぐるりと回り込むような小路を通り抜け、住宅街を見下ろす高台から鳥居の先の石段を降りたところで、セティカが話し始めた。

「うん」

 相槌を打つとセティカが先を続けた。

「冥府の泉のことは?」

 もちろん知ってる。セティカとそのお師匠——名はファドモスという——は、魔術の修練のために『黒の森』と呼ばれる森に籠ることがあって、その森に『冥府の泉』と呼ばれる、もう見るからに近寄りたくないおどろおどろしい雰囲気の泉があるのだ。鬱蒼とした木々に囲まれ昼でも薄暗く、その水面は黒々とした深い青で、とても足がつく深さではないとか。泉の底を覗いて来ようと戯れに潜った者の命をいくつ呑み込んだか知れぬ——と言われている。でもどうして急にそんなことを?

「もしや儂も『冥府の泉』で溺れたのではなかろうか?」

 セティカの問いを、ぼくは笑い飛ばした。

「ないない。それはないよ。だってセティカ泳げないじゃん」

 正確には、泳げないのはセティカだけではなかった。そもそもセティカの周りには「泳ぎ」を必要とする人間もいなかった。それにセティカの死因は——そこでぼくは思考を止めた。こういうことを考えていると、セティカに『覗かれた』ときにふとバレてしまいそうで怖かったからだ。

「そうか。しょーしろぉは、儂がいかにして命を落としたのか、知っておるのだったな」

 気持ちを読まれたようでぎくっとした。いやさすがに『覗いて』いないときにそれはないはず。

「それを教えてはもらえまいかの?」

 返事ができなかった。言えばセティカは納得して、元の世界へ転生し直すなんて無茶な考えも捨てるだろうか。それに知ったところでどうなる。ただ辛いだけじゃないのか。じっと考え込んでいると、セティカがふっと息を吐いた気配を感じた。顔を上げるとセティカは微かに笑っていた。

「死んだ衝撃なのだろうな、どうにも、記憶が曖昧で。お師匠と『冥府の泉』で身を清め、そのまま『黒の森』に結んだ庵に籠った気がするのだが」

 記憶を辿る。確かそれはセティカが死ぬふたつきくらい前の話だったはず。いついかなる時でも主人公の力になれるよう、ひとつでも多くの魔術を身につけたいと、古い魔術書を解読して。

「それで身につけたのが、禁断と言われた人心を操る魔術——だったはず」

「——たしかにそんな記憶はある。古びた魔術書を紐解くのは難儀であった」

 そこでセティカが黙り込んでしまったので、ぼくも黙って歩いた。セティカの足取りに迷いはなく、なんとなくそれで、ああもうきっとセティカはぼくに黙ってあの池に行くのだろうという予感がした。ゆらりと視界が揺れて見慣れたはずの住宅街の輪郭がぼやける。慌てて俯く。薄汚れたスニーカーのつま先まで歪んで見えた。

「セティカ。約束してほしいんだ」

 俯いたままで言ったぼくに、セティカは不思議そうな声で問い返してきた。

「約束?」

「決してひとりであの池に行っちゃダメだよ。どうしても——っていうなら、柴三郎さんを連れて行って」

「けったいなことを言うの、しょーしろぉは」

 けったい? どこが——抗議の視線をセティカに向けると、セティカもまたぼくを見ていた。微かに笑っていると感じたのは、気のせいじゃないと信じたい。

「儂なら大丈夫だ。そう心配そうな顔をするでない」

 心配? そうか、確かにぼくは心配してる。セティカのことをそりゃあもういろいろと。


 セティカはかーさんが見立てたらしい、レモン色とリンゴ色が綺麗な、なんとかチェックという柄のシャツをTシャツの上から羽織って、手回り品を詰めた小さなバッグを肩から下げて出かけた。話を聞くと一緒にカラオケにいく数人と学校で落ち合い、一緒に街まで行くらしかった。家に取り残されたぼくは何の予定もないので部屋に籠もることに決めた。手始めに描き散らしたスケッチの整理を、と思って何気なくぱらぱらスケッチブックを眺めていたら、前に描いたセティカのイラストが出てきた。色塗りをしようと思ってペンも入れてあったけど、そこで放置してたやつ。このイラストが残っている——ということは、部室に置きっぱなしのスケッチブックに描いたセティカも残ってるんだろうな。不思議だ。例のゲームの存在はまるっと消えてしまったのに、ゲームの中のセティカを描いたイラストは残っているなんて。セティカが現実世界に現れたから、イラストも現実にいるセティカを描いたものだって判定になってるのかな。誰がそう判定しているんだろう。セティカの使った暗黒魔術?

 スケッチの整理の手はそこでなんとなく止まってしまった。ぼくはその放置したままにしてあったセティカのイラストの続きを描くことに決めた。どうせ暇だし。

 そのイラストは、ゲーム内でセティカが正式な魔術師として王に拝謁したときのセティカを描いたものだ。暗黒魔術師はあの世界では確かに異端ではあったけれど、それでも『貴重な』人材として扱われていた。拝謁に際して正装をするように求められたセティカはあからさまに不機嫌になって「このような華美な飾りつけを以て『正装』などとは王の気が知れん」と、下手をすれば不敬の罪に問われそうなことを平気で考えていた。とはいえ、さすがにそれを表に出しては今後の兄の立場に差し障りがあるだろうこともちゃんと解っていて、だからしぶしぶながらも『正装』をして拝謁に臨んだのだ。ゲーム内ではほんの一幕、だけど、ぼくたち『セティカ推し』にとっては最大のハイライトでもあった。ゲーム内では、国から正式な魔術師と認められると石を与えられる決まりがあって、セティカにとってそれは紫水晶だった。国からの知らせを受けたセティカの兄——ゲームの主人公——はセティカのために紫水晶のペンダントと、正装の際に身につけられるようにと、小粒の紫水晶を散りばめた髪飾りを用意した。セティカはそれらを身に着け正装し、拝謁に臨んだのだった。相変わらずの仏頂面ではあったけど、内心ではとても喜んでいたに違いない。ゲーム内ではセティカの心情ははっきりと語られてはいなかったけど、そのシーンのセティカの表情は、心なしかいつもの仏頂面よりも明るいものに見えた。正装姿のセティカは、推しの間では『必修』と呼ばれるほど、いろんな『絵師さん』がイラストに描いていた。ぼくもデジタルでは何枚も描いているけれど、アナログで描いたのはこの一枚だけだった。正装姿のセティカのバストアップで、何なら髪飾りがメインかってくらいの構図にした。ペンダントはチェーン部分は描いたけど、紫の石そのものは収まりきらなかったので描かなかった。完成したらカメラで撮ってどこかのファンサイトにでもアップするつもりで気合を入れて描いていた。髪飾りの細かい描写も含めて、自分でもなかなかのお気に入りに仕上がっている——ここまでは。問題は塗りだ。気持ちが変わらないうちに水彩の準備を始めると色塗りに取り掛かった。下書きをしたときはゲームの設定資料やらネット上の画像を参考にしたけれど、今はもうそれはできないから、自分の感覚だけが頼りだ。セティカは色白だとはいっても何も塗らないのは不自然だから、白にペールオレンジをちょっとだけ足して、うんと薄めて肌部分を塗った。衣装は胸元より上部分だけだし、フリルのついたスタンドカラー部分は白で間違いないはずだから、陰影の部分だけを慎重に塗っていく。水彩だから色が混ざらないようにするには乾くのを待たなくちゃいけないけど、時期的に時間がかかりそうだ。ふと時計を見ると十一時を回っていて、そういえばおなかも減ったし、と思って部屋を出た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