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新鮮な空気が吸いたいと思って図書館を出てみたけど、外は溶けそうなほどに暑くて一瞬で諦めて図書館に戻っていた。画集を眺めるのにも飽きて絵画の技法の本を何冊か飛ばし読みをして、ようやくお昼になっていた。セティカの様子を見に行くと、ぼくがそこを離れる前とまったく同じ姿勢のセティカが、机に向かい続けていた。まるでセティカだけが時空を飛び越えたんじゃないかと思ったくらいだ。静かに歩み寄り、声をかけようかどうしようか迷って、セティカの視界に入るように気遣いつつ、デスクの端を指で叩いた。セティカが顔を上げた。
「しょーしろぉ。もう時間か?」
「お腹空かないのかなーって思って」
ぼくの言葉にセティカはほっとしたような表情を見せる。どういう感情なのか判断に悩んでいるとセティカが続けた。
「まだ閉まるわけではないのだな。ありがたいが、まだ腹は減ってはおらぬ」
そうしてそのまま勉強を再開しようとしたので、慌てて付け加えた。
「お昼は?」
「腹がくちくなれば眠気に襲われよう? 気遣いは無用だ、しょーしろぉはどこかで食事を済ませるがよかろう」
セティカの言葉は普段よりちょっとちくちくしている。勉強を邪魔されていらいらしているんだろう。セティカにばれないようにこっそりとため息をついて、ぼくはセティカのそばを離れた。コンビニでなにか買って軽くすまそうか、近くにカフェがあるみたいだからそこで時間を潰そうか。それともいっそ一度帰って、閉館時間を見計らって迎えに来ようか。そんなことを考えながらしばらくセティカの背中を見つめていたけれど、さすがにやっぱり少しはおなかに入れないと身体に悪いだろうと考え直して、もう一度セティカに歩みよった。
「近くにチーズケーキが美味しいって評判のカフェがあるみたいなんだけど?」
セティカはペンを走らせ続けている。甘いものでもだめか。
「じゃあ、せめてコンビニでパンでも買って食べようよ?」
続けるとセティカはノートに走らせていたペンを置いた。ぼくを見た。
「今大事なところなのだ」
セティカの真剣な表情に怯んでしどろもどろにはなったけど、負けずに続ける。
「でも、ほら、今日しか時間がない訳じゃないし、ちょっとは息抜きした方が、頭に入るっていうし」
セティカが眉尻を下げた。きゅっと唇を引き結んで、なにかを堪えるような顔をして、それからはー、っとは額息をついた。
「──では、せめて、この本の内容をまとめ終えるまで待ってくれ。まさかここにこうして放り出したままで、外へ食事に出掛けてもよいわけではあるまい?」
自分の家で自分の本で自分の机で勉強しているならそれも許されるけど、ここは図書館だから、都度本はもとの場所へ戻さないといけない。どうしても、というなら、貸出の手続きはしないとだめだし──だからセティカの考えも解らないでもなかった。ぼくは頷いて、セティカの勉強が一段落するのを待つことにした。セティカをそのままに書架の間をふらふら歩き回り、目についた神話の本を手に取るとセティカの隣に座って読みながら待った。
たまにスマートフォンで時間をちらちら確かめながら待つのはまったく苦にならなかった──といえば完全に嘘だ。っていうか早く終わればいいのにとさえ思った。でも俯いてせっせと何事かをノートにまとめるセティカを見ているのは悪くなくて、ここが図書館じゃなかったらそのひたむきな目をしたセティカの横顔をスケッチしたいくらいだった。図書館で絵を描いてはいけないことはないだろうけど、それでもやっぱりそれは本来の使用目的からは外れていると思うから、結局その横顔を盗み見て、しっかりと記憶に焼き付けるに止めることにした。やがてセティカは手を止めた。ペンを置き二三度首を回すように動かしてから顔を上げぼくを見た。
「待たせてすまなかった。この本は一通りまとめ終わった」
もう三時に近かった。お昼って時間じゃなくなっちゃったので、セティカに聞いてみる。
「そっちの本は借りることにして、どっかで甘いものでも食べて、帰ろうか?」
「借りる──そうか、その手があったのか」
明らかに失敗した、という表情でセティカが呟く。
「でもほら、図書館は静かだし、集中できたと思えば」
「それはそうなのだが。必要な本を借りて帰れば、しょーしろぉをここまで待たせることもなかったのに、と思うてな」
