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池の水面は黒くて静かで、この池がどこか異世界につながっていても不思議ではないと思った。セティカはしゃがみこむと柴三郎さんの首にしがみつくように抱き締めた。何か喋っているけどぼくにはよく聞こえなかった。しばらくしてセティカが立ち上がる。柴三郎さんおリードを受け取り、スクバを渡す。セティカは受け取ったスクバを置いた。セティカが一歩ぼくに近づいて、腕を伸ばしてきた。セティカの動作はまるでスローモーションみたいにゆっくりとしたものに見える。何をするのだろう──なんて考えていたら、さらにセティカがぼくに歩み寄ってぼくを抱き締めてくれた。
「この世界で最初に出会ったのがしょーしろぉとしばさぶろーさんで、本当によかった、ありがとう」
セティカが言う。セティカに抱き締められたままでぼくは黙って首を振った。右手にはリード、左手にはスマートフォンを持っていて、セティカを抱き締め返すこともできない。
「これから儂はしょーしろぉが考えくれた『設定』を解除する。しょーしろぉの記憶にも影響するかもしれぬが許せ。それから──」
セティカが言葉に詰まった。じっと続きを待つ。
「──それから、しょーしろぉが望むなら、儂に関する記憶を消すこともできようが、どうする?」
セティカに関する記憶を消す?
「その方がのちのち、しょーしろぉのためにもなると思うのだが」
ぼくはまた首を振った。もしかしたら『設定』を解除したらそれだけでぼくはセティカのことを忘れてしまうかもしれないのに、さらに記憶を消されるなんて御免だった。
「そうか」
セティカは応じて抱擁を解いた。セティカはぼくから離れると、首から下げたペンダントを外した。これから使う魔術に必要なのかな──なんて考えていたら。
「礼だ。受け取れ」
セティカはぼくにペンダントを差し出した。は? いやいや、大事なペンダントじゃん、受け取れない。
「儂はしょーしろぉにたくさんのものをもらった。本来ならば知り得ないような知識も得た。言葉で礼を言うだけでは儂の気が済まぬ。受け取ってほしい」
──ああ、そういうことだったのか。ぼくは今の今まで、セティカのペンダントが無くなった理由を知らなかった。ゲームの中でもその理由は詳しく語られなかった。確かセティカはペンダントをくれた主人公にこう詫びていた。
「兄様をお護りするために、必要なことに使わせていただいた。せっかく賜ったペンダントだったのに申し訳ない」と。
だったらぼくはこれを受け取らなくちゃいけない──セティカのために。リードの持ち手を手首に通して、右手を差し出した。セティカがそこにペンダントをそうっと置いた。しっとりとした重みがかかる。そのままぼくは右手を握りしめた。このペンダントだってもしかしたら、消えてなくなっちゃうかもしれない──そう思いながら。
「ありがとう、しょーしろぉ。さよなら」
セティカが言って、耳の奥でくわん、と何かが鳴った気がした。ぱちん、と顔の前で見えないシャボン玉が弾けたような感触がした。セティカを見ると、セティカは間違いなく微笑んでいた。それからセティカはスクバを持ち上げると、ぼくを振り返りもせず池に踏み込んだ。セティカが足を運ぶごとに水面が揺れて、ぼくは少しでもセティカが動きやすいよう、スマートフォンを持ち上げて小さなライトでセティカを照らす。セティカは池の中央辺り──腰まで水に浸かったところで足を止め、ぼくに身体を向けた。左手を大きく振りながら間違いなく叫んだけど、なんと叫んだのかは解らない。暗黒魔術が解かれてしまったからだ。だけどセティカのことだから、ありがとうって言ったに違いない。
「セティカ──がんばって‼」
ぼくも叫んだ。セティカには伝わらないと解っていてなお。柴三郎さんが立て続けに、あおん、あおん、と吠える。池の中央に佇むセティカ。暗いしよく見えないけど、たぶん魔術を使っている。梢が揺れてざざざっと音を立てる。その音が次第に大きくなって、池の周りを渦巻くように風が吹いてきた。そのままセティカを照らしてあげていたかったのに、風が強くなってきてバランスを崩してしまう。伸ばした腕を引っ込めて足を踏ん張ったけど立っていられなくなった。あきらめて膝をついて柴三郎さんを抱えるように抱きしめる。スマートフォンは手から離れて地面に転がった。もっと池に近かったら中に落としていたかもしれない。さっきリードを手首に通しておいてよかった。ペンダントを握った右手をさらにぎゅっと強く握り締めて、強い風に目を細めて必死に池の中のセティカを見る。
ざざざざざ──────ひときわ大きく梢が鳴って、セティカの身体が揺らめいて──────消えた。
あんなに強かった風は嘘のように止んでいる。落としてしまったスマートフォンを拾い上げてセティカがいたはずの場所を照らしてみる。もうどこにもセティカの姿は見当たらない。もしかしたら溺れちゃったんじゃ? 不意に湧き上がった不安が膨らんでいく。ぼくはペンダントを柴三郎さんの首にかけて手首からリードを外すと、柴三郎さんに「ここにいて」と言い聞かせてから思い切って池に飛び込んだ。じゃばじゃばと大きな水音を立てながら池の真ん中あたりまで進み、肩で息をしながら周囲をくまなくライトで照らす。セティカの姿はやっぱりどこにも見当たらなくて、溺れたわけじゃないことにはホッとした。だけど、だからといってもセティカが無事に元の世界に戻れたことを証すものは何もなく──あおん、と柴三郎さんが一声吠えて、ぼくは不安を振り払った。大丈夫だ──大丈夫。セティカは戻ったんだ、彼を助けるために。最初にセティカにそう言ったのはぼくだし、セティカはぼくの言葉を信じたから行動に移した。ぼくが信じなくてどうする。ふたたびじゃばじゃばと派手に水音を立てながら池の中を歩いた。やっと柴三郎さんのそばまで戻り、しゃがみ込むと柴三郎さんに抱きつく。柴三郎さんの温もりにほっとしていた。帰らなきゃと思うのに動くのが億劫で、だからしばらくそのまま柴三郎さんを抱きしめていた。暗黒魔術が解かれてセティカが元の世界に帰って、世界の姿はどんなふうに変容したのだろう。特にこれといった変化はないように感じるけど、気がついていないだけかもしれない。
目を上げる。夜が明けようとしている。明るくなる前に帰らなきゃ。ちゃぷん、と微かな水音が聞こえて目を凝らす。
「………………カメ?」
池の淵からぼくを見るその生き物は、確かにカメだった。カメがいるなんて宮司さんは言っていなかったけど、もしかしたらセティカがやってきたときもここにいて、全部見ていたんじゃないかって気がした。すごく賢そうに見えるし。やがてカメはゆったりと池に入って見えなくなった。リードを掴んで立ち上がる。
「帰ろう」
柴三郎さんに声をかけて足を踏み出す。ぐしょぐしょに濡れたスニーカーがひどく重たくて、軽やかに、とはいかないけど、それでも。
帰ろう。家に。




