8.一緒にお昼ごはん
「あ、今日は早い」
「こ、こんにちは」
自分のお弁当と桃ちゃんが託してくれたお弁当を抱えて廊下を走る。
いつもよりかなり早い到着を、詩音先輩はそれでもきちんと待ってくれていた。
ど、どうしよう。
日付を跨ぐと、やっぱり恥ずかしくなって顔を見れない。
ぼやけた視界で先輩の顔はきちんと見えないはずなのに、照れくさくて顔を向けられない。
けれど私にはきちんと先輩と会話をするきっかけがあって、与えてくれた桃ちゃんに感謝だ。
勢いだけで先輩の目の前まで歩いてしゃがみこむ。
「こ、これ。桃ちゃんが」
「うん? 桃?」
「お弁当。食べてくださいって」
ぐっと俯いたままそれを差し出せば、少しの沈黙が流れた。
床を見つめ続ける私の視界に不意に何かが通る。
肌色の、細長い、何か。
次の瞬間、頬に温かくて柔らかい何かが触れた。
ぐいっと顔がなぜだか上を向く。
「もう一回」
「えっと?」
「桃が、なに?」
「あ。えっと。お弁当、食べてください」
「理子も、食べる?」
「は、はい! 持ってきました」
「うん、いい子。じゃあ食べる」
詩音先輩の声は、いつもよりも少しだけ高かった。
もしかして、何か嬉しいことがあったかな?
小さな小さな声色の変化が最近少しだけ分かってきた気がする。
黙々とご飯を食べながら、時々ちらっと詩音先輩を見つめる。
その度目が合って、恥ずかしくて顔が熱くなった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま、でした」
2人で揃って手を合わせる。
その後、何かが変わったわけではなかった。
会話が長く続いたわけでもない。
いい天気だねとか、眠いねとか。
そんな他愛のない短い会話を交わしたくらいで沈黙の方が長い。
けれど時間はあっという間に過ぎて、そろそろ鐘のなるころ。
「そういえば、宿題」
「え?」
「宿題、考えてきた?」
「しゅく、だい……」
思い出したように問われた内容に、私は慌てて記憶を引っ張り出す。
確かあれは人生初サボりをしてしまった時。
代わりに何が欲しいかと聞かれていた。
ああ、どうしよう。忘れていた。
色々とありすぎたせいですっかり考える余裕ななかった。
呆然と見つめ返すだけの私の頭に、ポンと何かが乗る。
温かくて大きくて少しゴツゴツとしていて、この感触を私はもう知っている。
ゆるゆると撫でられると、何故だか力が抜けて心が解れて仕方ない。ふやっとした情けない顔になってしまった。
「ちゃんと考えてね? 理子の我が儘、聞きたい」
「あ、う……」
「何でも聞くから」
知らない間に元々高かったハードルがさらに上がっていた。
だって今ももういっぱいいっぱいなのだ。
こうしてそばにいられるだけで、嬉しくなってしまう。
それ以上に何も考えられない。
「さて、授業いくかな」
「え?」
「なに、その驚いた顔。俺もたまには真面目に授業するよ」
「あ。ご、ごめ」
「ああ、でもこのまま留年すれば理子と同級生になれるかな」
「っ! そ、それは」
「……冗談。それじゃあ、また明日」
詩音先輩はほんの少し前よりお喋りになって、私を翻弄する。
けれど相変わらず空気は柔くて温かだ。
「また明日、です」
躊躇わずどもることもなく、その言葉を返せるようになった。
そうすると少しだけ先輩の雰囲気が和らぐ……気がする。相変わらず、この視力でははっきり見えないけれど。
お昼休みの10分ちょっとがいつもの2人の時間。
けれどそれ以上の時間を昨日過ごしたからだろうか。
何だか「また明日」という言葉が寂しく感じた。
あっという間に終わってしまった時間に物足りなさを感じてしまう。
顔をもっと、見たかったな。
ほくろの一つも見つけられなかった。
……もっとクリアな視界だったら新しい先輩に出会えただろうか。
むくむくと湧いてしまう感情を胸に押し込め立ち上がる。
どこかふわふわとした足取りのまま教室へと戻った私。
「ねえ、ちょっと! 今日来てたよ、王子様!」
「私も見た。相変わらずかっこ良かった……そこらの芸能人よりよっぽどイケメン!」
「ねえ、放課後見に行ってみようよ。早速囲まれてたよ、シオン先輩」
いつものようにクラスの女子達が賑やかに会話している。
影に隠れてそっと席に戻る私。
シオン先輩と、その単語が何度か耳に入った気がして慌てて視線を上げた。
「なんだ、珍しく授業行ったんだねアイツ」
「あ……桃ちゃん」
「すーぐ噂になるんだもん、大変だよ顔が良すぎるっていうのも」
「やっぱり、シオン先輩って」
「ん、“人形さん”のこと」
「人気者?」
「アイドル的な、かなあ」
頬杖ついて桃ちゃんが言う。
どことなく暗い表情に、私は何も言えなかった。