22番目の妻は、隣国の王太子に贈られる。
作中に、女性軽視、差別的な表現があります。苦手な方はご注意ください。
今夜、私は王太子の22番目の妻となる。
「フィリア・マクダウェル、か」
そう言って私を見つめるのは、この国の王太子、ウィルフレッド殿下。
美しい金髪に、青い目。この世の美を全て集めたかのような、美の女神の最高傑作。だが、その奥の目は全く笑っていなかった。
「お前は、何ができる?」
「はい。得意なのは舞ですが、楽器もできます。勉学も、他に引けを取らないと自負しております」
女は道具だ。
この国の王太子には、私を含め22人の妻がいる。だが当然のことながら、彼は一人として愛してなどいない。だが、彼女らは皆漏れなく優秀だった。
頭の切れるもの。ぞっとするほどの美貌を持つもの。癒しの力を使うもの。芸事に秀でたもの。
要は、利害が一致したのだ。
娘を王宮に入れて権力を高めたい貴族と、優秀な女性を抱え込みたい王族と。
このカラドニック王国で一夫多妻制が採用されてから、数十年が経つ。
この王国に生まれた貴族令嬢は、幼い頃から血を吐くような勉学を重ね、最高の教養を身につける。誰もが、王宮に入り王太子の妻となることを目指して。王太子の妻という座は、女性の地位として最高のものだったから。
私は、そこに選ばれた。
王太子の妻を目指すことに疑問はない。貴族の令嬢に生まれれば、当然のことだ。幼い頃から、そのために人一倍努力してきた。けれど。
私を道具としてしか見ていないこの男を前に、流石に心が冷えた。
「ほお。顔立ちも抜きん出て整っているし、才能もあるか。……なかなか、期待できそうだ」
ふ、と口元を上げるその仕草は、良い宝石を手に入れた時のそれにひどく似ていて。
この人にとって、私は道具でしかない。この短い、初めての謁見で、私はそれを思い知った。
下がれ、と冷たく言う彼を前に、決して彼を愛することはできないと悟った。
「あら、マクダウェル様。ちょうどいいところにいらっしゃいました、これを侍女頭に届けていただけないかしら」
新人の仕事よ、と言って押し付けられた荷物の山。箱に入っているので中身は全く分からないけれど、少なくとも貴族の令嬢に持たせる量ではないと思う。
とはいえ、私は慣れている。
「かしこまりました」
そう言って受け取った荷物のずっしりとした重みは、まるで長年持ってきたもののように手にしっくりと馴染んだ。
私は愛されてはいなかった。
冷え切った家庭だった。母は王太子の妻を目指し、そして選ばれなかった。政略結婚で、父と結ばれた。母はプライドの高い人だ。王太子の妻に選ばれなかったという屈辱が、父にどんな態度を取らせたのかは知らない。けれど、物心ついた時には、父と母が話している姿を見ることはできなかった。
どちらも、私を愛そうとはしなかった。教育の隙間時間は何をされるでもなく放っておかれ、趣味として嗜むものも与えられなかった。とはいえ教育ばかり受けているのも、気が滅入る。
そんな私が手を出したのが、使用人の仕事だった。
あっさりと荷物を持ち上げた私を見て、艶やかな顔立ちの彼女が目を見開く。
だから、王太子の妻を目指した。
あの息の詰まるような家から抜け出すために。母は教育に熱心で、学ぶための手段には困らなかった。
……だが、ここも変わらないらしい。
私たちにつけられる侍女たちは皆、王宮からつけられた共通の者たちだ。
最初に教えられた侍女頭の部屋に向かいながら、私は静かにため息をつく。
私にこの荷物を渡した彼女の頭には、月桂樹の葉を模したティアラが載っていた。
それこそが、この王宮における最大の名誉だ。
たくさんいる妻の中で、最も優秀であり最も王太子に目を掛けられている証。
数ヶ月に一度、妻の中では順位がつけられる。その基準は様々で、功績や美貌、後は王太子の独断と偏見で決められる。そして、見事一位に輝いた女性の頭に載るのが、あの月桂樹の冠だ。
選ばれた女性はその間『月桂樹の君』と呼ばれ、正規の王太子妃に近い権力を持つことになる。聞いた話では、閨の相手もあるのだとか。
先程の女性の、憎々しげに私を睨みつける表情を見て、私はこの王宮の様子を悟った。
つまりは、そういうことだ。この先も、競い合い、足を引っ張り合い、騙し合う生活は変わらない。取り合うものが、王太子の妻という座から、『月桂樹の君』の座に変わったというだけの話。
そして新入りの私は、最も警戒され蹴落とされる存在であるらしい。
仕事はあまりなかった。
私の仕事は来客をもてなすくらいで、それでも私の他に21人の女がいるので、人前で舞ったことは数えるほどしかなかった。だが私の舞は見た人には気に入って貰えたらしく、次もフィリア嬢にお願いしたいと指名を受けることもできた。
だが、そのせいなのかどうなのか、嫌がらせはエスカレートするばかりだ。
仕事を押し付けられるのは日常茶飯事。良ければ荷物運び、悪い時には掃除や洗濯。さらにひどい時には、持ち物を隠されたりドレスを汚されたりする。蝋燭を持ってこちらに転びかけられた時は、流石に肝が冷えた。
教養を見込まれ、選ばれた女性たちのはずなのに、やっていることは子供と変わらない。呆れるしかなかった。嫉妬は女を狂わせるらしい。誰もが、権力を得るために必死だ。
「マクダウェル様」
廊下を歩いていた私は、1番聞きたくなかった声に後ろから名前を呼ばれて、思わず顔を顰めた。慌てて美しい笑顔を取り繕って、私は振り向く。
