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線香花火をやっている間、誰も何も喋らなかった。
セティカが手にしていた最後の線香花火に火をつけて、三人で静かに火球が落ちるまでを見守った。もしかすると呼吸をするのを忘れていたかもしれない。火球が落ちてもしばらく、誰も喋らず動かずにいた。しばらくして立ち上がった里村が大きく伸びをしながら、ぽつりと言った。
「夏が終わるーって感じだね」
ぼくも立ち上がる。本当に最後の線香花火は、実はまだぼくの手に一本、残っていた。だけどぼくはそれをこっそりポケットにねじ込んだ。
「片付けて帰ろ」
里村が先頭になって、水入りバケツの中身をゴミ袋に移し替える。バケツの中の水はどうしたいいのかと考えていたら、里村が「こっち」と促してくれて、水飲み場の目皿のついた排水溝に流した。その目皿も近所の有志によって置かれたものだとかで、水の中にあった小さな燃えカスや花火を包んでいた紙切れなんかが目皿に溜まる。目皿そのものは軽くて取り外しができるようになっていて、それを持ち上げると溜まった細かいゴミをゴミ袋に入れた。軽く手を洗ったけど、まだ手には火薬の匂いが染みついている気がした。最後にバケツ型ろうそくの火を消した。
三人で連れ立って里村の家まで戻る。里村のお母さんが出迎えてくれて、洗面所で手を洗うとぼくたちが持ってきたマドレーヌと冷たい紅茶を出してくれた。里村が最初にマドレーヌに手を伸ばし、一口かじったのを見届けてから、セティカも手を伸ばした。
「ふむ、これはうまい」
セティカの言葉を受けて里村が笑う。
「有名なのに、食べたことないの?」
「かーさんがこの店のマカロンが好物なものでな」
「あーマカロン! マカロンもおいしいもんね」
里村とセティカはやっぱり楽しそうだ。セティカが楽しそうにしているのを見れば見るほど、心がしくしくしてくる。ぼくはとーさんに花火が終わったと連絡をして、とーさんが車で迎えに来てくれることになった。
「あら。私が送って行こうかと思っていたのに」
「お気遣いいただきありがとうございます。とーさんが来るので、大丈夫です」
ぼくじゃなくてセティカが答えてにっこりしたら、それで里村のお母さんも納得するしかないみたいに見えた。紅茶のお代わりを勧められたけど断って、セティカとぼくは里村の部屋でとーさんの迎えを待った。里村は部屋に入るなりセティカのフィギュアの実物を披露してくれて、セティカにこう言った。
「これね。学校祭の展示にしたいんだけど、いいかな?」
「もちろんだ」
セティカの答えに里村はとてもうれしそうに「ありがとう‼」なんて言って、だからここでもぼくの心は痛む。とーさんの迎えを待つまでの間が恐ろしく長く感じられた。実際には三十分ちょっとだったと思うけど、ぼくにとってはおそらく今まで過ごしたどの三十分ちょっとよりも、長くて重苦しい時間だったに違いない。
家に帰ってセティカにお風呂の順番を譲り、スマートフォンでパズルアプリで時間を潰そうと思っていたら、かーさんから「里村さんにお礼を言っておきなさい」と言われたので先にメッセージを送った。『ぜんぜん、気にするな』という返事とともに、大量の写真が送られてきた。どの写真のセティカも楽しそうに笑っていて、里村の目から見たセティカはきっととても楽しそうだったんだろうな、よかったな、なんて思う。
「何を真剣にみておるのだ?」
セティカの声に慌てて顔を上げたら、セティカはスマートフォンを覗き込んでいた。
「ほう。こんなにたくさん」
セティカの目元がどこか寂しそうにも見えてしんみりしてしまう。
「これをどうにか手元に残す方法はないものかの」
「プリントすれば残せると思うけど。どうして?」
「もしかしたら持って帰れるかもと思うてな」
意外だと思った。セティカはもっとドライなタイプだと思っていたから。
「プリントしようか? どれがいい?」
セティカが選んだ写真は五枚。一枚はセティカが思いっきり手を伸ばして手持ち花火をしているもの。二枚はぼくが一緒に写り込んでいるもの、一枚は三人でセルフィーしたやつ、そして最後は線香花火のアップだった。プリントした写真を渡すとセティカは満足そうに頷いた。