セティカが優しくてじーんとした。待ってる間にセティカの横顔を眺めていられたから大丈夫だよ、とか言ってみたい気もしたけど、それは言えないまま。
「──えっと、じゃあ、終わった本を片付けて──、たしか一人五冊まで借りられるから、借りる本を決めよ」
「そうしよう」
机の上をきれいに片付けて本を持って元の書架へ戻る。セティカが借りる本を吟味するのにも少し時間がかかったけど、それはもうしょうがない。神話の本を戻してからセティカのところに行くと、ようやく借りる本が決まったようだった。カウンターでセティカは職員さんに言われるがままに生徒手帳を提示して、職員さんは生徒手帳とセティカの顔を見比べながら、こんなことを言ってきた。
「もしかしなくても、留学生さん? ですよね?」
なにか問題でもあるんだろうか。セティカは訝しげに眉をひそめる。
「あ。失礼なことをごめんなさい。市の広報でお見かけしたのを覚えていて」
職員さんの言葉にセティカの表情から険が抜けた。むしろ少し微笑んでさえいる。少しよそ行きで、ぼくは見慣れないタイプの微笑みを浮かべて「そうでしたか」なんて応じている。
「貸出期間は二週間です。もし期日に間に合わない場合は、一度だけ一週間延長できますので」
職員さんの言葉にセティカの表情から険が抜けた。むしろ少し微笑んでさえいる。少しよそ行きで、ぼくが見慣れないタイプの微笑みを浮かべて「そうでしたか」なんて応じている。
「貸出期間は二週間です。もし期日に間に合わない場合は、一度だけ一週間延長できますので」
職員さんの説明に「ありがとう」と答え、セティカは本を受け取った。かーさんに借りたエコバッグに本を入れたセティカに向かって手を差し出した。
「重いでしょ、持つよ?」
「儂が儂のために借りた書籍を、なぜしょーしろぉが持つのだ?」
なぜと聞かれると困る。セティカの役に立ちたいし喜んでもらいたいし、まあ要するに歓心を得たい、というやつなんだけど、ぶっちゃければ下心というやつでもあるわけで。
「きっとセティカよりぼくの方が力も体力もあるだろうから。適材適所というやつだよ」
どうにか理由を捻り出してセティカから本の入ったエコバッグを受け取る。ずっしり重い。図書館を出ると四時近くになっていて、今からスイーツもどうかなと思ったけど、どうやらセティカは。
「して。その、チーズケーキが評判──とかいうカフェは、どこにあるのだ?」
食べる気満々、しっかり覚えてた。スマートフォンで調べたルートを確かめながら先に立って歩くこと十分弱。ほんとうにここが? という見た目のカフェに辿り着く。古めかしくて重いドアを開けたら、やっぱり古めかしいからんころん、という鈴の音が鳴った。正面のライトアップされたショーケースの中には色とりどりのケーキが並び、セティカがきらきら──というよりギラギラした目付きでショーケースに食いつきそうなほどの距離で中を見ている。
「イートインですか?」
スタッフさんに「はい」と答えて、続けて「チーズケーキが美味しいと聞いて」と言ってみたら、スタッフさんは残念そうに声を落とした。
「そうでしたか。実は本日分のチーズケーキは終わってしまって」
そこでセティカが顔を上げる。
「チーズケーキはなくとも、うまそうなスイーツがこんなにもある。この中でおすすめはどれか?」
スタッフさんはセティカの科白にぱっと表情を明るくして、生き生きとした調子でセティカにあれこれ薦め始めた。セティカは生真面目に頷きながらスタッフさんのおすすめを聞き、検討に検討を重ねた結果、シュークリームとレアチーズタルトに決めた。ぼくはオーソドックスなショートケーキ。それからチョコチップクッキーが美味しそうだったので、テイクアウトにした。とーさんとかーさんへのおみやげだ。
お好きな席にどうぞ、と言われたので二階席の窓際に座った。午前中なら陽が当たって暑いかもしれないけど、夕方に近い今なら暑さも気にならない。席は七割ほどが埋まっていて、みんな幸せそうだった。ほどなく運ばれてきた三種のスイーツを前にセティカの表情はぴかぴかしている。レアチーズタルトにはブルーベリーソースが添えられていて、より美味しそうになっていた。周りのざわめきを耳にしながら、セティカと一緒に食べるケーキはほんとうに美味しくて、これが評判のチーズケーキだったらもっともっと幸せかもしれない、なんて考えていると。
「また来よう。次こそ評判のチーズケーキだ」
晴れやかにも見える笑顔を浮かべたセティカの言葉はなんだかとてもくすぐったくて、だけどすごく嬉しかった。




