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元の世界に戻る──これが第一の目標になったセティカは、天文部の夏合宿への参加を取りやめた。なぜならそれは、次にセティカの魔力が「最大」になると思われる、新月の夜と重なっているから──だった。月を観察するなら新月の夜と被るなんて困るだろうけど、天文部が観察するのは「星と天体」なのだから、道理といえば道理だ。
セティカは時間があれば図書館に通い、ぼくも二度、一緒に行った。そのうち二度目はなぜか里村がついてきた。いつもはデスクセットを陣取るセティカは、里村を気遣ってか長机に参考資料を運び込んだ。勉強をするセティカの隣で里村がセティカをスケッチして、そのそばでぼくは気になった美術書を眺める、という、図書館の利用方法としてはあまり正しくない姿ではあった。もしかしなくても他のひとに迷惑なんじゃないかなあと思ったけど、特に誰かに叱られるようなこともなかった。ちょうどその日は事前にセティカと約束をして評判のチーズケーキを食べに行こうと決めていた。ぼくはそれまでにネットの口コミをあらためてちゃんと調べて、ティータイムを過ぎると売り切れることが多いと知ったので、お昼時になると早めにセティカをせっついて、片付けをして例のお店に向かった。歩きながら里村が「暑い、溶ける」とか文句を言ったけどしょうがない。里村自身はチーズが苦手とかで桃のタルトを食べて、それはなんだか申し訳ないように思ったけど、当の里村は「桃好きだから気にすることないよ。さすがにチーズケーキ専門店とか言われたら萎えたけど」と、気を悪くするどころか楽しそうに言った。
「それにほら、こんな美人さんが何かを食べる場面になんて、そうそう遭遇しないじゃん?」
セティカは見世物じゃないよ──そう思ったけど言われたセティカが気にした様子もないので流した。少し時間をかけてゆっくりと味わったチーズケーキは、どちらかというとチーズスフレに近い食感だった。チーズと生クリームの風味が効いていて、口コミでは「夏場は冷凍して食べるのがおすすめ」とあった。試してみたいとも思ったけど、バスやら電車やらを乗り継いで持って帰るのは、保冷剤をつけてもらったとしても心配になる暑さなので諦めた。そのうちとーさんかかーさんに車で連れてきてもらおう。
セティカは評判のチーズケーキを食べるという念願が叶って満足したようで、それからまた図書館で勉強すると言い出した。里村はセティカに付き合うと言う。そう言われたらぼくだけ変えるとは言えなくて、また三人で図書館に戻った。道中でやっぱり里村は「暑い。溶けるぅぅぅ」とかぶつくさ言って、セティカはそれを笑って聞いていた。セティカはどうやら里村のことを気に入ってるみたいだ。図書館に戻り、ますます熱を入れて勉強するセティカを、里村もまた熱心にスケッチしている。
「これどうかな?」
囁きで問いかけられて顔を上げると、里村が手のひらサイズのスケッチブックをぼくに見せてきた。
「うん。いいじゃん」
思ったよりも精密に書き込まれたそれは、もはやデッサンだった。最初のうちに見せられていたのは間違いなくスケッチだったけど、枚数を重ねるうちにどんどん細部を描き込んでいるのが解る。デッサンが好きじゃないなんて信じられないくらいだ。
「人物は好きだよ、それにほら、フィギュア作るし」
里村はにこにこ楽しそう。もう頭の中で粘土をこねているのかもしれない。そう言えば「これどうかな?」って見せらるたび、そこには違う角度から見たセティカが収まっていて、かつ、顔だけじゃなく首とか肩とか背中とかもちゃんと写し取られていて、言うなれば「設計図」みたいでもあった。実在する人物のデッサンとしては、きっとぼくが描いたものよりも丁寧かつ本人に「近い」と思った。ぼくと里村ではきっと、ひとりの「セティカ」という人物を見ていても、脳内では違う処理をしていて、だから出力されるものにも違いが現れるのだろう。面白い。
「受験勉強はどう?」
手を休めずにさらに里村が囁いて、ぐ、と変なうめき声が出た。
正直なところ、今は受験よりセティカの方が優先だった。
