影響論
インフルエンサーという言葉を聞くと、影響を与えたい承認欲求の怪物というものを思い描く。
それはバカッターや性的な表現の自由戦士、そして芸能人などなど。人の価値観を変えるんだ、と息巻く現代の宗教家のような人々が脳裏をよぎる。
そこで、SNS社会の承認欲求の恐ろしさに震えるという理屈を、説教っぽくメディアが流す。
だが、インフルエンサーという生き方の裏には、影響を受けたがっている層の存在がある。それは、インフルエンサーに影響を受けています、と公言して憚らない人々だ。ファンネームを持っていたり、推しという言葉を使ったり、ミニマリストなどという用語で団結していたり――。
ファッションからライフスタイルへ、という変換が若者世代にはあるらしく、このブランドを有名人が使っているから使うというより、生き方を真似るという表現が多くなっている。
今流行っているFIREにもそれを感じる。
オタク的生き方、ミニマリスト的生き方、FIRE的な生き方――、哲学や生き方に感動する世代。モノからコト、コト消費は経験の真似を生み出す。同じものを持つよりも、同じような生き方を真似るという。
もちろん大谷翔平のように生きるということはできないが、それに共感は持てる。そして一部を真似ることも。
影響を受けたがっている群れの存在は、なぜ多くなったように感じるのだろうか。ひろゆきの真似をする影響を受けたがる人々。
YouTuberがやっていることを同じようにやる、ポケカや遊戯王が流行ればむらがる、バブル的な、人気だから集まるという倍々ゲーム。
影響をいつまでも受けたがるのは、アイデンティティの喪失から来るのか、そして、この軽さは耐えられない重力のなさからも来るのか。
バッと炎上して打ち上げ花火のように消えるブーム。イナゴのように、移り変わる地に足がつかない虫たち。
尊敬する人間を真似るのではない。近場の教師や親をまねるのではない。
テレビやネットの遠い人の生き方を真似る。
成功者と思われる人たちを真似る。
真似し合う人たちで集まって、ツイッターや掲示板で盛り上がる。そして、真似を真似し合う。宗教のように、君たちも僕の真似をすればうまくいくよと、生き方を売り歩く。
数年後には息をしていないとしても。このブームの移りゆく中で。
影響。なろうのランキングシステムも、いつの間にか真似をすることに偏り始める。
それを悪びれることもなく。徐々にそれをこそ正しいものとして。
流行りになれば真似る。同じような本が乱立する。それは小説でもお金の本でもダイエットの本でも、何でもだ。
影響の力の時代になった。先頭を走らなければ、いかに早く真似をするか。という競争になる。早く影響をうける。自己啓発されたがっているように。
影響を受けるおかげで、自己のアイデンティティの不時着をする事ができる。自分はこういう人間です、という簡易的な説明項を得る。自己分析が簡単になり、自分をアピールするのもやりやすい。わたしはこういう人です、という自己開示を簡便にできる。
影響を受けないと、影響を受けないと、炎上に反応して、推しの言葉に反応して――。
影響を受ける自分自身に酔わないといけない。
センサーを敏感にして、自己の空虚さを忘れ。
影響を受けているわたしには代弁者がかならずいる。影響を受けている仲間がいる。わたしは孤独ではないし、生き方にも迷っていない。
影響を受けた集団としての私たちは社会に注目されている。私たちは、他の人とは線を引いた選ばれた人だ。
何に影響を受けたかで、自己を語る。
影響力の武器から影響を受ける武器へ。
いかに感受性が豊かで影響を受けやすいか。
影響を受けることで、自己を確立する思春期のような人々の増加。
自分たちに名称を欲しがる人々。 群れになって、名前をつけられて安心したい。
僕はそういう集団に所属しています、という淡い帰属意識。