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帰って制服から着替えていると玄関からセティカの「ただいま」が聞こえてきた。
セティカが留学生として高校に通うようになってから三週目。今週に入ってから、セティカは毎日帰りが遅かった。部活をやっているぼくよりも。さすがに気になってセティカに聞いてみた。
「毎日遅いね。大丈夫なの?」
制服から着替えたセティカをリビングで待ち構えるようにして声をかけると、セティカは朗らかな声で「ああ」と返事をした。
「部活動に誘われていてな。もしどこかの部に所属するなら、夏休み前までに決めてほしいとかで。月曜からあちこちの部活の見学をしておる」
セティカの表情はいきいきとしていて、まるで最初から本物の高校生みたいだった。この先も現世で生きていくならそれはとてもよいことだと思うのに、ぼくが知っているセティカがどんどん失われていくようで寂しいようにも思う。孤高の暗黒魔術師──そんな肩書きはもうセティカには必要ないのに、ずっと背負っていてほしいような。身勝手にそんなことを考えてしまったことを悟られないように、落ち着いた口調を心がけて聞いてみた。
「なにをするのか決めたの?」
「まだ決めてはおらぬ。先生は全ての見学を終えて仮入部をしてみて、それで気に入れば入部する形でよいとおっしゃるのでな。それに甘えさせていただこうかと」
セティカは楽しそうながらもきちんとした口調できっぱりと言いきって、軽く首を傾げた。
「なにか不都合でもあったろうか?」
思わず頷きかけて、慌ててぶんぶんと首を振った。不都合ではない。ただちょっと──いやだいぶ──思ったことを口に出しかけて、我に返って思い止まった。──こんなことセティカ本人に言ったって。目をあげるとセティカが自然とぼくのおでこに自分の額を合わせようとしていたことにどぎまぎしつつ、その肩を押さえると顔を背けた。
「当たり前みたいに覗こうとしないでよ?」
キッチンで夕飯の支度をしているかーさんにばれないように囁く。セティカはしれっと答えた。
「当たり前とは思うておらぬ。だが、しょーしろぉが何を隠そうとしたのかは気になる。この時機を逃せばそれはしょーしろぉの奥に潜んでしまうからなあ」
奥に潜む? セティカの言葉を不思議に思って見つめ返すと、セティカは至極真面目な表情をしていた。
「奥に潜むということは、おいそれとは明かせぬということだとは理解したうえで、それでも知りたいと思うこともあるのが人間であろう。もちろん、少し力を強めればできなくはないが、そこまでするつもりはさらさらないのでな」
その表情はきれいでかっこよくて惚れ惚れした。今の言葉をその通りに受け止めるなら、セティカが勝手にぼくの内心までもを覗いていることはない──ってこと?
「以前にもそう言うたと思うがな? しょーしろぉは儂を、約束も守れぬ人間だとでも思うておるのか?」
セティカがさも心外だ、という表情を見せる。確かに前にもそんな意味合いのことを言っていたかもしれない。よく覚えていなかったとは言えひどく失礼で、申し訳ないような気持ちになった。なんか、ごめん──そう絞り出すとセティカはちょっとだけ口許を緩めた。
「──しょーしろぉはいつも、何事かを呑み込み隠そう隠そうとしているが、それが何事か判明すれば、何か儂でも役に立てるのではないかと思うてな。──だからといってやってよいことではなかったな。済まなかった」
呑み込み隠そうとしている──という指摘にどきりとして、それからぼくの役に立とうと考えてくれたセティカの気持ちにじーんとした。
「して、どうか? 儂に打ち明けてみようとは思わなんだか?」
すぐに返事ができなかった。それを知ったらセティカがどんなふうに感じるのか、想像ができなくて。だから。
「──この先、もうちょっと時間が経って、大丈夫そうなら、たぶん」
ぼく自身も迷っている今の状況では断言ができなかった。それでもセティカは頷いてくれた。
「どうしたんだふたりとも? 深刻そうな顔して」
仕事から帰ったとーさんがリビングに入るなりそう声をあげた。ぼくはセティカと視線を交わして、それからとーさんに向かって首を振る。
「儂が美術部とやらに入れば、絵を教えてくれるかとしょーしろぉに聞いておっただけだ」
隣のセティカがしれっと答える。びっくりしてその顔を見れば、セティカは笑みを返してくれた。
「祥志朗が絵を教える?」
とーさんが呟きながらぼくの顔を見る。にやついたその表情からとーさんの言いたいことを察した。確かにぼくは誰かに絵を教えるようなタイプじゃないよ。でもセティカに頼まれたなら——そこで脳裏に浮かんだのは部室での里村の様子だった。教えると約束したわけじゃないけど、たぶんあれはぼくが了解したと思った顔つきだった。どうにか都合をつけないとなあ、なんて考えていると。
