くちびる恐怖症
……人というのは、いろんな恐怖症を患っているものだ。
犬が怖い。
猫が怖い。
高いところが怖い。
絶叫マシンが怖い。
怖い、怖い。
おお、怖い。
この世は、【怖い】にまみれている。
一見こんなものが怖いのかというようなものもあるが…それは他人事だからこそ、そう思うことができるのだ。
他人の知り得ない、本人だけが知る心にトラウマを負うような出来事があったからこそ、恐怖症として発動しているのである。
例えば集合体恐怖症。
確かに規則的あるいは不規則に並んだ無数の模様は、心地の良いものではない。
だがしかし、恐怖心を持つかというと、そうでもない。
おそらく集合体恐怖症の人は、集合体に対面した折に何らかの理由で嫌な思いをし、トラウマとなっているのだ。はしかや水ぼうそうにかかって高熱を出して苦しかった経験や、びっしりと壁に貼りついていた虫に刺された経験、もしかしたら幼い頃に公園で寝転がっていた時にアリに集られて泣き叫んだのかもしれない。
例えば先端恐怖症。
確かにとがった先端は、心地の良いものではない。
だがしかし、恐怖心を持つかというと、そうでもない。
おそらく先端恐怖症の人は、 トキントキンに尖った鉛筆を不注意で指先などに突き刺してしまい、痛い目にあった記憶が残っているのだ。 華道をやっているおばあちゃんの家に遊びに行って剣山を踏んでしまい痛い思いをした経験があったり、もしかしたら前世で尖った槍に貫かれて絶命した記憶が魂にこびり付いているのかもしれない。
例えば閉所恐怖症。
確かに狭苦しい空間は、心地の良いものではない。
だがしかし、恐怖心を持つかというと、そうでもない。
おそらく閉所恐怖症の人は、身動きできなくなるような狭い場所に閉じ込められたことがあるのだ。かくれんぼをやっていて百葉箱の中に隠れていたら誰にも気づいてもらえなくて悲しい思いをしたり、もしかしたら生まれてくる前に母親の腹の中でへその緒と絡まりながら生まれる瞬間を待っていた記憶のカケラが残っているのかもしれない。
人には感情があるから、恐怖を感じる事は必然だ。
喜びも驚きも、悲しみも怒りも、愛おしさも切なさも、戸惑いも恐ろしさも…人であれば感じるものなのだ。
感情と出来事が結びついてトラウマ化すると、非常に厄介なものになってしまうのが実に厄介だ。
泳げなくなったり、特定の場所に入れなくなったり、美味しくものを食べる事ができなくなったり、声が出せなくなったり、身動きできなくなったり、吐き気を覚えたり、めまいがしたり、逃げ出してしまったり…そういうのは意外と溢れているものなのだ。
たとえば俺はと言うと…人の唇が苦手でたまらない。
なんか食べられてしまうような気がして、仕方がない。
唇が怖くて…逃げ出したくなる。
特にキスというやつは一番嫌いだ。
自分の唇と他人の唇が触れ合うなんて、考えただけでぞっとする。
この屈強な体が、情けなくも震えあがってしまうんだ。
唇が近づくと思っただけで、身動きができなくなってしまってね。
そう、俺の弱点は、唇なんだ。
キスなんかされたら、ガチガチに固まってしまって、何も文句を言えなくなる。
こちらに不利な条件でも、ついついハンコを押さざるを得なくなってしまうんだ。
もし、俺をコテンパンに叩きのめしたいと思う事があったら、迷わず唇を奪うといいよ。
「今すぐ…ためしてみるかい?」
………。
この人は何を言っているんだろう。
要するに…キスをしろと迫っているのか???
『饅頭怖い』の話を知らないと思っても思っているのだろうか。
若者だからって古い話を…有名な落語なんか知らないと思ったら大間違いだ。
……馬鹿にするのもいい加減にしろよ。
いくら長年付き合いのある中小企業の懇親会の酒の席だからと言って…、ここまで無礼講?になるものなの……?
ゲラゲラ笑っている横のおばさんも、マジないわ……。
和気あいあいとした気さくでアットホームな会社だと思っていたのに、正直幻滅だ。
ここが接待の場でなければ思ったことをぶちまけてやるのだが、そんなことをしては自社のイメージまで悪くなってしまう。入社早々悪目立ちするのもマズかろう……。
「あああ!!!スミマセン!!!ビン空になってる!!私もらって来ますね~!ごめんなさい、気が付かなくって!!ええとー、お酒の追加注文ってー!!!」
まだ中身の残っているビール瓶を二、三本ひっつかみ、勢いよく立ち上がって注目を集める。
…よし、みんながこっちを気にしている今が、ここを離れるチャンス!!!
「ヤダ~!部長のも空じゃないですか!!追加もらってくるのでビンもらっていきますねー!!あ、他にも空いたビンあったら回収しまーす!!」
「あ、ついでにこっちのもお願い!!」
「気の利く人だねえ、これで社長も安泰だよ!前の秘書は…ブツ、ブツ…」
「あの人はダメだな、酒の場に出てこなかったし」
「やっぱり愛嬌があった方が…ブツ、ブツ…」
「知ってる?そういうのセクハラっていうらしいわよぅ!!」
「あたしも若い頃はよく小皿におかずを取ってお出ししたなあ…」
「気遣いできる子が…ブツ、ブツ……」
飲み会恐怖症になってしまっては、たぶん、きっと、この先…困る。
極力嫌な事を考えないようにしつつ、私は各テーブルを回って開いたビール瓶を奪い取り、給仕に尽力するのだった。