16
日曜日はいつもより早起きをした。できるだけ涼しい時間帯で朝ん歩に行こうとエントランスを出たけれど、その直後にはもう、その考えは甘かったと悟った。昨日に引き続き、暑い。柴三郎さんを見下ろせば、柴三郎さんはげんなりした様子でぼくを見上げていた。その目は明らかに「こんなに暑いのに朝ん歩に行くって本気ですか?」と言っていた。行きたくないよね、解る。とはいえこのまま朝ん歩に行かず戻るのもなんだか癪なので、歩道に出てからさてどこのルートにしようとかと考えていると。
「ずいぶん早いな?」
振り向くとセティカが立っていた。
「セティカこそ。やっぱり、──」
──昨夜寝る前、いつものようにぼくを『覗いた』セティカは「ありがとう」と言ってぼくから離れた。その声がいつもと違って固かったので、不思議に思ってセティカを見つめると、セティカは真面目な表情で続けた。
「これまでほんとうに助かった。しょーしろぉのおかげで、この世界の理もずいぶん知れた。これからは──大丈夫だ」
その目を見れば、セティカが心からそう思っているのは解った。ぼくの役目は終わったってことか。セティカを幸せにする──なんて息巻いてはみたけど、まだ子どものぼくにはそんなの無理だったんだ。悔しくて言葉も出ない。
「そんな顔をするでない。『覗く』のは終いに、というのは、しょーしろぉのためでもあるのだから」
ぼくのため? どこがどんなふうに?
「しょーしろぉ本人は無意識のことだろうが、儂が『覗く』とき、しょーしろぉの精神が強ばるのが伝わってくる。はじめのうちはそれほど深刻ではなかったが、ここ数日は特にそれが強まっておってな。しょーしろぉは、よほどなにか儂に知られたくない事情を抱えておるようだし」
それはぼくの事情というより、セティカの事情なんだけど。でもそんなふうに思ってたのかセティカは。
「そこに触れぬように『覗く』のは、儂にとってもなかなかの負担でな。うまく『覗く』ことができない夜もあったほどだ」
そうなの? そんなのひとことも言わなかったじゃないか。
「しょーしろぉはやさしいからの。言えば心配するだろう?」
「そりゃ言われたら心配するけど、隠されたらもっと心配するよ。あの池に行ってることだって──」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。セティカの顔が歪む。セティカはさっと視線を逸らし、ちょっと考えたあとでぼくを見て、口を開きかけて止めた。そのまま瞼を閉じる。しばらくしてセティカは静かに瞼を開けると真っ直ぐにぼくを見た。エメラルドの瞳はいつにもましてきれいだった。
「あの世界のことは忘れてしまった方が、幸せだろうか?」
どきっとした。この世界で生きていくうえでは、あの世界のことを覚えておく必要は全然ないだろう。では忘れてしまった方がいいのかというと──正直なところ、ぼくにも解らなかった。あの世界でのセティカが今のセティカにつながっているのも確かだし、ぼくはあの世界にいたセティカが大好きで──そのセティカがいなくなってしまうのはぼくにとっても寂しいようにも思う。
「ひとの記憶は頼りなく、いずれは薄れあるいは移ろう。このまま時が経れば儂の記憶も薄れ移ろうだろうが、それでも儂は、できうる限り、あの世界のことを覚えておきたいのだ。あの池に行くと自然とあの世界の記憶が呼び起こされ、もちろんそれは楽しいことや嬉しいことばかりではなかったが──、だからこそ儂はこの世界に馴染もうと努めることができるように思えてな。お師匠との修練の日々は辛いことの積み重ねだったが、そこから得た学びは儂の骨身に沁みておる。あの日々が今の儂を作り上げたのだから、それを失いたくないと思うのは、人としての道理ではないかと、儂は思うのだ」
セティカの言い分はもっともだ。セティカの幸せってなんだろう。あらためて考える。少なくともあの世界でのセティカを消してしまうことではないような気はした。その一方で、あの世界でのことなんて全部忘れてしまえばいいのに、と思ってしまう自分もいる。理由にはとっくに気づいていた。
セティカがあの世界のことを忘れないということは、彼のことも絶対に忘れないってことだからだ。
彼のことを忘れないうちは、きっとセティカは誰のことも好きになったりしない。あの世界のことを──彼のことを忘れてしまったからといって、セティカがぼくを見てくれる保証なんてどこにもないけど、でも、少しは可能性が出てくるはずで。ぼくはそれを期待している。
「しょーしろぉ?」
ずいぶん長いこと考え込んでいたようだ。セティカに呼びかけられてはっとしてその目を見れば、やっぱりきれいなエメラルドがぼくを見ていた。ぼくは──ぼくは。
「──ごめん、ぼくにはなんとも言えないや」
醜い本心を隠して応えたぼくに、セティカはがっかりしたようにも見えた。それからセティカはうっすらと微笑んで、ぽつりと呟いた。
「──そうだな。こんなことを聞かれても、しょーしろぉには答えようもないな。おかしなことを聞いて悪かった」
ぼくはただ首を振った。うわべだけでも「ゆっくり考えたら?」とか言ってあげればよかったのに、それすら言えなかった。セティカは「おやすみ」を残してぼくの部屋を出て、ぼくはぼくでそれからしばらく寝付くことができなかった。セティカの幸せってなんだろう。その問いがいつまでの頭の中を駆け巡っていた──。
「──あの池に行くの?」
ぼくの問いにセティカはしっかりと頷いた。その表情は昨夜よりも晴れやかで、たぶんセティカの中で答えが出たんだろう。ぼくも腹を括るしかない。セティカの幸せってなんだろう。また同じ問いが浮かんで。
難しいことはぼくには解らない。だってまだ子どもだし。だけど、うん、やっぱりそれは、あの世界のことを忘れるってことじゃなくて。
ありのまま、今のまま、この世界で生きていくこと。
そんな気がしたんだ。だから。
「行くなら行くってちゃんと言って。セティカ、ケータイも持ってないから、心配するでしょ?」
そう言い返すとセティカが目を丸くした。きっとぼくに止められると思ったんだろう。もう止めないよ。
「それから。池に落ちてびしょ濡れになったりしないでよね?」
さらに付け加えると、セティカは満面の笑みを浮かべて言い返してきた。
「まさか、そんなわけなかろう?」
「どうだか」
ぼくはそう言ってから、柴三郎さんを促して歩き始めた。いつものコースとは違う、ショートカットでぐるっと一回りして戻ってくるコースに進路を取る。池に向かうセティカの進路とは全くの反対方向に。その方がきっとセティカの気も楽だろう。柴三郎さんが不思議そうな目でぼくを見上げて来たので、ぼくは「いいんだ今日は。だってあっついし。さっと一回りして帰ろう」と声をかけた。柴三郎さんは納得したように顔を前に向けた。




