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手にした書付の内容を検分し、不要と判断したらしい書付は脇によせ、必要と判断したものを何枚も重ねて、折り目が付かないように保存袋に入れ、丁寧に空気を抜いてジッパーを閉め、スクバに入れる。一切口を開かず黙々と作業を進めるセティカ。合間にキャラメルかべっこう飴を口に含んで、そのとき一瞬だけ、表情が緩むのを見逃さなかった。ぼくもまた一言も喋らずにセティカを描いた。まず後ろ姿。セティカの長い綺麗な黒髪がよく描けたと思う。次に横から全身。座っている人を横から描いたことってあまりない気がする。首の角度とか頭と身体のバランスが崩れないように丁寧に。その次は横顔。真剣な眼差しをそっくりそのまま紙の中に閉じ込めたくて、じっくりと観察して細かい部分も漏らさず描く。
ふいにセティカが立ち上がったので何事かと思ったら、ノックに応じるためだった。
「どうしたの、こんなに散らかして」
ドアから部屋を覗いたかーさんがびっくりしたような声でいう。セティカが言った。
「課題をまとめておる」
「そう。そうよね、もうそろそろ夏休みも終わるもんね。祥志朗は大丈夫なの?」
急に話を振られてギクッとしたけど「大丈夫だよ」と返した。セティカが元の世界に戻ったらちゃんとやる。まだ十日もあるからどうにかできる。
「あんまり根を詰めちゃだめよ」
かーさんがそう言い残してその場を去ったあともセティカの作業とぼくの作業は続いた。満足するまで描き込んだのでもう一度初めからセティカの横顔を描き始め、睫を細かく描き込んでいたら視界に誰かの手が飛び込んできた。びっくりして顔を上げるとセティカがぼくを見て笑っていた。
「晩ごはんだそうだ」
「ならそう言ってくれたらいいのに」
「言っても返事がないから邪魔をしたのだ」
連れ立ってダイニングに急ぎ配膳を手伝う。今日の晩ごはんはメンチカツとタコのマリネと豚しゃぶサラダだった。タコのマリネに豚しゃぶサラダにもすっかり慣れたセティカはおいしそうに食べた。食事をしているときのセティカが一番幸せそうだよな、と思う。これがこの世界でのセティカの「最後の晩餐」になるのなんてとっくに解っていたことなのに、ぼくは全然気が回らなくて、特別なものを食べさせてあげられなかったことをこっそり悔やむ。とーさんもかーさんもいつものようにあれこれ喋ってくれて、だからぼくの口数が少ないことになんて誰も気に留めず、いつも通りの穏やかな晩ごはんが終わる。いつも通り後片付けをちょっと手伝って、リビングでスマートフォンをいじりながらとーさんがお風呂から上がってくるのを待っていた。ひとの気配に顔を上げるととーさんが首にかけたタオルで汗を拭きながらぼくに言った。
「なにか心配ごとか?」
首を振って応えた。
「どうして?」
「元気がないからさ。かーさんも心配してたぞ」
バレバレか。笑おうと思ったけどできなくて、だからとーさんは何かを察したらしく。
「……ま、言いたくないこともあるよな」
ちょっと残念そうな顔つきで言って「風呂空いてるぞ」と解り切ったことを言った。お風呂を済ませて、セティカの部屋をノックした。どうぞ、と言われてドアを開けると、あんなに散らかっていた部屋はすっかり綺麗に片付いていた。
「もう終わったの?」
セティカが頷く。
「なんとかな。スクバがもうひとつあればよかったのだが」
「チョコと飴は入れた?」
「もちろん」
それからぼくは声を潜めて聞いた。
「何時ごろに出発する?」
「とーさんとかーさんが完全に眠ってから──と。一時過ぎが確実か」
「──ひとりで行くとか言わないよね?」
ぼくの言葉にセティカの目が泳いだ。やっぱりそのつもりだったんだ。続ける。
「最後まで付き合うからね。絶対一緒に行くから」
「──解った」
「じゃあ──あとで」
ぼくはそう言って自分の部屋に向かった。ベッドに身体を投げ出して息をつく。ちっとも眠くはないけどこうしていたらうっかり眠っちゃいそうで怖くて、だからお風呂上がりの汗が引いたらすぐに着替えて椅子に座った。こっそりリビングを覗いてみたらかーさんがテレビを見ていて、タブレットを持ち出すのは諦めた。時間を潰そうとマンガを手にとってはみたもののぜんぜん集中できなくて、何度も目覚まし時計で時間を確かめた。日付が変わるころには周りも静かになっていて、足音を忍ばせてリビングに行ったら今度こそ柴三郎さんだけしかいなかった。常夜灯の中スマートフォンを手に取って自分の部屋に戻る。制限がかかっていて何もできないことは解っていたけど、もし緊急事態が発生した時には電話くらいは使えるし。そわそわと落ち着かない気持ちで目覚まし時計とにらめっこをする。一時を回った。あたりの気配を探る。静かだ。
そーっとドアを開けて自分の部屋を出る。セティカも静かに出てきた。暗いけどあの服を着て、あのペンダントをつけて、そして書付で膨らんだスクバを持っているのが解る。
「……忘れ物はない?」
囁き声で尋ねるとセティカはしっかりと頷いた。電気をつけたかったけどとーさんかかーさんに気づかれたくなくて、スマートフォンのライトをつけてシューズボックスの中を照らした。セティカのサンダルを探し当てて取り出したら、足元に柴三郎さんが座っていて思わず声が出るところだった。しゃがみこんで柴三郎さんの首を撫でる。柴三郎さんはリードを咥えていた。朝ん歩と勘違いしてるんだろうか?
「柴三郎さんは、待ってて」
小さく声をかける。だけど解る。柴三郎さんはぼくと一緒に出かける気満々だ。どうしよう。
「しばさぶろーさんが来てくれるなら、儂は嬉しいぞ」
セティカがひそひそとそう言うから、柴三郎さんも連れていくことにした。もしもの時には心強いかもしれないし。ぼくは音を立てないように注意を払いながら急いでお散歩セットを用意して、静かに静かにドアのカギを開けて、玄関を出た。
深夜だというのに、外には昼間の熱気が残っているようだった。歩くとうっすらと汗をかく。柴三郎さんのリードはセティカが持っていた。スクバの持ち手は肩に食い込むほど重く、だから足取りも重くなる。ため息が出る。
あの池へ最短で着くルートを通ったはずだけど、足が重くていつもより長く歩いたように感じる。神社の境内へ続く短い階段の脇には何本か街灯が立っていた。鳥居をくぐらず西側に足を向けるとその先は暗闇。スマートフォンのライトだけが頼りだった。昼間来ても薄気味悪く感じるのに、新月の夜ならなおさらだった。ぼくはひとりおっかなびっくり、いつものように背筋を伸ばして歩くセティカの後について歩く。心なしか柴三郎さんの尻尾にも元気がないように見えて、柴三郎さんなりに何かを悟っているに違ないと思った。
池までやってきた。