「バークレム様。お久しぶりです」
ふわりと微笑んで見せれば、彼女は眉間に皺を寄せる。美貌が台無しだ。もったいない、と心の中で思う。
どうやら彼女は、私を目の敵にしているようだった。月桂樹の冠を頭に戴く、最高の地位にいながらどうして上に上がる気もない最底辺の私を狙うのか全く分からない。しかし、私の何かが彼女の気に障るらしい。
「これを、片付けていただけないかしら」
そう言って渡された衣服に、私は思わず眉を寄せる。これを、他人に片付けさせようというのか。
よく見れば彼女は、髪や服が乱れ、気だるげな雰囲気を漂わせている。そういえば、この廊下の先は、王太子の私室だ。
彼女は私に王太子の寵愛を自慢したいらしいが、これを人に渡す精神が理解できない。
「あら。お忙しいかしら」
にこり、と笑って圧をかけてくる彼女に、私も同じく笑顔で答える。
「いえ。ちょうど暇を持て余しておりました。バークレム様のお役に立てて、嬉しいですわ」
偉い人には、逆らわないに限る。
嫌な表情を笑顔に覆い隠して受け取った私は、一礼をして歩き出す。離れたところで、はぁ、と小さく吐いたため息は、思ったよりも大きく廊下に響いた。
そんな日々が変わったのは、ある晴れた日のこと。
「ベルナール様が、いらっしゃるらしい」
その噂は、光の速さで宮中を駆け巡った。
ベルナール様とは、隣国の王太子だ。黒髪に深い青の目という異国的な顔立ちに、紳士的な態度で、一部の女性に熱狂的なファンがいる。だが、カラドニック王国とは友好的な関係を築いていたものの、最近は少し軋轢も増えているという噂だ。
失敗は許されない場だった。
そう、その会食は、22人の妻が勢揃いしてもてなすという、異例中の異例という措置となった。
訪れが急だったせいで、誰もがドレスや装飾品の準備に追われ、今までの私への嫌がらせは嘘だったかのようになくなっていた。それも当然の話で、今回の会食での功績は次の『月桂樹の君』の地位と等しいといえる。誰もが目の色を変えるのも、当然のことだ。
私はといえば、正直あまり興味がない。この女の園で頂点を目指したいとも思わないし、あの男に抱かれたいとも思わない。だから私は、久しぶりの平穏な日常を謳歌していた。
そして、会食の日。
ウィルフレッド殿下とベルナール様が向かい合って座るテーブルの脇に、私たち妻が立って控えている。室内は様々な香水が入り混じってむせかえるような匂いに包まれていて、これはもてなしどころか逆効果なのではないかといらぬ心配をしてしまう。
殿下とは違うタイプの、これまた神に愛されたかのような美形だ。ファンが増えるのも頷ける。妻たちの中には、うっとりとベルナール様を見つめているものもいた。いいのかそれで。
ベルナール様は紳士らしい温和な笑みを浮かべているが、よく見ると顔色があまりよくない。新入りということでベルナール様の斜め後ろ、彼から全く見えない場所に立たされた私には、その白い首にすっと汗が流れたのが分かった。
それもそうだ。香水だらけの女が22人。いや、私はつけていないから21人。もてなすという名目で秋波を送りながら、お互いに牽制し合っている。彼でなくても、気分も悪くなるだろう。物事には限度というものがあると、どうして殿下はわからないのだろうか。そして賢いはずの女たちは、どうして香水が逆効果だと気がつかないのだろうか。
仕方がない。この国のために何かをするのは癪だが、このままではあまりもベルナール様に申し訳ない。
私は髪につけていた一輪の花を抜き取る。瞬間、どぎつい香水の匂いが鼻腔を直撃して、私は思わず顔を顰めた。そう、私が不快に思いながらも耐えられていた理由、それはこの花だ。
花は甘い蜜の香りで虫を誘う。この花は、自らの子孫を残すため、他の花が虫を誘う能力を潰す能力を手に入れた。原理は知らないが、近くのものの匂いを吸いとるのだ。効果範囲はそこまで広くはないが、ベルナール様の前に置けば問題はないだろう。
うわぁ、気持ち悪い。
一気に強くなった香りに吐き気を覚えながらも、私は目立たないようにそっとテーブルに近づき、一輪の花を置く。その瞬間、ばっとベルナール様がこちらを振り返った。その顔はほっとしたように緩んでいて、役に立てたことを確信する。ふわりと微笑んでみせるが、正直気分が悪い。そもそも、こんな花を用意したのは私が匂いに敏感だからだ。
殿下の方に向き直ったベルナール様が、初めて自分から口を開いた。今までは、殿下の話にうまく乗るだけだったのに。
「彼女は、どのような方なのでしょう?」
目線で私の方を示すと、殿下の視線と共に鋭い視線がいくつも突き刺さった。
面倒ごとに巻き込まれてしまったと、密かに嘆息する。こんなことなら、何もしなければよかっただろうか。
「彼女は、フィリア・マクダウェルです。私の妻の一人で、素晴らしい女性ですよ」
心にもないことを。そう思うもののまさか態度に出すわけにもいかず、私は照れたように微笑んで見せる。突き刺さる視線が、鋭さを増した。
この国では、王太子の妻となっても姓は変わらない。それもそうで、王族の姓を持つものが22人も現れたら王族があっという間に飽和する。王族の姓を名乗るのは、直系男児のみと決まっていた。
だから私はマクダウェルと紹介されることに何ら違和感はないけれど、やはり彼は気になるようだ。軽く眉間に皺が寄っている。
