3.また明日
お世辞だったのにとか、言われないだろうか。
本当に来たのと、呆れられないだろうか。
かなりの気力を消耗し何とか扉の前へとたどり着いたものの、やはり臆病風に吹かれ中々一歩が踏み出せない。
差し出す手は冷えきって、なのに汗ばんでいる。
ゆらゆらとその手が動いて見えるのは、震えているからなのか緊張からなのか。
ごくりとツバを飲み込み、音を立てぬよう大きく息を吐き出す。
ギュッと目を強く閉じて、勢いのままその扉を開いた。
「あ、来た」
目的の人は地べたに座っていた。
近くの手頃な何かに腕から上を預け、顔だけこちらへと向けている。
こんにちは。
そう言おうとして、しかし固まった。
瞳の色がぼやけた視界でもはっきりと見えたから。
目線が合った気がして緊張が爆上がりしたのだ。
「こんにちは」
代わりにその言葉を人形さんがかけてくれる。
イメージ通りに挨拶すら出来ない自分に、情けなくて泣きそうになりながらコクコクと何度も頷いた。
ぎくしゃくと、やっぱり想定通りにはいかない足を動かして中に入る。
たどり着いたの先は部屋の奥、窓の真下の隅だ。
顔を深く下げたままその場にしゃがみこむ。
人形さんの近く……目の前に座る勇気は持てなかった。
「椅子、座った方が良いよ」
そう地べたに座る人形さんが言う。
パッと見上げて言葉を探して結局首を振るだけだ。
この物が雑然と積まれた空間、私の目には椅子っぽい何かが椅子なのか置物なのか芸術品なのか、判定出来なかった。
グッと手を強く握り締めてうずくまる。
視線は自分のスカートに一直線。
これでは何のために来たのか分からない。
そう思いながらも、これ以上身動きが取れない。
ぱさりと膝に何かがかかったのは、悶々と悩んでいる最中だった。
目に入ったものは人形さんにかけられていた布。
目を細めて良く見れば毛布だと気付く。
「冷えるから」
淡々と、やはり人形さんの表情は変わらないままだった。
いや、もしかすると少しの変化はあるのかもしれない。
けれど0.5の視力では、分からない。
そのことを初めて残念に思った。
優しい言葉。
声色も表情も変わらない彼ではあるけれど、やはり彼はとても優しい人なのだろう。
「ご……ご、めんなさい」
ようやく言葉がこぼれた。
視線は合わせられないけれど。
優しさに返せなくてごめんなさい。
ありがとうと、そこまでは口が回らない。
うずくまり視線を下げたままの私。
ふと目の前の影が濃くなる。
ハッと顔を上げれば、すぐ目の前に彼の顔が見えた。
薄くぼやけた視力でもはっきり分かるほどの距離だ。
まつげの長さを初めて目の当たりにして、本当に何から何まで人形さんのようだと思う。
相変わらず固まりきって動かない私に、彼が何かを言うことはなかった。
その代わりにポンと頭に何かが乗る。
流れのままに左右に揺れる感覚に、ようやく自分が撫でられているのだと理解した。
「な、な……」
「あ、ごめん。つい」
謝りつつもその手は止まらない。
どうすれば良いのかますます分からないものだから、ギュッと目を瞑ってただただそれを受け入れた。
ふっ、とこぼれるような笑い声が届いたのは直後だ。
びくりと肩が分かりやすく跳ねる。
けれど次に届いたのは、柔らかく小さな声。
「可愛い」
「っ!?」
思わず大きく息をのんで立ち上がってしまった。
あまりに慣れないこと尽くめで、とうとう限界がくる。
人形さんの言動1つひとつがあまりに強力すぎて自分の処理能力を大幅に越えてしまったのだ。
「あの、その」
「あ、予鈴……休み終わったね」
人形さんは何も変わらない。
淡々と、やっぱり表情のひとつも変えずこてんと首を傾げている。
「また来てね」
そうして昨日と同じことを言った。
やはり混乱したまま、足をもつれさせて扉へと向かう。
ノブに手をかけたところで、その手の力を強めた。
顔が熱い。
手がベタベタする。
頭がぼんやりして上手く働かない。
けれどと、勢い良く振り返る。
「ま、ま、ま……また、明日!」
そうして捨て台詞のように吐き捨てた言葉に、返答を待たず飛び出す。
どうして自分が廊下をこんなに全力疾走してしまっているのか、まるで分からなかった。
ぐるぐると上下に、左右に、頭が揺れている。
触れられた場所の感覚が消えなくて、体の熱もおさまってくれない。
ドクドクとうるさい心臓を押さえながら教室へと戻った。
「もう、本当見付からない!」
「あんたまだ探してたの? いい加減諦めなって、帰ったんだよきっと」
「だって久しぶりに朝見かけたのに! 挨拶くらいしたいじゃん!!」
「相手は気まぐれ王子だよ? 無理だって」
教室はザワザワと賑やかだ。
理子が顔を赤らめ戻ったところで誰も気付かない。
教室に着いてもなお緊張の収まらなくて、ひとり席で深呼吸をする。
その様子に近付く影があったことに直前まで気付かなかった。
「笹部さん? 顔、真っ赤。大丈夫?」
振り返れば、ツインテールの女子が覗き込んでいる。昨日も声をかけてくれた佐々木さんだ。
こてんと首を傾げる姿に何だか彼を思いだし、なおさら顔が熱くなった。
やはり必死にコクコクと頷くしかできない。
「えいっ」
火照った頬を佐々木さんが両手で包んでくれた。
ひんやりと冷たくて体が跳ねる。
「笹部さん、あっついよ頬!」
「あ、その、廊下……全力疾走」
「ええ? どうしてまた」
「えっと、えっと……」
入学してから今までまともに会話が成立した試しがない。
だからどう反応するべきか迷って、ぐるぐると思考を回す。
必死に言葉を探しては、言いどもる私はさぞ不審だろう。
けれどそんな私に佐々木さんはふっと吹き出すよう柔く笑った。
「笹部さんって、素直で可愛いよね」
「え、か、かわ!?」
「ふふ、残念。休み時間終わりかあ、また後でね」
一体何がどうしてこうなったのか分からない。
一体彼女に何が起きて自分と会話しようとしてくれているのか。
可愛いのは、佐々木さんの方だ。
ころころと表情が変わるし、笑顔は明るくて温かい。
教室に馴染めていない私を何度も気にかけてくれる。
また、後で。
また話しかけてくれるのだろうか。
次はもう少しきちんと会話になるだろうか。
胸がザワザワと騒ぐ。
心臓が浮くような、時間の流れがもどかしいような、そんな感じで先生の声が耳に入らない。
ああ、嬉しいんだ。
理解するまで数時間かかった。
「笹部さん、また明日ね」
結局のところ、佐々木さんがその後かけてくれた言葉はたったの一言。
けれどその一言が嬉しくて、大きく頷く。
深呼吸をして、手を握りしめ、必死に口を開いた。
「ま、ま、また、明日っ」
そうして何とか紡げた言葉に、笑い返される。
「うん、また明日!」
弾けるその笑顔に、とても嬉しくなる。
再び席に座って噛み締める。
昨日言えなかったことが言えた。
ほんの少しだけ、会話になった。
たった少しの前進が誇らしかった。
「お、笑った。笹部って笑うのな」
「てか、普通に良い奴そうじゃね?」
「何であんなに怯えてんだろうな。普通にしてりゃいいのに」
「色々あるんでしょ、色々」
そんな会話など耳には届いていない。
ざわざわと下校する生徒達の声にかき消され、埋もれた。




