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登校日。
登校日の前の日の夕方に里村から「なんの勉強すんの?」ってメッセージが来た。英語と理科。返すと里村は『は?』と訳の解らない返信をしてきた。
『英語はともかくなんで理科?』
なんでと聞かれても答えに困る。強いて言うなら、気分。暗記科目の社会を伸ばした方がいい──というのが里村の言い分だったけど、きっとみんなが同じように考えるなら、何をがんばったって同じだ。得意科目と呼べる科目が美術しなかいぼくにとっては。それに。
もしほんとうにセティカと一緒に、あの世界へ行くのなら。
受験勉強なんてもう、なんの意味もないから。
──ぼくがセティカに「一緒に行けないか」と聞いたとき、セティカは明らかに動揺した。きっとセティカも同じことを考えた。主人公が女婿として婚儀を済ませるまでのことを知っているぼくがそばにいれば、主人公にとっては間違いなく有利に事が進む、って。だからセティカにとってはこの上ない申し出だとは思ったんだけど。結局セティカからは何の返事もない。今日も朝からセティカと顔を合わせていたけど、誰が見てもぼくとセティカの間にそういうやり取りがあったなんて思わないだろう。セティカはあまりにもいつも通りだったし、ぼくもできるだけいつも通りでいるように心がけていた。
美術室に行くと里村はとっくに着いていて、なんならスケッチブックを開いていた。勉強の前にデッサンの練習でもしようってことかな──とよく見てみたら、里村が見ていたのはぼくのスケッチブックだった。
たぶん、普通なら怒るんだろう、けど、里村は一年の初めころからずっとこうだし、里村がこうと知ってからは見られても嫌じゃないものしか部活用のスケッチブックには描いていないし、だからぼくは言った。
「また見てんの?」
里村は顔も上げずに答える。
「国原の絵って好きなんだよね」
これもいつも通り。要するにぼくは里村に「ぼくの絵が好き」って言われるのが好きなんだと思う。
「ところでさ、ちょっと気になったんだけど」
里村はあるページを開いたままでぼくを見上げた。セティカのイラストを描いたページだ。
「これさ、二年の──秋ごろの頃のイラストだよね?」
ぼくの中でセティカ熱が急上昇した頃だから、間違いない。里村の指摘に、ぼくはなんと答えるべきだろう。
「彼女だよね?」
迷った。もしかしたら里村なら、本当のことを言っても信じてくれるかもしれない。
「もしかして、国原の理想の女の子が現実に現れた──とか、そういう、嘘みたいなほんとの話、ってオチ?」
そうなんだよね、あはは──って誤魔化せたらよかったのに、なぜかそれができなくて黙ってしまった。
「──国原?」
「……っ、まーまー、そういうことは、どーだって、いーじゃん?」
動揺しまくって声が少し震えたように思う。ちらっと里村の顔を盗み見たら、すごく傷ついたような顔をしていたからどきっとしてしまった。
「──なんか、ごめん。言いたくないことだってあるよね?」
慌てて首を振る。言いたくない──訳じゃない。むしろ里村になら喋ってもいいとさえ思う。
「どーする? 勉強の前に、一応部活のための登校日だから、静物デッサンでもする?」
「そうだね、そうしよっか」
答えてぼくは、棚から適当にクッキー缶と謎の瓶を取り出して並べた。どちらももうずいぶん前に顧問だった先生が用意したものらしく、ずっと使われ続けているものだ。
「このクッキーって、今は缶に入ってないんだよね」
スケッチブックを広げた里村が言って
「そうなの? まだあるんだ?」
「ネット通販あるよ。バターの風味が効いておいしい。きっとセティカさんも好きだと思う」
里村の口からセティカの名前が出たことにどぎまぎする。
「あ、そっか。うちからモデルになってもらったお礼にあげればいいのか。夏休み終わったらこっそり国原に渡すね」
うん、と返事をして、同時に心の中で里村に「ごめん」と謝っていた。
もしうまく事が運んだら、夏休み明けにはセティカはもう、ここにはいないはずだから。
実技試験の本番と同じ、一時間三十分をきっかり計ってデッサンをした。それから少しぼくから里村にアドバイスらしきものをした。そのあとはお昼過ぎまで英語と理科の勉強。里村の教え方がうまいんだろう、一人では解けない英語の長文もすんなり頭に入ったし、理科のテストで得点をあげるためのコツを教えてもらって、なるほど、と思う。
「里村はどうして、こういうの知ってるの?」
「気が向いたときだけだけど、兄貴が教えてくれるんだよね。別に教えてほしいとか言ってないのにさぁ。きっと『お兄ちゃん』がしたいんだと思う」
きょうだいってそういうもんか。
「あー、どうだろ、うちはちょっと──いや、かなり特殊かも、兄貴変人だから」
言葉の割に、里村はちょっとだけ誇らしげにも見える。きっといいお兄さんなんだろうな。羨ましい。それからも雑談を交えつつ勉強を続けていると、見回りの先生が顔を出して「そろそろ下校しなさい」と言ってきた。十三時ちょっと過ぎだった。学校を出たぼくと里村はそのまま近くのスーパーにあるパン屋さんで適当にパンを買い、駐車場の日陰でパンをかじりながらちょっと喋った。
「そうだ、これどう?」
里村が言いながら差し出してきたスマートフォンを覗き込む。例によってフィギュアの写真。
「──すご」
自然とぽろりと言葉が漏れた。どこからどう見てもセティカだ。
「でしょ? ちょっと自信あるんだよね。文化祭の展示、これにしたいんだけど、セティカさん、嫌かなあ」
セティカはきっとそんなことを嫌がったりはしないだろう。しないだろうけど──里村がぼくの様子にすぐに気が付いて、いかにも心配そうな顔で聞いてきた。
「何か別の心配ごと?」
「あー………………うん」
里村の視線から逃げるように視線を逸らして、それから俯いた。里村がパンが入っていたビニールを丸める、くしゃくしゃという音が聞こえる。それから里村はどうやら、紙パックのグレープフルーツジュースを飲んだみたい。ずここ、と空気を吸う音がした。
「うちが国原をいじめてるみたいで、やな感じ」
そんなつもりじゃ──思いながら顔を上げると、里村はへらへら笑いながら言った。
「あ、っ、ごめん、そういう意味じゃなくてさ。なんか悩みごと? 心配ごと? があるなら、言ってくれればいいのにーって気持ちと、もともとそこまでの友だちじゃないか、って気持ちと。なんかごちゃごちゃしちゃってさ。国原の態度がやな感じってことじゃなくてさ」
里村がへらへらしている理由はよく解らない、けど、ぼくを気遣ったらこうなってしまったんだろう、ということは、なんとなく、解った。まじめな顔されても困るだけだし、怒ったり泣いたりされたらもっと困るし。
「やな感じなのはうちの方だから」
「なんか──ごめん。謝ることじゃないのかもだけど」
「謝るくらいなら──」
里村はその先を飲み込んだみたいだ。
「ここで解散にしよっか。今日は助かった」
「ぼくの方こそ。ありがとう」
里村はへらへらしたまま、うん、と大きく頷いて、じゃあまたねってひらひら手を振ったかと思うと、そのままぱっと駆け出した。遠ざかる里村の背中を見ながら、ぼくは紙パックのリンゴジュースのストローに吸い付いた。ころろろろ、って音を立てて、リンゴ風味の空気を吸っただけだった。