やはりベルナール様は一夫多妻制に反対のようだ。ベルナール様に限らず、この周りの国は全て、この歪んだ王宮に良い感情を抱いていない。だが、現在の王は多くいる妻をうまく使い、見事に国を発展させているので、何も言えないらしい。とはいえ殿下は女性の使い方がうまくはない。女性の間で対立が生まれ足を引っ張り合い、こうして客に不快な思いをさせているという時点で、最悪である。
「本当に。素晴らしい女性ですね。美しく、教養もありそうです」
やめてほしい。『月桂樹の君』など、なりたくもない。
「お気に召しましたようで、何よりです。……そうだ、もし良ければ、差し上げましょうか」
ベルナール様の表情が、凍りついた。もちろん、私の表情も。
ふざけるな。私は物じゃない。そう言えれば、どれだけ楽だっただろう。
ベルナール様の表情をどう解釈したのかは分からないが、殿下がさらに言葉を重ねる。
「ベルナール様は婚約者もいらっしゃらないと伺っております。どうやら、国内にもお気に召す方はいらっしゃらないご様子。正妻でなくても、もちろん良いですよ。もし良ければ、お持ち帰りください」
お持ち帰りください。
どれだけ私を物扱いすれば気が済むのだ。分かっていた。分かっていたはずなのに、ここまで人として扱われないと怒りを通り過ぎて笑いが浮かんでくる。
そして、ベルナール様は断れないだろう。ここで断るのは、国同士の問題となる。
こちらに顔を向けたベルナール様は、微笑んでいた。だがその瞳の奥には炎が揺れ、怒っていることが窺える。私は彼に向かって微笑んで見せた。私は構いません。どうぞ国交をお取りください。そんな意を込めて。
正直、1秒でも早くこの男の妻をやめたかった。
「ありがとうございます。それでは遠慮なく連れて帰らせていただきます。とても嬉しく思いますよ」
そうそつなく微笑んでみせる彼が選んだ、「連れて帰る」という言葉に、少しだけ心が落ち着いた。
何があるかは分からないけれど、ここよりは良いところかもしれない。申し訳なさそうにこちらを見るベルナール様を見て、私はふわりと微笑んでみせた。
出発は一瞬だった。もともと荷物はさほど多くはないし、ベルナール様も今回の会食を終えたら帰る予定だった。見送られることもなく、少ない荷物を自分で持って、私はベルナール様の馬車に乗り込む。驚くほどに、呆気ない旅立ちだった。
家族にどんな連絡が行ったかは知らないけれど、どうせ私にはもう関係のない話だ。家に帰りたいとも、もう思わなかった。
ベルナール様は私より少し遅れて馬車に乗り込んできた。その顔はぐったりと疲れていて、私は心の中でご愁傷様ですと手を合わせる。きっと大量の女たちに囲まれてひどく疲れる思いをしたのだろう。会食中は私だけが注目を浴びてしまったので、皆必死なのだ。
短い付き合いだが、彼は女性に囲まれて喜ぶタイプには見えなかった。
「フィリア嬢。きちんと言葉を交わすのは初めてだな。俺は、ベルナール・ブラッスール。知っていると思うが、王太子だ。どうか、ベルナールと」
「ベルナール様。フィリアとお呼びください。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
そう言ったきり、会話は途切れてしまう。一人称が『俺』だったのは少し意外だった。とはいえ、その態度には好感が持てる。
「……フィリア。すまなかった」
突然に謝られ、私は驚いて顔を上げる。
「国の勝手で、こんな、あなたを物のように扱って。本当に申し訳なく思っている」
「いえ、構いません。王宮に入った時点で、ある程度の覚悟はしておりましたので」
そう言えば、ベルナール様は顔を顰める。少し迷うように窓の外に視線をやり、彼は言いづらそうに口を開いた。
「……あなたは、あの王太子を愛していたのか?」
愛。愛してなど。
「愛してなど、いません。あの中で、本気で殿下を愛している女性はごく少数派です。女は、道具ですから」
そう答えれば、ベルナール様は不快な表情を露わにした。どうやら、感情豊かな方らしい。常に氷のような仮面を纏っていた彼に比べれば、どんな人でも表情豊かに見えるかもしれないが。
「俺は、悪いが、あなたの国を好きになれそうにない。……フィリアも、そうだろう?」
「……っええ」
見抜かれていたのが意外で、返事が一瞬遅れてしまう。態度に出しているつもりはなかったのだが。
「フィリアからだけ、香水の匂いがしなかった。それに、誰もが俺に媚びた視線を送る中、フィリアだけは真っ直ぐ前を向いて微笑んでいた。こんな風になってしまったのは俺のせいだ。俺がフィリアを気に入ったような態度を見せたから。本当に申し訳ないと思っている。だが、俺があなたを気に入ったのは事実だ。あの花は、本気で助かった」
思いがけず真摯な言葉を向けられ、私は戸惑う。女は道具ではなかったのか。女が男のために仕えるのは当然で、そこに不快感を覚えることはあっても感謝されたいと思ったことはなかった。
素直な感謝の言葉というのは、こんなにもくすぐったく嬉しいものだったのか。
「謝らないでください。私はむしろ、ベルナール様に選んでいただけて嬉しいのですよ」
あそこは、息が詰まりそうだったので。
最後の一言は、言うつもりのない言葉だった。ぽろりとこぼれ落ちたそれは、間違いなく私の本心で。
