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『賢き人との対話』より  作者: 富永正男
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8、奇しき術についての対話

賢い人よ、奇しき術について教えてください。


あなた方は奇しき術という言葉で簡単に纏めてしまうが、我ら御使いの術と、巷の学者の術と、魔物の術は異なることを覚えておくべきである。


どのように異なるのでしょうか。


我ら御使いの術は、大いなる御方、神々と同じく呼び出す術である。大いなる御方は、神子を救うべく六種の民を呼び出され、神々は我ら御使いを呼び出された。我ら御使いもまた己が権能の内において呼び出すべきものを呼び出すのである。

学者の術は、六力の作用を利用して六大を操作する術である。六力とは、相生・相剋・相増・相減・相引・相反である。例えば、火大の現象である熱を制するに、火大と相剋する水大の現象である氷を以てするように、である。彼の者たちは、何も呼び出すことはできぬ。ただ、有る者を以て用いるのみである。

忌むべき者たちの術は、我ら御使いと同じく呼び出す術である。しかし、彼の者らは六大によって成る物の他は呼び出すことはできぬ。六大は悪しき者の亡骸であるからである。悪しき想いを以て悪しき者の亡骸を呼び出すのである。また、あなた方の内でしばしば行われる呪いもこれである。呪いを成し遂げた者は生きている内からすでに魔物と成り始めた者であり、死すれば必ず魔物として地を彷徨うこととなる。


いま学者の術ということを仰いましたが、神官もまた癒しの業を行います。


癒しの「業」とな。何が「業」であろうか。彼奴らは小賢しくも神々に呼びかける真似をしながら、学者の術を為しておるだけである。学者は偽ることなく媒介と称しておるものを、供物と偽って神殿や祠に集めておるのである。癒しの「業」とやらをよく見ておれば、それらしい仕草の後に、何かを塗ったり、煎じて飲ませたり、香を嗅がせたりしておるわい。よく観察せよ。


神官たちがしばしば学者の研究を妨げるのは、それが理由ですか。


然り。学者は真の世界にはまったく通ぜぬ者たちではあるが、彼の者たちには彼の者たちの道徳というべきものがあるらしい。彼の者たちは我ら御使いを神官と同じ詐欺師、神々は民衆の幻想であると考える罪深き者たちではあるが、その言と術によって民を欺くことは無い。彼の者たちは彼の者たちが知っておることだけを正直に説き、為し得ることだけを為す。決して為し得ぬことについて誤魔化すことがない。これが神官どもとの大きな、大き過ぎる違いであり、神官どもが学者らを憎悪する理由である。


学者の話は至極当たり前のことで、何が我々と異なるのかが分かりません。


火を熾すのに石を以てし、薪をくべるのは六大六力の応用で、誰でもがそのように為すものである。学者の術もあなた方の言うように同じことである。しかし、彼の者たちは六大六力についての研究によって、あなた方と大きく異なっている。

すなわち、火を熾す石は限られており、火の強さはくべる薪の質や量に依存することを、あなた方は習わずとも知っておろうが、学者は僅かな石の欠片を以て火を熾し、湿った小枝によっても火を強めることが出来るのである。それが、彼の者たちのいう学問であり、その成果ということである。


信心は木の民が伝えたと言いますが、学問はどのようにして生まれたのでしょうか。


六大六力については、六種の民すべてに我ら御使いが教えた。しかし、火の民、水の民、木の民、石の民、風の民は、おのおの優れた性質をおのずから有していたので、この知識を必ずしも必要としなかった。

これに対し、土の民はあまりに智恵も力も才能も劣っていて、偽りの世界を生存するのに最も苦労したところから、知識を尊び研鑽したのである。しかし、その知識を誇るが故に、この世界が偽りの世界、悪しき者の亡骸であることを忘れ、神々を嘲笑い、我ら御使いを謗るようになった。惜しいかな、彼の者たちも必ず影となる者たちである。


学者の術には材料が必要であると仰いますが、呼び出しには必要ないのでしょうか。六種の民は六大を材料にされたのではないですか。


呼び出しは無いものを呼び出すのである。有るものはすべて穢れており、我ら御使いの関わるべきものではない。いわんや、神々においてをや、である。六種の民の呼び出しは、これは六大の浄化のためであるから、あえて六大を用いられたのである。神々も我ら御使いも無より呼び出されたものである。


新年に高御座山神殿では大神官が私たちに癒しの祝福の手をかざして下さいます。それで病が癒えた者が毎年多くございますが、それについてはどう理解すればいいのでしょうか。


先程言ったとおりである。新年の神殿では、香がもうもうと焚かれているはずである。祝福師によってみな額に膏を塗られるはずである。直会なおらい処において聖なる食べ物と飲み物が下されるはずである。神殿に入る前には、頭と手と足を水で清められるはずである。僅かな媒介をもって六大を操作するのが学者の術であり、神官の「業」である。これが全てである。影となるを待つのみの哀れな老人の手ごときが何事を為し得ようか。子供でも分かることである。

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