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 梅雨の合間の、貴重な晴れ間だった。

 リビングではその気配を察したのか、すでに柴三郎さんが期待に満ち満ちた眼差しでぼくを見上げている。ぼくはその頭を軽く撫でてやるとリードとお散歩バッグを掴む。声をかけるより前に柴三郎さんはとっとと玄関に向かっていた。リードを繋いだ柴三郎さんを抱えて玄関を出て、エレベーターに乗る。エントランスの自動ドアを抜けると、まだ早朝の爽やかな、だけどやや湿り気を帯びた空気が身体にまとわりつくよう。ぼくより先に一歩を踏み出そうとした柴三郎さんを牽制するように軽くリードを引いた。少しだけ不満そうにぼくを見上げて、それでも柴三郎さんはぼくが歩き出すのを待ってくれる。小さく「よし」と呟いてぼくは一歩を踏み出した。

 土日と祝日の朝のお散歩——朝ん歩はぼくの当番だ。先週の日曜日は雨が嫌いな柴三郎さんがどうしても朝ん歩は嫌だというのでぼくとは行かずじまい。夜になってとーさんが、雨と雨の隙間を縫うように連れ出し十分と経たずに帰ってきた。

 だから、ぼくとのちゃんとした朝ん歩は六日振りだ。間を開けるとすぐに柴三郎さんはぼくにマウントを取りたがる。とーさんからはそれを許してはいけないとしつこく言い聞かされている。

 いつものお散歩コースを気持ちゆっくりめに歩く。ぼくが当番のときには必ず通る神社の境内方面へ向かって、込み入った住宅街の細い道路を気ままに歩く。歩調はのんびりだ。柴三郎さんはそれに焦れる様子もなく、ぼくの歩調に会わせてのんびり歩く。のんびり歩いているはずなのにじんわりと汗ばむような感じがするのは、暑いんじゃなくて湿度のせいだろう。神社の境内へ続く短い階段を昇り、鳥居は潜らずに西側にぐるっと回る。神社の西側は住宅街を少し見下ろす形になっていて、厳重な柵と小さなベンチが据えられている。その柵にちょっともたれるようにして住宅街を眺めながら小休止するのが、ぼくは好きだ。もっと暑い時期ならついでに水分補給をするんだけど、まだそこまでの暑さじゃないから、ビスケットを二欠片ほど食べさせてやる。それもあって柴三郎さんは、ぼくが再び歩き出すまで辛抱強く、だけどちょっとつまらなそうに、地面や柵の匂いを嗅ぎながら待ってくれている。

 土曜日の早朝、住宅街はまだ眠っているみたいに静かだ。柵にもたれようとして、まだ濡れていることに気がついて諦めた。微かに聞こえてくるのは新聞配達のバイクのエンジン音だろうか。深呼吸とともにずうっと遠くまで視線を送っていると、最近ぼくを悩ませているある問題が自然と心に沸き上がってきて、深呼吸はため息になっていた。とーさんとかーさんは、普通科にしておけっていう。ぼくは芸術専攻コースに進みたい。去年の秋ごろから堂々巡りの「受験」の悩み。頭では解ってるんだ、とーさんとかーさんが普通科にしておけっていう理由。芸術専攻コースに進んだところで、芸大や芸術系の専門学校への進学が約束されている訳でもなければ、先々そういう分野で活躍できる保証だってない。普通科に進学して、今までどおり絵画教室に通って、三年間でゆっくり「その先」を考えろ──というのだ。

 だけどぼくにはその「三年間」が、どうしてももったいないように思えて仕方がない。ぼくはいつだって絵を描いていたいのに。

「あおん」

 滅多に吠えない柴三郎さんの声で我に返った。しびれを切らしたのだろうか。

「ごめんお待たせ、い──」

 こうか、と続けようとして、柴三郎さんが神社の方へ身体ごと顔を向けている姿が目に飛び込んできた。柴三郎さんは四本の足を地面に刺さるのではないかというほどにしっかりと突っ張って、力を込めて神社の方を見ている。さすがに歯を剥き出してはいないけれど、なにかを強く警戒しているよう。

「──柴三郎さん?」

 集中を切らしてしまうのが申し訳ないような気持ちで、そうっとその名を読んだ。柴三郎さんはぴくっと小さく耳を動かし

「あおん!」

とひとこえ吠えてから、急に走り出した。あまりにも急だったのでぼくはリードごと柴三郎さんにひっぱられ転びそうになった体勢をどうにか建て直して、ぐんぐん走る柴三郎さんに食らいつくように走る。柴三郎さんが目指しているのは──神社の裏手にある池の方だとすぐに気がついた。ちょっと待ってよ柴三郎さん、ぼくそっちには行きたくないんだけど!