「……フィリア。協力してくれないか」
真っ直ぐに見つめられ、私は姿勢を正す。そうしなければならないと感じさせるような威厳が、ベルナール様にはあった。
「俺はあなたの国の行く先を危惧している。王はうまく女性を使っているようだったが、あの王太子は違うようだ。最高の教養を持つ、本来なら国を率い支えていくはずの女性たちが醜い争いにうつつを抜かし、そして支えられている王太子は彼女たちに対して道具以外の感情を持ち合わせていない。流石に、あり得ないだろう。そして、俺としても、あなたの国に倒れられても困る」
分かるだろう?と聞かれ、私は頷く。
カラドニック王国は、巨大帝国に面している。ベルナール様のブラッスール王国にとって、カラドニック王国は帝国に対しての防波堤のようなものだ。カラドニック王国が落ちれば、ブラッスール王国も危ない。それが分かっているから、ベルナール様もカラドニック王国の先を案じているのだ。
「一夫多妻制は歪んでいる。いつか不満も出るだろうし、彼女らが反旗を翻せば王国は瓦解する。あまりにも不安定だ。だから、俺は一夫多妻制を潰したい。そのために、内情を知っているフィリアに協力してほしいんだ」
確かに、私は有益な情報を持っているかもしれない。
ここまで来てもやはり道具か、とは思わなかった。少なくともベルナール様は、私の意思を尊重してくださる。
協力しても、いいかと思えた。
「分かりました。協力いたします」
そう告げれば、彼は、ふっと微笑んだ。含みも戦略もない純粋な笑顔に、とくり、と胸が高鳴る。
復讐、なのかもしれない。ただの私怨と言われれば、その通りなのだろう。彼への協力は。
でも、それだけではないと、もっと大きなもの――例えば、王国のために動いているとなれば、母国への裏切りもさほどは重くなかった。もともと、愛着などほとんど持っていなかったのだから。
「ありがとう」
やはり、お礼を言われることには慣れない。
私は、ベルナール様の部屋で途方に暮れていた。
空は暗くなり、柔らかい色の光が部屋を静かに浮かび上がらせている。
彼は結局、私を妻として引き取った。流石に式はできていないが、すでに籍は入れてある。殿下にきちんと引き取ったと示すためにも必要なことだった。殿下――いや、ウィルフレッド様とは離婚という形になったらしい。嫁いで数ヶ月で離婚されるとは、流石に想定外だったが。
だが、今1番の問題はそれではない。
つまり、今は、いわゆる初夜、な訳で。
私とて、カラドニック王国が特殊なことは知っている。結婚しているのにそういった関係がないというのが非常に稀なことだというくらいは知っていた。
つまり、私は。今日、ベルナール様と。
そう思うと、叫び出したくなる。会って数日も経っていない人なのに、抵抗感はそこまでない。とはいえ、ないというわけでもない。自分が嬉しいのか嫌なのか、それもわからない。
だが、その心配は杞憂だった。
「フィリア。しばらくの間、あなたを抱くつもりはない」
部屋に入ってきた彼の第一声は、それだった。
「……え?」
「あなたは、俺の勝手で無理矢理に俺の妻にされたようなものだ。フィリアの心が伴っていないことはよく理解している。そんな状況で手を出したりはしない、安心してくれ。あなたの心が追いつくまで、待つつもりだ」
そう言われても、喜んでいるのか悲しんでいるのか分からない。心が伴っているのかいないのかも分からない。
ここまでの数日は、ただ怒涛のように流れ去る初めての国での生活に必死で。
ベルナール様のことばかりを考える余裕がなかったというのは、事実だ。
宣言通り、彼は私に指一本触れるつもりはないらしく、私が座っているベッドの方に近寄ってくることはしない。感謝、するべきなのだろう。ここまで私の気持ちを思いやってくださる方は、滅多にいない。
それでも、それでもほんの少しだけ。心の片隅の、少しの部分だけ。
手を出されてもよかったな、なんてそんなこと。
「ありがとう、ございます」
「ああ」
私の言葉に小さく頷いた彼は、ソファの横に立つ。
「俺はここで寝るから。フィリアは、そのままそこにいてくれ。申し訳ないが、流石に部屋に戻すと外聞が良くない」
「そっ……れは、申し訳ないです」
「いいから」
「でも……」
流石に王太子をソファに寝かせて、自分だけ悠々とベッドで寝るなど耐えられない。私がソファで寝ます、と言っても彼は頷かないだろう。とはいえ、一緒に寝ましょう、なんて無垢な乙女のようなことは言えなかった。
「でしたら、私もソファで寝ます」
「……へ?」
呆気に取られた様子のベルナール様が新鮮で、私はくすりと笑う。
幸いなことに、この部屋にはソファが二つある。尚も渋る様子を見せるベルナール様を尻目に、私はさっさとソファに横になった。この国は年中暖かく、寒さに震えることもない。
だが。ぱさり、と布団を投げられて、私は驚いてベルナール様を見やる。
「軽くでいい、かけておいてくれ。……流石に、その格好は」
よく考えれば、私は薄い夜着一枚だった。
心配してくださったのだろう。私が慣れない環境で寝て、体を壊さないように。
嬉しくなってふ、と微笑めば、ベルナール様は驚いたような顔をした。
「おやすみなさいませ」
そう告げて、明かりを落として少し経ったころ。お互いの顔も見えない暗闇の中で、ベルナール様が身じろぎする気配が伝わってきた。