実はぼくは、セティカがこうして図書館で何を調べて勉強しているのか、よく理解していなかった。天文学であることには違いないけど、それが暗黒魔術とそれから転移術とどんなふうに結びついているのかは全然解らないからだ。目の前の分厚い美術書のページをめくる手が止まる。
「……そういう国原の表情、初めて見た気がする」
里村がぽつりと漏らした。怪訝に思いその顔を見ると、里村もまた、ぼくがこれまでに見たことのない、暗く沈んだ表情をしていた。さっきまでのにこにこが嘘みたいに。場の空気までも暗く沈みゆくようだ。なにか誤魔化さなくちゃ──どうしてかそんな風に思って。
「──あ……っと、あのさ、今度の登校日に、ちょっと勉強教えてくれない?」
今度の登校日は部活のために設けられたもので、三年生にもなると参加しない生徒も多い。ぼくも里村も、一昨年も去年もちゃんと部活をするために登校したけど、他の部員たちは何をするでもなく、ただ仲のよいメンバーで喋って過ごすような感じだった。それで顧問に咎められていたような記憶もないから、他の部員の邪魔にならなければ何をしても問題ないだろう。
「いいけど。どしたの突然?」
答えつつも里村の表情が少し明るくなったことにほっとして、ぼくはさらに言った。
「家でひとりでやってても、なんか身につかないっていうか。だから」
「そんなもんかね?」
そんなもんだよ。答えると里村が小さく笑った。里村がそうして笑ってくれたことにほっとして、ほっとしたことを不思議に思った。一緒にいるひとが暗く沈んでいるよりはにこにこしてくれた方がずっといいから、きっとそういうことなんだろう。
画集を閉じて時間を見たら五時を過ぎていた。セティカはまだ何かをノートに纏めていて、里村は疲れたのか机に突っ伏して寝ていた。それでも誰にも怒られない。とても悪いことをしているような気分になって、まずは里村の肩を軽く叩いた。寝ていた──と言っても、本当に眠り込んでしまっていたわけではなかったらしく、里村はすぐに顔を上げた。
「いやー……、こんなに長時間、誰かひとりを描き続けたのなんて、初めて」
里村は満足そうに、それでも周りを気遣ってひそひそ声で言った。セティカがちらりと横目にこちらを見た。
「もうそんな時間か?」
それには里村が「もう五時半近いですよ」って答えて、セティカが「そうか」と応じた。
「どんな感じ?」
尋ねるとセティカは、うむ、と頷いただけだった。疲れてはいるようだけど満足げで、よかった。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
促すとセティカも頷いて、いそいそを片付けを始める。閲覧していた資料は手分けして元の棚に戻す。何気なく手に取った本は「地球物理学」に関係する本だった。セティカが勉強していたのは天文学だったように思ったけど、一体これが何に関連するんだろう。考えてみたところで答えは出ないけど、もしかしたらセティカは何かを掴んだのかもしれない、と思った。
「今日は借りる本はないの?」
「とりあえずは。帰って見直しをして、不十分な個所があればまた来ることにする」
セティカの答えに頷きで返して、ぼくたちはまた連れ立って図書館を出た。バスの中でも電車の中でも、セティカも里村も相当疲れたのか、ほとんど口を開かなかった。最寄り駅で里村とは別れ、家に着いたら七時前だった。とーさんもかーさんも帰って来ていて、夕飯作りの真っ最中だった。ぼくたちは洗面所で手を洗ってからとーさんとかかーさんの手伝いをして、順番にお風呂を済ませて、気が付くともう十時近くになっていた。リビングで寛いでいたかーさんに「おやすみ」とは言ったものの、セティカの研究の成果が気になって部屋を訪ねると、セティカは机に向かっていた。
「疲れてないの?」
言うとセティカは笑った。
「お師匠との修練に比べればこんなもの。頭を使うのは苦ではないのでな」
そう言えばセティカはもともと頭がよかったんだった。だからこそ主人公はセティカに魔術を身に着けるよう提案したんだった。
「ごめん、もしかして邪魔だった?」
「いや。儂もしょーしろぉにいくつか確かめたいことがあった。ちょうどよい」