 心の中ではしっかりとそう言ったつもりだったけど、走っているせいで息が上がってうまく声にならなかった。柴三郎さんのスピードに合わせて走り続けるなんて、ぼくには無理。だんだんスピードが落ちていくぼくに、柴三郎さんは目もくれずぐいぐいリードを引っ張っるもんだから、リードを握り締める手が痛くなってきた。ついにぼくはリードから手を離してしまい、ぼくというお荷物から解放された柴三郎さんはさらにぐんと加速して、あっという間に行ってしまった。

「しば……さ、ろー──」

 ぜえぜえと息をしながらぼくは柴三郎さんを追った。もしこの先にいるのがよその犬だったりしたらどうしよう。不安が過る。それに池。あの池。

 ──ぼくが小学生になる前、年中か年長の頃、おばあちゃんと一緒に秋祭りに来た。おばあちゃんはもともとこの辺で生まれて、やっぱりこの辺で生まれたおじいちゃんと長く一緒にこの辺に住んでいたけれど、おじいちゃんが身体を悪くしたことをきっかけにサポート付き住宅に移り住んで、この辺を離れていた。年に数回、おばあちゃんひとりで遊びに来ることがあって、そのときもおばあちゃんだけが遊びに来ていた。ちょうど神社の秋祭りの頃だった。

 夕闇の中境内に並んだ露天の提灯を見上げ、たこ焼きをねだるとおばあちゃんは笑って、綿菓子も一緒に買ってくれた。境内の脇に立てられたテントの下でたこ焼きを頬張っていると、おばあちゃんは神社の奥に視線を向けながら、ぼくに尋ねてきた。

「あの奥には、今も池がある?」

 たこ焼きのせいで返事ができなかったぼくが頷きで返すと、おばあちゃんは内緒話をするみたいにぼくに顔を寄せてきて。

「いい? よく聞いて。決してひとりであの池に近づいちゃダメよ。あの池はね、昔から『神隠しの池』って呼ばれてて、何人もの子どもが行方知れずになったんだから」

 そのときのおばあちゃんの表情は真に迫っていて、ぼくはたこ焼きを飲み込むまでにめちゃくちゃ時間がかかってしまった。中に入っていたたこが思いの外大きかったからじゃない。ようやくたこ焼きを飲み込んで、また頷いたぼくの頭を、おばあちゃんは「いい子」と言いながら何度も何度も撫でてくれた。その夜ぼくは原因不明の高熱出し『かみかくしのいけ』とうわ言を繰り返したそうだ。それ以来、ぼくは怖くてこの先にあるであろう池に、近づけなくなった。小学生になると学校から「子どもだけで水の近くに近づいてはいけない」と数回お達しがあって、だからぼくは『神隠し』は本当で、なおいっそうその池に恐れを抱くようになった──。

 もう何年も近寄っていないあの池。今もそのまま──だろうか。どうか埋め立ててられて姿を消していますようにと祈りながら柴三郎さんが消えた細い道を辿る。

「柴三郎さんっ!」

 ようやく追い付いた柴三郎さんは、やっぱり地面に突き刺さるのではないかと思うほどまっすぐに足を突っ張っていた。池はぼくの記憶にあるのと同じまま、そこにあった。記憶よりもその水面が暗く淀んでいるようにも見えて、思わずぶるっと身体が震えた。よその犬がいる──なんてことはなく、それには少しほっとしつつ、控えめに「柴三郎さん」と呼びかけた。今度は柴三郎さんは、ぴくっと耳を動かすこともしなかった。池の周囲はぐるっと木々に囲まれていて、生い茂った葉が陰を落とし、薄暗いじめっとした印象に拍車をかけている。微かに風が吹いたのか──それとも雨粒が落ち始めたのか、梢が一斉にざっと音を立て、いっそう暗くなった気がして辺りを見回した。風でも雨でもない。なんだろう。あおん、と柴三郎さんがまた吠えたので池に視線を戻すと、水面に幾筋かの波紋が立っているのに気がついた。さっきまでしんとしていたのに。やっぱり雨か──そう考えた直後だった。

 ばしゃん!

 派手な水音。反射的に目を瞑っていた。あやうく悲鳴をあげるところだった。ばくばくとうるさい心臓の音を耳の奥に聞きながらぼくは、そうっと瞼を開けた。

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