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黒蛇の紋章 ~『黒蛇』と呼ばれた将校の戦記~  作者: へびうさ
第1章 レイシールズ城防衛戦

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22.脱走未遂事件

 下士官の説明によれば、脱走は未遂に終わったらしい。脱走を試みた兵士は城内に姿を消したとのことだ。


 マケランは急いで身支度を整えると、再び兵舎にやってきた。グラディスと話をするためだ。

 ピットも眠そうに目をこすりながらついてきている。部屋で寝ていていいと言ったのに、強引についてきたのだ。


 2人でグラディスの部屋に入ると、室内はかろうじて人の顔がわかる程度の明るさだった。

 天上から吊り下げられたランプの光が弱すぎるのだ。マケランの部屋のシャンデリアとは比べものにならない。


「足元に気を付けてください」


 グラディスにうながされて、マケランは最奥部に置かれた椅子に腰を下ろす。ピットは寄り添うように、その隣に立った。

 他に部屋にいるのはグラディスとシャノン、そして兵士が1人。誰もが深刻な顔で立っていた。


「脱走は警備の兵士が阻止しましたが、捕まえることには失敗しました。暗くて顔が見えなかったため、誰かはわからないようです」


 グラディスは簡単に説明してから、兵士に顔を向けた。「ルーシー、おまえの口から少尉に詳しく説明しろ」


「はっ!」


 ルーシーと呼ばれた兵士は大声で返事をすると、一歩前に進み出た。


「自分は第3小隊に所属するルーシーであります! その兵士の脱走を阻止したのは自分であります!」


 ずいぶんと生真面目そうな兵士だ。年は20歳ぐらいか。


「ルーシー、姿勢を楽にしろ。そんな大声は出さなくていいから、落ち着いて話を聞かせてくれ」


「はっ、失礼しました。それでは落ち着いて話をいたします。その脱走兵がやってきたのは、自分が西門の付近で見張りをしていた時でありました」

「西門か……。西側には共和国軍が布陣していないが、常に監視はしているはずだ。たとえ逃げたとしても、後ろから追撃される可能性がある」


「そのとおりです」


 グラディスがうなずいた。「ただし集団ならともかく、たった1人兵士が逃げたところで、敵はわざわざ追ってこないかもしれません。脱走しようとした兵士も、そう考えたのでしょう」


「それに西側には敵がいないため、私たちの監視も手薄でした」


 シャノンが続けた。「実際西門付近の警備を担当していたのは、ルーシーを含めて2人しかいませんでした」


(脱走するには好条件だったということか)


「わかった。それで脱走者と思われる兵士が現れたのはいつだ?」


 マケランは再びルーシーにたずねた。


「零時をまわったぐらいであります。北の中庭(ウォード)の方から1人の兵士が西門へやってきました。音を立てずに、植え込みの陰に隠れるように移動していたので、自分でなければ見落としていたと思うであります」


 ルーシーはどこか誇らしげに言った。


「兵士だったのは間違いないのか? 暗くて顔はわからなかったんだろう?」

「顔はわかりませんが、体型は女でありました。軍装も一般兵士のもので、腰には剣を差し、支給された雑嚢(ざつのう)も背負っていました。そして香水の匂いが体から漂っていました。自分は香水をつけないので気付けたのであります」


(どうやら兵士であることは確かなようだ)


 マケランは重いため息をついた。民間人なら許してやることもできるが、兵士ならば軍規に照らして処刑せねばならない。脱走はそれほどの重罪なのだ。


 さっきはグラディスの前で「指揮官は兵士を処刑することをためらうべきではない」などと偉そうに言ったが、実際にその状況に直面してみると、まったくその覚悟ができていなかったことを実感する。


「それで兵士が西門にやって来るのに気付いた君は、どうしたんだ?」

「いったん物陰に身を潜めて、その兵士が近づいてくるのを待ちました。捕まえるつもりでした」

「実は脱走ではなく、深夜に散歩していただけということはないか?」


 それでも軍規違反には違いないが、脱走に比べればはるかに軽い罪だ。


「自分はその兵士が城門の閂(かんぬき)に手をかけるのを待ってから、誰何(すいか)したであります」


(では城を出ようとしたことは間違いないか……)


