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「答えるまでもなかろうと思うておったが」
セティカは言って、しずしずと池に歩み寄り膝を折ると、その水面に触れた。セティカが触れた場所から波紋が立って、向こう側へと広がっていく。しばらくセティカは水面で指先を遊ばせ続けた。ぼくはやっぱりそれ以上池に近づこうとは思えず、斜め後ろからセティカの指先と、そこから絶えず生まれる波紋を見つめていた。
「考えなかった訳ではない。このまましょーしろぉが傍にいてくれたなら、どんなにか心強いか──と」
ちゃぷ、と微かな音とともに小さな水飛沫が立った。
「だがそれはできぬ」
「どうして⁈」
短く言い切ったセティカに間を置かず詰め寄るように言うと、セティカは顔だけを巡らせてぼくを見上げた。
「しょーしろぉが好きだから」
──────は?????
「しょーしろぉからこの世界を奪いとうない。しょーしろぉが、好きだから」
あらためて言って、セティカは立ち上がった。じいっとぼくを見るその瞳は、やっぱりとても綺麗だ。
「この世界へやって来てこの方、しょーしろぉには随分と世話になった。だが儂は、その恩に報いることなくこの世界を去る。これ以上、しょーしろぉの世話にはなれぬ」
「僕が構わない──と言っても?」
セティカが力強く頷いた。
「しょーしろぉの奥深くまで『覗いて』解ったことは──儂の居場所はまだあちらの世界だ、ということだ。だがしょーしろぉは違う。あちらの世界へ連れて行こうとしたとき、しょーしろぉの存在がどうなってしまうのか、儂にはそれを保証することもできぬ。こちらの世界へやってきたばかりの頃、儂は儂自身がいわゆる『転生者』と思うておった故、もうあちらの世界には儂は存在しないもの──そう考えておった。だが違う。時間は流れているといえど、まだ儂にはあちらの世界に居場所がある。だがしょーしろぉはどうだ? もともとあちらの世界の住人ではないしょーしろぉを、無理矢理に連れていくということは、すなわち──」
セティカが言い淀んだ。セティカの考えていることは解った。だからぼくから口にした。
「この世界のぼくが死ぬかもしれない?」
ややためらった後で、セティカが頷く。
「そんなの。ぼくはちっとも構わない。セティカと一緒に居られて、セティカの力になれるなら」
嘘ではなかった。だけどセティカは首を振った。
「儂はな、しょーしろぉ、とーさんもかーさんも、柴三郎さんも大好きなのだ」
そういったセティカの表情は、これまで見てきたどの表情よりも柔らかくそして苦しそうだった。
「三人が悲しむ姿を、想像したくない。だから連れて行かない」
セティカの顔を見ていたら、それ以上食い下がったところで答えは変わらないだろうということが理解できてしまった。ぼくは唇を噛んで俯いた。ぼくがこの世界でセティカを幸せにしてあげたかったのに。あふれそうになる涙を堪える。
「しょーしろぉの気持ちは嬉しい。だが、儂はその想いに応えることもできぬ──」
──まこと、儘ならぬものよ──セティカが付け加えたその言葉を心の内に繰り返す。確かセティカはゲームの中でも一度だけ「儘ならぬ」と口にしたことがあった。トゥルーエンドルートの終盤、主人公が王女への愛を語る場面でのことだ。どれほど深く愛しても顧みられることのない自分を自嘲するような口調で。本当はセティカだって主人公に愛してもらいたかった。この世界の誰よりも、大切で大事な兄様──ことあるごとにセティカが口にしたその言葉が、セティカの本心だった。だけどそれが「本心」であることさえ、告げることができなかったセティカ。本心を隠し通して死んでしまったセティカ。こらえていた涙が溢れたことに気が付いたのは、いつの間にかぼくの傍まで歩み寄っていたセティカが、その涙を指先で拭ってくれた時だった。
「セティカ──ぼく、は、……っ」
本当にセティカが好きなんだよ。口に出したつもりで、だけどそれが音になっていないのはぼくが一番よく解っていた。セティカが困ったような顔をする。そんな顔しないで。困らせたい訳じゃない。
「すまない。どういう表情をすればいいのか解らなくてな。どれほどしょーしろぉが儂を想ってくれたとて、やはり儂はあの方を想ってしまうのだ。命を懸けてあの方をお護りできるのであれば、儂は、それで」
セティカの気持ちが痛かった。だからセティカの手を払い除けた。それでもセティカは表情を変えなかった。どうしようもない、儘ならない。それだけのことだ。ぼくは両手で力任せに涙を拭いた。油断したらまた流れて落ちてきそうだったから、奥歯にぎゅっと力を込めた。
「──ぼくにまだ、できることはありそう?」