「とーさんはしょーしろぉに厳しいのではないか? しょーしろぉは親切だが?」
セティカがとーさんに言い返した。その口ぶりにはぼく以上にとーさんがびっくりしたようだった。
「いやあ、そういうつもりじゃなかったんだけどな。気を悪くしたならごめん」
とーさんは素直に詫び、セティカも「言い方がきつかった」と謝る。それはやっぱりぼくがよく知るセティカそのままって感じがして、なんだかぼくはほっとしていたのだった。
朝から、暑い。
七月も半ばを過ぎて、そろそろ梅雨明けも近いのだろう。
いつもの土曜日の朝ん歩。柴三郎さんは意気揚々とエントランスを出たけど、すぐにそれを後悔するかのような顔つきでぼくを見上げた。ぼくもあまりの暑さにげんなりして、だけどこのまま取って返すのも癪なので、最短ルートで神社へと向かう。街の一角とは言え、神社の敷地は木に囲まれているせいか、幾分暑さは凌ぎやすい。境内をぐるりと回り込むように進む。柴三郎さんがちらっと目を上げて池のある方を見た。ぼくはそれに気がつかないふりをしてリードを引っ張る。柴三郎さんが足を突っ張る。どうしたの、と聞こうとして止めたのは、池の方からセティカが姿を現したからだった。家を出るときにセティカの靴がないことには気づいていたけど、ほんとうにひとりでここに来ているなんて。セティカはぼくに気がついても顔色ひとつ変えず、普通に歩み寄ってきて普通にしゃがみ込んで柴三郎さんをわしわしした。
「暑いなあ。柴三郎さんは毛皮を着ているからさぞ堪えるだろう」
セティカがしゃがんだままでぼくを見上げる。なんだろう?
「水はまだか? しばさぶろーさんが待ちわびておる」
言われてぼくは慌てて柴三郎さんに、携帯用の水のみを差し出した。水のみはあっという間に空になって、柴三郎さんは不満そうにも見える。予備のペットボトルを持ち出すのをうっかりしていた。
「神社のひとに水をもらってこようか?」
セティカに言われて、ちょっと迷ったけど「お願い」と答えていた。柴三郎さんが恨めしそうな目つきでぼくを見ていたから。立ち上がったセティカに空になったペットボトルを託すと、セティカは迷わず鳥居をくぐって社のある方へと消えた。ほどなく戻ったセティカの手には、水で満たされたペットボトルと、もう一本別のペットボトル。見たところ未開封っぽいし、うっすらと結露している様子から、よく冷えていることが伺えた。
「どうしたの、それ?」
「儂と、それからしょーしろぉも水分を補給せよと。宮司さんが分けてくれた」
セティカは言いながら冷たいペットボトルを差し出してきた。
「セティカが飲みなよ。ぼくはだいじょうぶ」
そう言いながら、セティカが掴んでいる水入りペットボトルを受け取って柴三郎さんに飲ませた。横目でセティカを伺うと、手にしたペットボトルを見つめたままで、何か考え込んでいるようにも見える。
「……セティカ?」
心配になって、恐る恐るその名を呼ぶと、はっとしたように顔を上げてぼくを見た。
「——————すまない」
謝られても——困る。セティカの視線から逃げるみたいに俯いた。確かにぼくはセティカに「ひとりであの池へ行かないで」とお願いしたけど、約束したわけでも、ましてや禁じたわけでもない。セティカにはセティカの考えや思いがあって「したい」と思うことまで、ぼくに禁じる権利もない。それに、なんとなくではあるけれど、解っていたことだ。セティカがまたあの池に行くであろうことなんて。どうやらそれはぼくが思っていた以上に頻繁におこなわれていた様子で、だったらひとこと、言ってほしかった──なんて、虫がよすぎるだろうか。セティカの顔を見ず、足元に視線を落としたままでそんなことを考えていた。へっへっへっへっへっへっ——柴三郎さんがせわしない呼吸を繰り返していて、耳の付け根を撫でてやる。
「——とにかく帰ろ、暑いし」
気まずくてセティカの顔を見ずに言ったら、視界ににゅっとペットボトルが差し込まれた。
「飲め」
小さく首を振って顔を上げると、セティカは真顔でぼくを見ていた。感情が読めない。怖い。
「熱中症の予防にはこまめな水分補給が必須。しょーしろぉの身に何かがあったら、とーさんとかーさんに顔向けできない」
無表情でそう続けたセティカは、なんだかどうしようもなく、ぼくがよく知るセティカだった。無言で受け取ったペットボトルは結露でびしょびしょで、蓋を開けるのに手間取ってしまった。ひとくち含んだらまだ冷たくて、もしかしたらセティカが魔術で、冷たいままに保ってくれていたんじゃないか、なんて。暗黒魔術をそういうふうに使えるって聞いたことはないけど。