「しょーしろぉも風呂を済ませてこい」
ああ、うん。食い入るように写真を見ているセティカをリビングに残してお風呂に入る。お風呂を済ませて出てくると、もうリビングは空っぽ──いや、隅っこのベッドで柴三郎さんがだらりと横になっているだけだった。ぼくは柴三郎さんを撫でるとリビングの電気を消して自分の部屋に戻る。明日──正確には日付が変わる真夜中頃を予定しているから明後日なんだけど──、セティカは元の世界へ戻る──予定だ。勝手に心臓がばくばくしていた。うまくいくのだろうか。そんなことばかりを考えている。ベッドでごろごろしていたけど寝付けず、トイレに立って麦茶を飲もうとキッチンに向かおうとしたら、セティカの部屋の電気がまだ点いていた。とりあえず麦茶を飲んでから、控えめにノックをしてみる。どうぞ、と静かな返事がした。
「眠れないの?」
ドアの隙間から覗き込みつつ声をかけると、ぼくを振り向いてセティカが言った。
「いや、持って戻りたいものがありすぎてな。スクバに入りきらない」
床一面に、何かをびっしりと書き込んだ紙が散乱している。おそらく同じような書付でぱんぱんに膨れたスクバがセティカの脇に置いてあった。
「もう少し厳選せねばならぬ」
なるほど。ところで。
「そのままスクバに入れるの?」
ぼくの問いにセティカがきょとんとした。
「だめだろうか?」
「ダメじゃないけどさ、こっちは池だしあっちは泉だし、そのままじゃ濡れちゃうでしょ、ぜったい」
セティカははっとした。ぼくはため息をついた。
「せめてビニールっぽい袋に入れた方がいいよ」
探して来るね、と言い置いてセティカの部屋を出て、まずは自分の部屋で水濡れを防げそうなビニール袋を探してみたけど、あんなに大量の紙を入れられそうなものはない。野菜とかを保存できる、ジッパー着きの袋がいいかもと思いついてキッチンを漁ってみたけど、とても足りそうにない。セティカの部屋に戻ってその旨を伝えると。
「明日一日の猶予があってよかった。買いに行こう」
それしかないだろう。セティカはそのまま、
「ああそうだ、しょーしろぉ。頼みがあるのだが」
と言ってぼくの目をまっすぐに見た。なんだろう。
「あの絵を儂に譲ってくれぬか?」
あの絵。あの絵⁈
「儂はしょーしろぉの描いた絵が好きだ。ぜひ兄様にもお見せしたいと思うてな」
胸がちくりと痛む。ぼくの絵を好きだと言ってくれたのはとてもうれしい。けど、セティカはそれを彼に見せたいという。やっぱりセティカの心のいちばん大事なところを占めているのは彼なんだ。答えに悩みつつちらりとセティカを見ると、どうやらその顔はぼくが断ることなんて全く想定していない顔で。
「──わかった。明日でいい?」
「出かける前ならいつでも。ありがとう」
セティカが笑う。本当にうれしそうに。だからぼくのこんな醜い気持ちは閉じ込めておかなくちゃ。
「──あとは? 大丈夫そう?」
うーん、とセティカが腕組みをする。
「ありすぎて困っている。かーさんが大好きなマカロンも、とーさんが大好きなプリンも、それからしょーしろぉが好きだと言っていたショートケーキも持って戻りたいのだが」
思わず吹き出していた。さすがにそれは難しいだろう。それにしてもこんなときにまで甘いもののことを考えるなんて、肝が据わっているというかなんというか。さすがだ。明日買い物に出るなら、持ち運びができて、水に濡れても大丈夫そうなお菓子を見繕ってこよう。飴とかチョコとかがいいかも。そんなことを考えながらセティカの様子を伺うと、セティカはとっくに腕組みを解き、スクバに入れる書付を厳選する作業に戻っていた。明日はまだいい。でもその先はもう、セティカは──考えると泣きそうになってしまうから頭から追い払い、真剣な面持ちで作業を続けるセティカの横顔を見つめる。
きれいだな、と思った。
長い睫。すっと通った鼻筋。滑らかな頬の線。柔らかそうな唇。ちょっと薄い耳朶。しゅっと尖った顎。さらさらの髪の毛。
ここにこうして生きているセティカの細部までも全部が、とても。
きっといつかこんなセティカも描いてみよう。ぼくはセティカに「そろそろ休まなくて大丈夫か?」と声をかけられるまで、ただじいっとセティカの細部を観察していた。心の中のスケッチブックに描き込むように。