「フィリア。あなたは俺が、嫌いではないのか」
闇の中でその声は、透き通るように響いた。
「嫌いになる理由がありますか? ベルナール様はとても私を思いやってくださって、カラドニック王国にいたときよりもずっと、幸せに暮らせております。本当です」
「そうか? だが、やはり俺の軽率な振る舞いのせいでフィリアはこちらに来なくてはいけなくなってしまった」
「……カラドニック王国にいたときのことを、お伝えしましょうか。いずれは伝えねばならぬことですから」
そう言えば、はっ、と息を呑む音が部屋に響いた。ベルナール様にとっては、喉から手が出るほど欲しい情報だろう。
そこから私は、淡々と言葉を紡いだ。一切の感情を、交えることなく。
王宮を目指すまでの血のにじむような教育。王宮に入ってからの執拗な嫌がらせと、『月桂樹の君』。
闇の中であることが救いだった。これなら、表情を見られることはない。
全てを話し終えたとき、ベルナール様は何も言わなかった。
暗い部屋の中で、息遣いだけがひどくうるさく響く。時折風が窓を撫でる音がして、その度に私はびくりと身を振るわせた。
怖かった。そう、怖かったのだ。
ベルナール様にどう思われるか分からない。嫌われたくない。避けてほしくない。憐憫の眼差しで、見つめられたくない。
いつの間にか、痛いほどにそんなことを考えている自分がいた。出会ったばかりだというのに。
「……どんな手を使っても、一夫多妻制を叩き潰す。あの王太子も」
だが、彼の声に宿るのは。憐憫でも、安っぽい同情でもなく。
紛れもなく、怒りだった。私が静かに胸の内に灯す、それと同じ。
嬉しくて。それがただ、嬉しくて堪らなくて。
ああ。認めよう。
私はもう、ベルナール様に惹かれているのだ。どうしようもなく。身のうちを焦がすような熱と共に。
そんな天啓にも似た一言にひどく心を揺さぶられながら、私は一晩を明かした。
「フィリア様」
そう声をかけられて、私は読んでいた本から顔を上げた。私が今まで受けてきた王妃教育は基本的にはこの国と共通で、そこまで困ることはなかったのだけれど、ただ一つだけ問題だったのが歴史だった。
友好国ということでそれなりに学んではいたものの、流石に知識が足りていない。ということで、私の時間はほとんど読書に充てられていた。
そんな私をこの国の人は歓迎してくれているようだ。今声をかけてくれた侍女の目にも敵意はなく、柔らかい微笑みを浮かべている。ただ、私を見る何人かの人が宿す哀れみの光が、少しだけ気になっていた。私の境遇を話したことはないが、一夫多妻制は有名だ。もちろん、悪い意味で。
「もしよろしければ、外で散歩などいかがですか? お勉強も大切ですが、それだけでは息が詰まります」
そう言って、大きなバスケットを掲げる。どうやら、勉強してばかりの私に気を遣ってくれたらしい。読書は嫌いではないし、むしろ好きなくらいだが、流石に体が強張っているのを自覚する。
その温かい心遣いが嬉しくて、私は微笑んで頷いた。
リーナ、と名乗ったその侍女に案内されてやってきた庭は、それは見事なものだった。
美しく咲き誇る花。見たことがあるものもあるけれど、ほとんどは初めて見るものだ。見慣れているものよりずっと鮮やかな色彩は、心まで明るくしてくれる。完璧に手入れされていた王宮の庭とは違って、一つ一つの植物が自由に、けれど調和を乱すことなく咲き誇る姿には、生きる力のようなものがみなぎっているように思えた。
リーナの言う通り、勉強だけではよくない。これから私が生きていく国をこの目で見ることも、きっと勉強と同じくらい大切なことだ。
辿り着いた木陰の下に、リーナが大きな布を敷く。そこに座るように促されて、私は戸惑いながらもそこに腰掛けた。
その瞬間、ふわりと立ち上る花の香り。草の匂い。頬を撫でる風。全てが心地よくて、知らず知らずのうちに私は微笑んでいた。意識して浮かべない微笑みなど、いつぶりだろうか。
だが、遠くに人影を見つけて、私は首を傾げる。雰囲気というか、立ち振る舞いというか、姿がベルナール様のように見えたのだ。だが、その人影は、地面に跪いているように見える。
目線でリーナに向かってその人影を示せば、リーナの表情が凍りついた。唇を噛み、ベルナール様です、とつぶやいたリーナの声は、まるで怯えているかのように震えていた。
触れてほしくないのだろうな、と直感で思った。けれど、私は王妃になる身だ。彼のことは知っておくべきだ。
いや、それも建前か。本音は、紛れもなく、好きな人のことをもっと知りたいという感情で。
「リーナ。ベルナール様は、何をしていらっしゃるの?」
彼女は、一瞬躊躇ったようだった。私には逆らえないし嘘もつけないけれど、言いたくないという気持ちがうっすらと滲み出ている。
聞くべきでないかもしれない。けれど、知りたいという感情を抑えきれなかった。
「あそこには、クラリエル様が眠っておられるのです」
「クラリエル、様?」
「………………ベルナール様の、婚約者だった方です」
―― ベルナール様は婚約者もいらっしゃらないと伺っております。どうやら、国内にもお気に召す方はいらっしゃらないご様子。
そういう、ことか。
時折向けられる、哀れみの目。その意味が、初めてわかった気がした。
つまりあれは、同情だったのだ。無理矢理、決して愛してはくれない人のところへ嫁がされた哀れな女への。