「考えをまとめてみないことには何とも言えぬ。とにかく今日は、帰ろう。きっと柴三郎さんも待ちかねておろう」
柴三郎さんの名前を聞いたら、ちょっとだけ心がほっと緩んだような感じがした。それから──セティカが続けたのであらためてその顔を見れば。
「どこかで水羊羹を買って帰りたい」
思わず吹き出していた。スーパーにあるんじゃないかな、たぶん。そう応えたらセティカがやっと、笑ってくれた。
その日からセティカは、部屋に籠るようになった。
部屋から出てくるのは食事とトイレとお風呂のときくらい。食事のときも表面上は変わりはないように見えて、実際は上の空だった。とーさんもかーさんもそんなセティカの様子に気が付いてはいたし心配もしていたけれど、問い詰めるようなことはしなかった。きっとセティカを信頼しているから。話したいと思った時にはちゃんと話してくれるって。ふたりの思いはもしかしなくても裏切られることになるだろうけど──裏切られた、と思うこともないのかもしれない。
ぼくは自分の部屋でセティカが書いてくれたメモを眺めながら、もう時間がないはずなのに大丈夫なのだろうかと気を揉んでいた。転移術は完成していると思っていいんだろうか。もうぼくに、手伝えることってなにもないんだろうか。
今日もお昼時になっても部屋から出てこないセティカのために、とーさんに教えてもらったチーズトーストを作った。ちょっと待ってみたけど出てくる気配がないので、遠慮もせずどんどんとセティカの部屋のドアを叩いた。やっとドアを開けたセティカに「チーズトースト焼いたよ」と声をかけた。ここ数日のセティカはきっと、まともに寝てない。目の下にはくっきりとクマが浮いている。
チーズトーストをもそもそ食べながら、セティカの様子を伺う。食事をする時間も惜しいのか、セティカはろくに咀嚼もせずに頬張ったチーズトーストをカフェオレで流し込む。
「……大丈夫?」
セティカがぼくを見た。ちゃんと笑った。
「少し疲れてはいるが、大丈夫だ」
とても「大丈夫」には見えないんだけど。そう続けるとセティカの顔から笑みが消えた。明らかに寝不足で疲れている様子のセティカの瞳に、強い光が宿った。
「今日明日には片が付く。片がついたら──」
──元の世界へ戻る──決意に満ちた強い調子で続けて、セティカは小さく頷いて見せた。セティカの言葉を信じてあげればいいのにそれができないのは、心のどこかでセティカにこの世界で生きていってほしいと願っているせいかもしれない。
「あの、さ──、もう、ぼくに手伝えることは、ない?」
カフェオレを飲み干したセティカは、瞳をくるっと巡らせる。
「ある。だが今はいい。その時になったら頼む」
「そっか、解った」
「それよりしょーしろぉ、宿題は進んでいるのか?」
ぎくっとした。宿題。そういえばそんなものもありましたね。どうしてそんなことを急に。
「数学の宿題のことを心配しておったから」
確かに心配していた。宿題として課された数学のワークは、指定の範囲のほとんどがまだ白いままだった。いざとなったら里村に泣きつこうと思って──
「サトムラは気がいいからな。しょーしろぉの頼みを無碍にはせぬだろうが、礼は欠かすなよ」
ぼくの考えを読んだみたいな言い方以上に「礼を欠かすな」と言われたことに驚いた。セティカがそんな、人を気遣うようなことを言うなんて。
「失礼な。儂はこれでも、世話になった人への恩義は欠かしたことはないが?」
そうだっけ?──そうだったかも。確かに主人公への忠義は厚く、お師匠に対してはびっくりするくらい義理堅い。ただほかのひとにはそんな気遣いをするようなキャラではないように思っていたけど、逆を返せばセティカにとって心から大切なのは、そのふたりだけってことなんだろう。
そこにぼくも入れてもらえているだろうか──思ったけれど口には出さなかった。
「ごちそうさまでした。うまかった」
セティカはぼくにそう言うと、自分が使ったお皿とマグをさっさと片付けてキッチンを出て行った。ぼくも片づけを済ませると、セティカに言われた宿題を少しでも片付けるために部屋に行った。数学のワークを広げて一問解いて、だけどその先が続かなった。諦めてぼくはワークを片付けスケッチブックを広げて、人物のポーズ集を見ながら模写をした。膝を抱えてうずくまるポーズの模写をしながら、そこにセティカの顔が見えた気がして心臓がぎゅうとなった。もしもうまくいかなかったら──湧き上がる不安を吹き飛ばそうとしたら逆にどんどん膨らんで、だからポーズ集の模写の手もそこで止まってしまった。机に突っ伏して瞼を閉じる。
どうかセティカが無事に──その先が続かない。理由は解ってる。ぼくが醜いからだ。そんなぼくが願えることは、たったひとつ。
せめてセティカが悲しい思いをしませんように。