「わかった。それで呼び止められた脱走者はどうした?」

「何も答えず逃げ出しました。自分は当直の仲間を大声で呼んでから後を追いました。止まれと呼びかけても相手は止まろうとしないので、剣を抜いて後ろから斬りかかりました。相手は驚いた様子で振り返りました」

「その時、顔は見えなかったのか?」

「申し訳ありません。そのあたりには篝火(かがりび)もありませんでしたので」

「責めているわけじゃない。相手が脱走者なら、斬ろうとした君の行動も正しい」


「恐縮です。それで自分は相手が振り返ったタイミングで剣を振り下ろしました。その時に相手の腕のこのあたり――」


 ルーシーは袖(そで)をひじまでまくって、腕の内側をこちらに向けた。


「左の前腕部の内側、ひじに近い部分を斬りつけました。でも表面を斬っただけで、あまり深手ではなかったようです。相手は再び逃げ出しました。自分は追いましたが、相手の足が速くて取り逃がしてしまいました。申し訳ありません」


 ルーシーは深々と頭を下げた。


「相手は必死だっただろう。暗闇の中を走るのは危険だから、君が追いつけなかったのは仕方がない。それで、脱走者がどこへ行ったかはわからないんだな?」

「はい。兵舎の方向へ向かったとは思うのですが」


「先ほど兵舎にいるすべての兵士を叩き起こし、全員そろっていることを確認しました。当直の第3小隊にも、持ち場を離れた者はいませんでした」


 グラディスが言った。


「兵士たちは、今どうしている?」

「大部屋に集めてあります。なぜ起こされたのかわからず、混乱しているはずです」

「すぐに眠らせろ。明日もリザードマンがハシゴを登ってくるはずだ。睡眠不足では戦えない」

「ですが、脱走兵をこのままにしておくわけには」

「それも明日でいい。夜に発生した問題はどうしても深刻に感じてしまうが、太陽の光の下で考えれば、案外簡単に解決するものだ。脱走は未遂に終わっているし、全員の所在がわかっているならあわてる必要はない」


「なるほど、そのとおりです」


 マケランがまったく動じる様子を見せないので、グラディスも納得したようだ。


「誰が脱走しようとしたかは、左腕の傷を確認すればはっきりするでしょう」


 シャノンの言葉に一同はうなずき、いったん解散することになった。




「まずい、まずい、これは深刻な事態だ」


 自室に戻ってきたマケランはブツブツとつぶやきながら、室内をグルグルと歩きまわった。


「おい御主人、落ち着けよ。太陽の下で考えればたいしたことないんだろ?」


 ピットはあきれたように言った。


「あれは嘘だ。夜だろうが朝だろうが問題の深刻さは変わらない。たとえ未遂だとしても、脱走兵は処刑しなきゃならないんだぞ? だがそんなことになれば他の兵士たちも動揺する。籠城戦において士気の低下は絶対に避けねばならないのにだ。そもそも俺は兵士を殺したくない。だが殺さねば規律を保てない。いや、すでに士気は相当に下がってるんじゃないか? 脱走兵が出たことが何よりの証拠だ。そうだ、なぜそいつは脱走なんてしようとしたんだ? やはり俺が指揮官として信頼できないからか?」


「なんでそんなに取り乱してるんだよ。グラディスたちと話してた時は、あんなにどっしり構えてたじゃないか」

「そりゃあ指揮官が取り乱した姿を見せるわけにはいかないだろ」

「オレの前ではいいのかよ」

「前にも言ったが、おまえは俺の家族だ。家族の前で取りつくろっても仕方がない」

「家族……!」


 ピットの目に炎がともった。顔面は紅潮し、耳はピクピク動きだす。

 それから窓に向かって走っていった。


(またアレをやるのか?)


「ワオーーーン、ウオーーーン、アオーーーーン」


 思った通り、ピットはバーンと窓を開け放つと、欠けた月に向かって遠吠(とおぼ)えをした。

 しばらく吠えてから戻ってくると、


「よし、まずは座れ」


 マケランの手を引いて、ベッドに座らせた。「それから酒だ。すぐにワインを用意してやる。つまみも食料庫から取ってくる」


「今は酒を飲みたい気分じゃないんだ。それにおまえはもう寝る時間だろう」

「オレのことは気にせず飲めよ。酔えば、悩みなんてなくなるらしいぞ」


 困った時は酒を飲むのが最良の方法だと、ピットは確信しているようだ。

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