悲しみ。そう、悲しみ。それが身のうちを焦がしていることは確かだけれど、それだけではない。そう、これは。
諦念、だ。
ここまできても私は道具か。ベルナール様にとって、私自身に価値があったのではなく、王太子の妻であったという私に利用価値があっただけ。きっと、私でなくてもよかったのだ。
だって、ベルナール様の瞳の中には、クラリエル様しか映っていないのだから。
私は、壊れたように身動き一つせず、首を垂れるベルナール様を見つめていた。
初めて恋をした。初めて愛されたいと思った。
初めて味わう失恋の味は、ひどく苦く、痛い。この人に愛されるなら、この人に私を見てもらえるのなら、私はなんだって。母国だって裏切って。ただ、あなたが好きだから。
ああ、それでも、やっぱり、私は道具なのだ。
瞬き一つせず見開かれた目から、涙は出なかった。
国交のためにカラドニック王国に向かうとベルナール様に伝えられたのは、その数日後のことだった。
一夫多妻制を叩き潰す。そう宣言した彼は、けれど私に何一つ伝えようとしない。私は情報を渡せるだけ渡して、それで終わり。やはり私は道具なのだと、そう思い知らされるのには十分だった。
馬車の中。ベルナール様と二人きりになっても、会話をする気は起きなかった。どうせ、私はお飾りの王妃だ。利用価値があっただけで、ベルナール様の心はクラリエル様の元にある。
だったら、無理に私と打ち解けようとしてもらう必要もない。
だが、俯いて何も言おうとしない私を、ベルナール様は気にしているようだった。ちらちらとこちらに向けられる視線に、気づかないふりをする。久しぶりに母国に向かうということで、緊張しているとでも思って貰えばいい。
ひどく長く感じられる無言の時間に耐え、私は久しぶりのカラドニック王国に足を踏み入れた。今は王太子妃という肩書きを持って。
かつて同じ妻だったものたちに微笑みかけられ、頭を下げられて、すっと冷たいものが心を掠める。彼女らは、いつだって私に嫌がらせばかりしていたのに。
いや、彼女らの目は笑っていなかった。細められた目から覗く鋭い眼光は、こちらを焼き尽くそうとせんばかりに苛烈だ。
私とベルナール様は、別の部屋に通されるらしい。そのことに微かな違和感を覚えながらも、私は案内をする人に大人しく従って歩く。王宮に暮らしていた私でも見たことのない区画に通された。おそらく、来客のための部屋があるところなのだろう。
扉の前に立ち、こちらです、と呟いて、案内の人はすぐにその場を立ち去った。若干の違和感を覚えつつも、私は扉を開ける。かちゃり、と控えめな音が響いた。
「ようこそ、『月桂樹の君』」
私を出迎えたのは、王太子ウィルフレッド殿下、その人だった。
「……今、なんとおっしゃいましたか?」
「ようこそ、『月桂樹の君』と。あなたの訪れを待っていた」
「何をおっしゃっているのか分かりかねます。今、私はベルナール様の妻ですが」
そう言った瞬間に、殿下が薄く微笑んだ。
「『月桂樹の君』は、俺の妻となれば誰でもなることができる。それは、離婚した相手でも再婚していても関係はない」
詭弁を、という言葉をなんとか呑み込む。確かに妻でなくてはならないとはどこにも書いてあった記憶はないが、それはあまりにも常識すぎたから書いていないだけのこと。ありえない。
「……どうして、私を?」
「いや、あの王太子にフィリアを渡してから、急に惜しくなってね。そういえばフィリアの舞も見ていないし、こんなに素晴らしい顔立ちと身体をしているのに触れたこともない」
薄く微笑んだ表情を変えることもなく言い放った殿下が、理解できない。鳥肌が立った。
「知っているか? 『月桂樹の君』は、俺の閨の相手を務める女の称号でもあるんだ」
さっと血の気が引いた。お飾りにしろ、私は今ベルナール様の妻だ。隣国の王太子の妻に手を出したらどんなことになるのか、この人は理解できないというのか。
これが、一夫多妻制の歪みだ。
問題は全て賢い妻たちが片付ける。王太子は、ただ妻に頼りきるお飾りの役職と化している。このままでは、あっという間に国は腐り落ちるだろう。
思わず一歩下がると、扉に背中が当たった。反射的にノブを掴んで引き下げるが、それはぴくりとも動かない。流石に息が止まった。本当に、殿下は私を襲う気だ。
「あの時は、私など気にもしていらっしゃらなかったでしょう。どうして今更こんなことを……」
「長い間一人を構うと、女はつけ上がる。自分だけが愛されていると錯覚して、面倒だ。その点、フィリアには後腐れがなく楽だからな。それに、その身体はそそる」
逆に後腐れしかないでしょう。私は人妻ですよ。
そう言い返したはずの言葉は、しかし言葉にならなかった。震える口は、意味もなく震えているばかりでその機能を果たさない。悔しい、でも身体は震えるばかり。
やはり女は弱い。
強引に扉に押し付けられ、手首を捕らわれた。じっとその整った顔で見つめられるが、身体に走るのはひどい嫌悪感だけだ。
やめて。触らないで。気持ち悪い。
そんな言葉が、言葉になるわけもなく。
もうだめだ、とぎゅっと目を瞑った。せめて、この男を視界になど入れたくはない。
だが。ひゅっと心臓が浮くような心地がして、気がつけば、私の身体は大きく傾いでいた。背中に、硬いものが当たる感触がある。視界に入る扉の枠とノブを見て、誰かが扉を外から開けたのだと遅れて気がついた。恐る恐る顔を上げれば、目に飛び込んでくるのは、
ベルナール様の、顔。
冷え切った表情には、私さえも凍りつかせるような迫力があり。それを真っ向から浴びた殿下は、ぴたりとその動きを止めていた。
「……私の妻に、何をしていらっしゃったのですか?」
静かに問いかけるその声は、丁寧な口調に対して、威圧するかのような響きを纏っていた。
「少し、話し合いをしていただけだ!」
「へぇ。見張りまでつけて、ですか?」
目に見えて、殿下が怯む。
「それに……どんな話し合いの仕方をしたら、女性の手首に傷がつくのでしょうか?」
そう言って私の手をとり、掲げてみせる。先程押さえられていたそこは熱を持って疼き、赤くなっていた。
「なっ……おい! この無礼者を捕らえよ! 向こうに非がある、王太子だろうが関係ない!」
「その呼びかけに応える人は、もういませんよ」
ふっと、ベルナール様が笑った。しかし、その目は一切笑っていない。
それにしても、言うに事欠いて、向こうに非があるとは。やはり、殿下は完全に考える能力を失っている。初めての謁見の時とは随分と異なる様子に、私は内心戸惑っていた。
「どういうことだ! エリスを呼べ! マリア!」
ああ、そういうことか。
殿下がああいった横柄な態度で、人を物のように扱うのは、あくまでも女性に対してだけなのだ。女は弱いもの。女は自分の思う通りにして良いもの。そんな心が、きっと殿下の中にはある。
鳥肌が立った。
「彼女たちは、私の味方になってくれましたよ?」
「……は?」
「ですから、私の味方になってくれたのです。どうやらどの女性たちも、女性を道具のように扱うあなたに不満を抱いていたようで、快く承諾していただきました。この王宮にいるあなたの私兵は全て制圧してありますので、兵を呼んでも無駄ですよ」
殿下の顔が赤く染まっていく。それは怒りか、屈辱か、はたまた焦りか。それはわからないけれど、天秤がどちらに傾いているかなど、考えるまでもなかった。
「なんなら、カラドニック国王にも話を通しています。彼は女性たちを平等に愛し、その力を借りて共に支え合っているという噂の名君ですから。事情をお伝えしたら、すぐに協力してくださいました」
「そっ……んなわけ」
「どうして今の今まであなたが俺の張り巡らせた罠に気づかなかったか教えて差し上げましょうか。あなたが女性たちを競わせたからです。気持ちよかったですか、数多の女性たちが自分を狙って争うのは? ですがその結果、彼女たちは自らの仕事をおろそかにした。一部例外はいましたが、彼女たちほど賢い女性は俺の国でも滅多に見られません。そんな彼女たちを駄目にしたのは、殿下、あなたです」
目が笑っていない笑顔で微笑みながら、あくまでも敬語を貫きながら、ベルナール様は殿下を追い詰める。この感想を抱くのは何回目だろうか。
やっぱり、ベルナール様は、とてつもなく、怒っている。
「ただ仕事がおろそかになったのは彼女たちのせいではありません。他国の情勢に気を配り、王太子妃としての仕事をこなすより、他の女性を虐げ、殿下に媚を売った方が権力を得られる。そんな状況で後者を選んだ彼女たちに、なんら非はありません。むしろ、責められるべきは、そんな状況を作り上げた方ではないですか?」
もはや一言もなく黙る殿下を前に、ベルナール様が一つため息をついた。
その口が、指示を出そうと開いた瞬間。
「ウィルフレッド様!!」
金切り声と共に、一人の女性が部屋に飛び込んできた。
美しく整った顔立ち。忘れもしないその声。バークレム様、かつての『月桂樹の君』だ。
「マージェリー!」
飛び込んできた彼女を受け止めた殿下が、そのまま部屋の中央で熱い抱擁を交わす。それを、私たちは冷め切った目で見つめていた。
「……先程言った例外とは、彼女のことだ」
耳元でこっそりとベルナール様に囁かれ、私は驚いてびくりと身を震わせる。身振りで謝りながら、ベルナール様は続けた。
「今回の件、女性は皆被害者であると思っていた。実際、どの女性もそうだったが、彼女だけが例外でな。声をかけても無駄どころか告げ口しかねないと思って、何も言っていなかった。あの様子を見るに、正解だったな」
バークレム様は、もともと美貌だけで王宮に入ってきたような女性だ。後は、親による強力な援助もあったという噂も聞いたことがある。
この王太子に未来はないと見切りをつけ、ベルナール様に協力するという、誰もができた正常な判断を、殿下に心酔しきっている彼女はできないだろう。
「こいつに、未練はあるか?」
殿下と一緒に罪を被らせてもいいか、と彼は言外に聞いていた。当然だ。未練など、かけらもない。
小さく首を振れば、ベルナール様がふっと微笑む。その手が、そっと私の頭を撫でた。
「……連れて行け」
ベルナール様の一言で、彼らは腕を掴まれ、外に連れて行かれた。その兵たちは皆、カラドニック王国の紋章が刻印された鎧を纏っている。彼の根回しの凄まじさに、驚くばかりだ。
「……それで」
部屋に二人きりで残された、という今の状況に、私は遅れて気がついた。
途端、つきん、と胸の奥が疼く。予想外のこと続きで追いやられていた、クラリエル様、という言葉が再び重苦しく私の胸を押しつぶした。
「あいつに、何された」
敬語も消え失せ、鋭い瞳でベルナール様は私を見つめる。これを何度思ったのか、忘れてしまった。
やっぱりベルナール様は、途轍もなく怒っているのだ。
「何も……何も、されていません」
「では、これは?」
そう言って、手首についた赤い跡をすっとなぞる。予想外の刺激に、びくりと身体が跳ねた。
「扉に押し付けられて、手首を掴まれただけです。それ以外のことは、何もされていません」
「本当か?」
「はい」
ベルナール様の顔をじっと見つめて頷けば、信じてくれたのか彼は身体の力を抜いた。その瞳に宿る炎が少しだけ大人しくなり、私はほっとする。
だが、また手首を撫でられ、ぞわりとした感覚が全身を駆け巡った。それから彼は何度も、何度も執拗に、そこを撫で続ける。
「他は? どこを触られた?」
「えっ……? その、押し付けられた時に、首筋を少し」
そう言った瞬間に、彼のもう片方の手が私の首筋に伸びた。
全身に走るくすぐったさに、私は慌てて身体を捩る。
「なっ……にを、なさっているのですか!?」
「これで、あの男の感触を忘れるか?」
どうしてそんなこと。まるで、嫉妬、しているかのような。
気がつけば、彼を突き飛ばしていた。不意を打たれて、ベルナール様がよろめく。
「っ?! ……す、すまなかった! フィリアの気持ちも考えずに、俺は」
「クラリエル様は! どう、されたのですか……」
その名を聞いた瞬間に、彼がはっと息を呑んだのが怖くて。お前は所詮お飾りだと突き付けられるのが怖くて。語尾は、尻すぼみになる。
「どうして、フィリアがその名を」
「侍女の方から聞きました。私が無理矢理問い詰めたので、彼女を責めないでください」
「……隠していて悪かった。全て話す。最初に誓って言うが、俺とクラリエルはお前が想像しているような関係ではない」
期待してしまう。喜んでしまう。けれど、本当のところは知りようがない。口で言うのは簡単だ。
そう言い聞かせる。だって、期待して、愛されてると思って、お前は愛されていないのだと突き付けられるのが怖いから。
「そもそも、婚約したとき、クラリエルは幼い子供だった。俺より、10歳も年下の」
「え……?」
王族の婚姻では、大きな歳の差があるのも珍しくないと聞いたことはある。けれど、カラドニック王国の妻は皆、妙齢の女性ばかりだったから。
「政略結婚だ。詳しい説明が欲しければするが、貴族同士の権力のバランスを取るために仕方なかった。恋愛対象どころの話ではない。妹、下手したら娘だ」
ほっと身体の力が抜ける。私は今まで何を気にして。
「ちなみに、亡くなったというのも嘘だ。お互いに歳が離れすぎてるし、クラリエルには好きな男がいた。婚約解消も外聞が悪いということで、城の皆で手を組んで逃した。もちろん、住む家や職は与えてだぞ。お互いに利害が一致して、きちんと合意あっての行動だ。怪しまれないように、一応墓となっている場所に定期的に訪れていたが、そんな誤解をされていたとはな……。流石に侍女レベルには伝えていない。フィリアにも、いつかは話そうと思っていた」
「そん、な……。ありがとう、ございます」
話してくださって。
その意は伝わったらしく、彼は申し訳なさそうに頷く。
「いや、俺が悪かった。不安にさせて」
いえ、と首を振ればベルナール様はもう一度謝って、そこで沈黙が訪れる。
先程までの行動はなんだったのか。まるで、執拗に上書きするかのような。
聞きたかったけれど、聞くのが怖い。でも、聞きたいような気もする。先に口を開いたのは、ベルナール様だった。
「これで、一夫多妻制は崩れた。彼女たちは皆優秀だったが、一夫多妻制が腐らせたことは明確だ。国王ももちろん対処するだろうし、近くの国にも知れ渡るだろう。王太子の不祥事程度なら、帝国が攻め込んでくることもあるまい」
「……ありがとう、ございます」
抑えようもなく、語尾が震えた。ぽた、と床を濡らすのは、私の涙か。
久しく泣いていなかったような気がする。久しぶりに頬を濡らすその液体は、思ったよりもずっと、温かかった。
「フィリア」
短く名前を呼ばれて、躊躇いがちに彼の手が肩に触れた。
殿下とは違う。少しも、嫌ではない。むしろ、もっと、もっと――。
「っフィリア!?」
気がつけば、彼の胸に飛び込んでいた。彼の服の胸元を掴んで、みっともなく啜り泣く。
これは、安堵だ。長い間私を縛ってきた「22番目の妻」という鎖が、この身から外れたことへの。
「好き、です……」
こぼれ落ちた声は、本当はこぼすつもりなんてなかった。
好き。大好き。
囁きながら、私はベルナール様に身を寄せる。その香りに包まれて、その硬い胸板に縋り付いて。
正常な判断力なんて残っていない。ただ、好きで、すきで。
「フィリア。俺も、好きだ」
耳元に落とされるのは、艶のある低音。
「え……?」
「好きだよ」
放心したように身体の横に垂らされていたベルナール様の手が、明確な意思を持って私の背中に回った。すき、と呟けば、安心させるように数度背中を撫でられ、堪えようもなくまた嗚咽が漏れる。
全て、終わった。
私はもう22番目の妻ではなく、ベルナール様の1番目の、唯一の、ただ一人の妻だ。
ブラッスール王国希代の名君として後世に名を残す、ベルナール・ブラッスール。そしてその彼を生涯支え続けた聡明な妻、フィリア。
彼らは、心から愛し合う良き夫婦としても、歴史に名を残しているのだという。
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